第三章 彼女の本心と総意
少女は物心ついた時、一人だった。
広大な屋敷を与えられ、何不自由のない生活を送っていたが、孤独だった。親兄弟の代わりに自身の世話をするのは侍女たちであり、少女は家族というものを現物で見たことがなかった。
六歳になってまだ、少女は母親のぬくもりを知らない。
侍女たちは少女に日常生活に必要な知識を教えた。育ての親ということになるのかもしれないが、侍女たちが少女に向ける眼差しは恐怖と怯えで引き攣っていた。
一度、少女が侍女の一人に気安く触れようとした時、悲鳴を上げられながら逃げられたことがある。それ以降、少女は誰にも触れようとはしなかった。侍女たちの……大人のそんな態度が怖く、また気持ち悪かったからだ。 だから少女は人の温かさを知らない。
侍女たちの腫れものに触るような、まるで化け物でも飼っているような異様な接し方はただひたすらに不気味であり、強い孤独感を少女に与えた。
寂しくて少女が家族に会いたいと懇願しても、侍女たちは許しを請うばかりで話にならない。
抱きしめてほしくて泣き叫んでも誰も来ない。叱られたくてイタズラをしても誰も来ない。侍女たちは怯えた表情で少女を育てるだけで、そこに愛などは微塵も含まれていなかった。
金で雇われたか、大きな負債を背負ったか、それとも少女自身を恐れているのか、侍女たちの態度は何年経とうが変わらない。
辛く苦しい日々に終わりはなかった。
そんな環境で少女は育ち、いつしかこんな環境に自分を閉じ込めた家族を激しく憎んでいた。
それしか生きる理由が見付からなかったからだ。そう思わなければ、少女は生きることさえ辛かった。復讐心だけが、少女の心を壊さずに生かし続けた。復讐だけが生きる希望だった。
どうやって復讐するか、少女はそれだけを朝から晩まで毎日考え、時には実行してきた。
だが相手は強大だった。一人の少女が立ち向かうにはあまりに大き過ぎる世界的大企業。
金や権力、腕力でさえ遠く及ばない存在だった。
やがて年月が過ぎて少女は一三歳となったが、復讐は諦めていなかった。
そこで初めてと言える出来事が起きた。家族から少女宛てに手紙が届いたのだ。それは三心教高校に入学しろという命令のような内容だったが、少女は清く受けた。
手詰まりだったのもある。家族がどうしてあのような環境に自分を閉じ込めた理由を知りたかったのもある。自分がいったい何者なのかという答えを知りたかったのもある。
だけど本当は、屋敷の外に出たかったという理由が一番だった。
しかし三心教高校で少女を待ち受けていたのは、無能のレッテルと周囲の激しいイジメと差別だった。屋敷の中と同じぐらい、そこは少女にとって苦痛に満ちた環境だった。
本当の目的を果たすため、少女は偽りの自分を装い、着々と計画を進めた。どれだけ周囲に何を言われようと、何をされようと、笑って済ませて乗り切った。
そんなある日、いつものように罵倒を受けていた少女の前に、一人の生徒が立った。同じクラスに転入してきた……名前は確か、リンという、影のある儚い笑顔が印象的な少女だった。
★
懐かしい夢を見て、秋香は眼を覚ました。
だが眼の前に広がる光景は、現実から大きくかけ離れたモノだった。
何もない空間である。心にできた空白のような、どこまでも続く空虚な空間だ。
その中で一人、立っているのか浮かんでいるのか、何も判別できない状態で、秋香はクスリと思い出し笑いをする。
リンとの出会い。イジメられていた秋香を見て、リンは後先考えずに割り込んできたのだ。そこからクラス全体を巻き込んだドタバタ騒ぎに発展して、最終的には友達になった。
偽りの存在である秋香という少女と、リンという少女は友達になったのだ。
「ようやく目が覚めたんだね。危うく私一人で始めるところだったよ」
秋香の前に、誰かが舞い降りてきた。それはもう一人の秋香だった。
頭に木の枝を思わせる二本の角、背中から蝙蝠のような一対の翼、先端が鋭く尖った尻尾、手足からは鋭い爪が生えていることを除けば、秋香と瓜二つだ。
「なんとか間に合ったのかな。えっと……初めまして? 私のソウルバディ」
「うん、こうして話をするのは初めてだよ、嬉しいな」
秋香が無理やり作る笑みではない、純真無垢な子供のような笑顔をソウルバディは浮かべた。
産まれてから一度も話をしたことがないソウルバディが居ることを考えると、どうやらこの空間は秋香の深層心理のようだ。
随分殺風景な心だと秋香は地味にショックを受ける。
「ねぇ、復讐を始めようよ。あなたの計画からは大きく外れた形だろうけど。なんの問題も無いよ。私の力ならやれる、誰にだって負けない、きっとあなたの思い通りにできる」
ソウルバディは秋香に手を差し出す。第三世代のソウルバディ、誰も対抗できない次元を超えた力を使えば、目的を達成することは容易だろう。
秋香の目的、それは四季家に対する復讐だ。
爆破予告を止めるなんて建て前で、自分を知ることが目的だなんて綺麗事で、その実は子供の頃からずっと恨んでいた家族に対する復讐のためにここまできた。
虐げ、傷つけ、あの屋敷に閉じ込めた家族に対する復讐だ。
「あの忌々しい屋敷に閉じ込めた四季の家に復讐しようよ。私はあなたのソウルバディ、あなたの心、あなたの本心だから理解できる、共有できる。あなたが抱いている怒りを、悲しみを」
ソウルバディは人間の心が物質化した存在、偽りのない本心とも言える。
極端に言ってしまえば現状は自分自身と話をしているようなモノだ。だからソウルバディの言葉は全て真実だ。嘘偽りのない、秋香の本心だ。
「……あなたは私の復讐心が生んだソウルバディなんだね」
「うん、あなたが隠してきた復讐に対する想いが私の糧だよ」
だからこのソウルバディは今まで姿を現せなかったのだ。
秋香が自分を偽り、復讐を果たすという己の本心を隠してきたことで、このソウルバディも姿を現せなかったのだろう。
秋香という少女では、このソウルバディは呼べない。復讐に燃える四季の娘としてでなければ、呼ぶことができなかったのだ。
「もう偽らなくていい、我慢しなくていい、あとはもうおもいっきり暴れるだけでいいんだよ。あなたの本性を曝け出して、一緒に暴れよう!」
復讐を果たせることに対する興奮からか、ソウルバディの言葉には熱が入っていた。
偽りの存在である秋香とは違う。ひたかくしにしてきた本心であり、誰にも言わなかった本音であり、心の奥底に閉じ込めてきた自分自身でもある。
眼の前に居るのは、秋香より本当の彼女に近いソウルバディなのだ。
「うん、そうだね、そのために私はここまで生きてきたもの」
秋香は差し出されたソウルバディの手を握った。握って、引き寄せる。
ソウルバディは抵抗する素振りも無く引き寄せられ、秋香に抱きとめられた。
「だけど、ごめんね」
「え?」
秋香が何を言ったのか理解できず、ソウルバディは呆けたような表情を浮かべる。
「ごめんね、私は……秋香のままでいるよ。嘘の自分を続けるよ」
謝罪の言葉、そして拒絶の言葉を秋香は告げた。
「……なんで? どうして! あなたは復讐のためにここまで来たんでしょ! 友達を裏切ってまで……なのに、どうしてやめちゃうの! あなたの本心は復讐を望んでいるのに!」
こんな土壇場で拒絶され、ソウルバディは信じられないと声を荒げる。
「そうだよ、私の本心は復讐を望んでる。でもね、それが本心だけど、私の総意じゃないんだよ。復讐を成し遂げたいという気持ちはあるよ、でもそれよりちょっと弱い気持ちだけど……このまま今の秋香という自分を続けたいと思う気持ちも有るんだよ」
本心であって、総意ではない。ソウルバディは心のもっとも強い部分の影響を受けた存在であるが、人間の心は一つの感情では言い表すことができないほど複雑だ。
感情には強弱があり、種類もある。一辺倒では済まされない。
たった少し、心の片隅に生まれた想いでも、心を揺さぶることはある。
「こんな土壇場まで来て、この気持ちは消えなかった。どうしようもない所まで来て、なんかやる気無くなっちゃったんだよ。ほんと、どうしようもないぐらい馬鹿だよね……私」
友達を裏切り、元の状態に戻れなくなるかもしれない手段を取り、そこまでしても今のままを続けたいという気持ちは消えなかった。だから決めたのだ。遅いにもほどがある。
「どうして、なんでそんな風になっちゃったの?」
戸惑いを隠せないソウルバディは早口でまくし立てる。
「言ってしまうとね、私は世間知らずの箱入り娘だったんだよ」
あんな屋敷に閉じ込められ、外の世界のことなど何も知らず、自分の世界だけで物事を考えて復讐を決意した。
だが秋香は三心教高校に出向き、外の世界を知った。
「世の中、下には下が居るものだよね。あんな屋敷に住まわせてもらっていただけ、勉強を教えてもらえるだけ、育ててもらえただけ、私は幸せだったんだよ」
「それは客観的な意見じゃないの? あなた自身は……それが辛くて、四季家を恨んだ」
「うん、恨んでるよ。今もずっと恨んでる、死んでも許さない」
「だったら」
「でも、私の人生ってそれで良いのかなって思っちゃったんだよ。復讐に生きる人生で良いのかなってね。私より辛いことを沢山体験した人達は、今を凄く楽しんでるよ」
秋香が所属するクラスの生徒全員が、大なり小なり辛い目に遭ってきた。
しかし彼らは今学生生活を謳歌している。友人たちとふざけながらテスト勉強に励んでいる。
「それを見てたらね。なんか自分がしていることが馬鹿みたいに思えてきちゃったんだよ。なんで恨んでる相手のために自分の人生を浪費してるのかなって。もったいないことしてるなって」
自分の人生は自分のために使うものだと、そんな当たり前のことに気付いたのだ。
「……それで本当にいいの? 復讐心をずっと抱いたままで、本心を隠したままで」
「本心曝け出したままじゃ、世の中は生きていけない。外の世界に出て、私は学んだよ」
「なんだかつまらない大人のようなセリフだ。……でも、うん、あなたが決めたならそれでいい」
仕方がないと言わんばかりの呆れた表情でソウルバディははにかんだ。
「ごめんね、わがままに付き合ってもらって。それにこれからも我慢してもらうことになる」
本心を隠した秋香ではソウルバディを呼べない。これからも眼の前のソウルバディは秋香の心の中から出られないことになる。
「ううん、私はあなたの心だから。あなたがそう決めたのなら、それが私の意思になる」
ソウルバディは拒絶することなく、笑顔で秋香を受け入れた。
「こっちの秋香を本当の私にするから、あなたを呼び出せるように……必ずなるから」
「待ってる。私はあなたの心、あなたの力、あなたの味方。いつか一緒に遊ぼうね」
秋香は誓う。ソウルバディが浮かべた寂しげな笑みに、過去の独りぼっちの自分を重ねながら。必ず呼び出せるように、一緒に遊べるように、必ずなると誓った。
『……っ! ……香っ!』
突如、頭上から途切れ途切れの声が届く。しかし秋香には、それが誰だかすぐにわかった。
「ほんと、なんで迎えに来るのかな……このお人好しは……」
心の隙間を埋めてくれた友人の声に、秋香は嬉しそうに呟く。
もう一度だけソウルバディを強く抱きしめ、秋香は離れる。
「じゃあ、いっぱい謝ってくるよ。許してもらえるかわからないけどね」
最後の最後で茶化した秋香に、ソウルバディは困ったような笑顔を浮かべて姿を消した。
それを最後まで見届けてから、秋香は声がする方向に手を伸ばす。
すると視界が真っ白な光に埋め尽くされ、首の裏側で何かが壊れる音が響いた。