1 angel's angle (1)
「Like my saying, dike your says.」
流行歌を口ずさみながら独り歩く。メディア上ではJポップなどと呼ばれる種類の曲だ。さっきカラオケで誰かが歌っていたメロディが何となく耳に残り、今になって我知らず口をついて出てきた。
しかしJポップって。その呼称が既にして全く垢抜けないような気がする。気のせいか?
多分、ポップという単語が最初から古臭いのだろう。キッチュとか、レトロとか、そういうのと同カテゴリーに分類される語句に違いない。
こんなことを声に出して発言したら、文句が有るなら歌うなよ、と誰かに叱られそうだ。しかし僕はJポップという語彙に対して違和感を覚えているだけであって、該当するカテゴリー内の音楽が嫌いなわけではないのだった。経験的に、その辺りのニュアンスが相手に伝わる確率は低い。だから、そういうことは人前で口に出さないことにしている。
文句が有るなら歌うなと突っ掛かってくる人が居たとしたら、多分その人は、Jポップと呼ばれるカテゴリーに属する曲が好きなのだろう。
どんな言葉に対してでも誰か一人くらいは腹を立てる。誰のことも傷つけない表現なんて存在しない。無意味音の羅列が他人の地雷ワードだったりする可能性は少ないとは思うけれど、ゼロ近似ではあってもゼロではない。自分にできるのは精々、誰を傷つけたくないのか、どんな人に嫌われたくないのかを選ぶことぐらいだ。それさえ必ずしも予想通りにはいかない。
そんなふうにして当たり障りの無い言葉で成り立っているように観察される世間の人々の会話を耳に入れて、世の中というのは上辺を取り繕う『事なかれ主義』な連中ばかりだと苛立つ人だって居ないわけではない。つまり、無害な世間話だって誰かのストレスの要因に成り得るということだ。
発言した結果として誰の気分を害することになろうと言わなければならないことというのは、やっぱり有るのだけれど。
ともあれ、内心で何を思うのかは各人の自由だ。
そんな物思いに耽りつつ道路の角を曲がると、女の子がいた。
僕はコンパ(合コンではない)の帰り道で、そこは夜の建設現場の前で、彼女は見知らぬ外国人だった。
夜闇に浮き上がる明るい髪の色と、髪色に負けないくらい白い肌の色。エメラルドグリーンの眼。妙に露出度の高い、肩がむき出しの服装。背丈は小柄で、遠目にも手足が細い。そういう若い女性が、建造中の鉄筋を背景に従えて突っ立っていたのである。
一瞬だけ自分の目を疑った。なんというか浮世離れした光景だ。
コンパ帰り(しつこいようだが合コンではない)とはいえ、さほど酔いは回っていない。自分は酔っていないと主張するのが酔漢の常だという点を差し引いても、客観的な事実として一人で帰宅できる程度には意識がはっきりしている。どうやら幻覚や幽霊の類ではないらしい。
人を見かけで判断するなという先人の箴言に従うなら相手の風貌がどれだけ日本人離れしていたとしても即座に外国人であると決めつけるのは褒められたことではない(ハーフだとか帰化しているといった可能性は幾らでも有る)のだけれど、咄嗟にそう判断してしまった自分の感性までもを責められる謂れは無い。
要するに当該人物への応対に配慮を欠きさえしなければ、それでいいのである。
驚いてうっかり道端で立ち止まっていたことに気が付いた僕は、歩みを再開する。
先程までと同じ足取りで。
歌は歌わないけど。
しかし緊張するなー、と内心ぼやきつつ彼女との距離を数メートルまで縮めたところで、唐突にその姿が視界から消えた。
「え?」
僕が間抜けな声を発した時、既に身体は仰向けに倒れた状態になっていた。背中がアスファルトに打ち付けられる衝撃。
間髪を置かず、至近距離に白い顔が迫ってきた。勿論さっきの女の子だ。僕のシャツの胸元を掴んで、馬乗りの体勢になっていた。
近くで見ると少女と言っていい若さなのが分かる。西洋人にしか見えない色白さに比して顔の造作はどことなくエキゾチックで、唇の輪郭がはっきりしているのが印象的だった。まだ状況を把握できないまま、その唇が開かれるのを呆然と見つめる。
「ねえ、フトウって何?」
やけに情彩の無い声だった。それを日本語だと認識するまでに数秒を要する。答えられずにいる間に更に言葉が降ってくる。
「大丈夫。頭は打っていないわ。」
言われてみれば、後頭部に痛みは覚えなかった。倒れる時に少女がシャツを掴んでいたため、背中を打っただけで済んだらしい。
いやいやいやいや。
この女、もしかして僕を路上に転がらせた張本人なのか。
背中だって打ちどころが悪ければ脊髄を損傷して後遺症が残る危険性が有るんだぞ。
「ねえ、貴方、フトウって何か知ってる?」
「不当と言うなら今まさに僕が置かれているこの状態が不当だ。」
「やっぱり頭を打ったのかしら。」
全く悪びれずに呟く彼女に確信する。
間違い無い。こいつは通りすがりの一般人に足払いを掛けるか何かの危害を加えた上に、さも当然のように胸座を掴んで詰問しているのだった。
初見時にちょっと可愛いとか思ってしまった自分が悔しい。
怒りに火がつこうとする瞬間を狙ったように彼女が手を放した。ごん、と頭蓋骨が路面に衝突する。
「つっ……」
身を捩って後頭部に手を当てる僕には目もくれず、エキゾチックな白人の少女は周囲をささっと窺うような仕草をしてから、僕を両手で抱き上げた。
お姫様抱っこで。
知らない人のために解説しておくと、お姫様抱っこというのは両腕で相手の膝と背中とを支える形で抱え上げる方法だ。抱き上げる側ではなく抱き上げられる側をお姫様に例えている辺りに僕は微妙な引っ掛かりを覚えないではいられず、むしろこの言葉は王子様抱っこと呼んだほうが正しいのではないかと思う。それは抱っこという語が多分に主体的かつ能動的な意味合いを想起させるからだろう。修飾と被修飾における主客が逆転している気がするのだ。この主客の転倒は所謂ギャルゲーと乙女ゲーという通称における主体の有り方の逆転現象と相似しているような気がする。考察の余地が有るだろう。
いずれにせよ、現状は明らかに抱っこする側と抱っこされる側とが反対だった。
「いや、無いだろう、その細腕で。どんな腕力をしてるんだ一体!?」
ショックの余りに先程までの怒りも忘れて叫ぶ僕を抱え、あまつさえ彼女は夜道を走り始める。
冗談じゃない。自分よりも小さい少女に易々と抱き上げられて堪るものか。それはまあ僕の体重は平均より軽いけれど、この娘よりは重いはずだ。いくらなんでもプライドが傷つく。
「馬鹿。」
走りながら彼女が呟いた。
僕は振動の合間に呼吸するタイミングを掴むのに必死で追究できなかったのだが、今のは何に対する発言なのだろうか。謎だ。
ひょっとして、不可抗力で僕の腕が彼女の胸部に接触してしまっていることが気に障ったのか。しかし、それは僕の責任の範疇ではないだろう。
「大馬鹿。」
再び彼女は無感動な声で呟いて、心なしか僕の身体を体幹から遠ざけた。走りながら。
あの、それって必要とされる筋力が大幅に増加しそうじゃありませんか?