2 angel's capacity (5)
ヒュキアは小さく舌打ちをする。
「知らなかった。二週間も生活していた部屋のセキュリティが、そんなに脆弱だったなんて。」
「日本は平和なんだ。いや、日本じゃなくてもお前は特殊すぎる。そういうわけで、お前は僕の部屋で眠らなくても、この部屋のベランダを通って隣の部屋に入れる。」
「参考になったわ。ありがとう。」
彼女は僕の部屋のガラス戸のロックを外してベランダに出て、僕がそれを追いかけて窓辺に立つのと同時にひらりと身を翻して隣のベランダに移り。
がっちゃあああああん。
盛大な音を立ててベランダに面したガラス戸を破壊した。
時刻は午前四時前である。今の音で、ご近所さんの大半が目を醒ましたに違いない。
慌てて駆け寄って隣のベランダを覗き込むと、どうやらヒュキアはガラスの下半分を蹴り抜いたらしかった。裸足で。お前は空手家か何かなのか。
「そんな割り方をしなくても、ロック部分のガラスを少しだけ割ってロックを解除すれば開けられただろう」
僕は小声で叫ぶ。
「私が出入りできる大きさの穴を開けるほうが早いじゃない」
「そうかもしれないしそうじゃないかもしれないけど。今の音で近所が騒ぎになったらどうするんだ。ひとまずこっちの部屋に戻って来い。」
もし誰かが警察に通報して隣の部屋に警官が来たりしたら、彼女は逃走するしかない。付近の誰も顔を出していない今のうちならば、ヒュキアは僕の部屋に戻ったほうが安全なはずだ。
「分かったわ。」
その言葉とは裏腹に、彼女はガラス戸の下半分に開いた穴を通って室内に入って行った。かと思うとすぐに出て来る。
長柄の槍のようなものを手にして。
そして、再び身軽にベランダの柵を跳び越えてこちらに戻って来た。
その間、僕は気が気ではなかったが、幸いにしてアパートの住民がベランダを跳び移る彼女を目撃することは無かったようだ。
僕はヒュキアを部屋の中に押し込みながら言った。
「何をしてるんだよ」
「大切な物なの。」
彼女はその長物を抱きしめるような仕草をした。
近所の人々は多少はざわついたり部屋の明かりを点けたり窓を開けて周囲を窺ったりしていたけれど、結局は誰も通報まではしなかったらしい。隣室のドアを叩いて『近所迷惑だ』と叫ぶような輩もいなかった。『あの音は何だったんだろう』で済むことを祈ろう。
部屋の中に入っていたヒュキアに、僕は振り返った。
「後先というものを考えろ。」
「あんなに大きな音がするとは思わなかったもの。」
ヒュキアは拗ねたように呟いた。言い訳をするように申し添える。
「……今のところ近辺に、警察に通報しようという思考を有している人物はいないわ。」
「君は、姿が見えない相手の思考を読むことができるのか?」
「相手の姿が見えていたほうが情報量が多いから能力の精度は向上するけれど、見えていなければならないという制限は無い。視覚の他にも聴覚や嗅覚、音にならない空気の振動といった情報源は存在する。さっきは、この場所が見える範囲内に居る全ての人間がまだこちらに注意を向けていないことを確認しながらテラスを移動したの。誰にも見られてはいないはず。多大な集中力を要するから、かなり消耗してしまったわ。今の疲労度で同じことをもう一度はできない。もしかすると、夜が明けてから通報しようという発想に至る人が居るかもしれない。私は、ここから逃げたほうがいいのかしら?」
「……いや。それだと悪目立ちする。今この部屋から出て行くところを誰かに見られたら明らかに不都合だ。」
『ヒュキアが僕の部屋を経由して隣室に泥棒に入った』とかいう話になりかねない。そうなったら僕は最低でも逃亡幇助の嫌疑をかけられるだろう。下手をすると窃盗犯と間違えられるかもしれない。
「もし警察が来たら、君は僕の部屋に遊びに来ているという設定で当面は口裏を合わせるんだ。『大きな音がして驚いてベランダに出たら隣の部屋の窓が割れていた』とか言えばいい。その後のことは、そのときになってから考えよう」
彼女は頷いて、持っていた槍のようなものを壁に立てかけた。
「悪いけれどここで眠らせて。私は眠っている間は他人の思考を読むことはできないから、隣の部屋で眠ることはできない。どうせ私の部屋のベッドにはガラスの破片が散らばっていて、すぐに横になれる状態じゃなかったし。」
そして僕のベッドに横たわって掛け布団に包まってしまった。
僕は窓を閉めてカーテンを閉め、ヒュキアが壁に立てかけた槍状の物体に目を遣った。
槍と呼ぶには穂先の鋭さが些か足りない。
これは……銛か。
集中力が尽きるほどの労力と引き換えにしてでも手元に置いておきたい大切な物がパスポート(偽造だけど)とかではなく銛だというのは、一体どう捉えればいいのか。
銛ガールなのだろうか。
僕がヒュキアの顔を覗き込んだ時には、既に彼女は小さな寝息を立てて眠りに就いていた。




