第二章 冷静に
『駄目です! お姉様!』
それは慟哭のような悲痛な絶叫。ドライが初めて放つ感情的な声だった。
ヴァイの胸に痛みが走る。知っている痛み、ドライと初めて接続を行った時に感じた痛みだ。
リンの手刀がヴァイの左頬を貫く。
鮮血が飛び散り、『氷を纏う』リンの手を紅く汚す。
貫かれた頬から鋭い痛みが走り、口の中に血の味が広がるが、手刀は頬を貫いただけで止まっていた。
リンの手刀が、彼女の手が膜のような薄い氷によって覆われていた。そこに纏っていたはずの心波のみが凍結しているのだ。
その現象にヴァイは驚きを隠せなかった。
『止まってください! こんなことをお姉様は望んでなんていません。そんなガラクタになんて惑わされないで、正気を取り戻してください! お姉様が本当に望んだことは、もっと違う形のはずです。こんな形では絶対にない、違う! 間違っています!』
「……っ! 私ハ……秋香を、ヴァイを護るタメに、コレガ間違っている方法でも」
怒声に近い嘆きに圧倒されたかのように、リンがヴァイから手刀を引き抜いて数歩離れた。
『間違っているとわかっているならやらないでください! こんなの二人共辛いだけじゃないですか! 間違ったやり方で正しい形になるのなら……誰も後悔なんてしないんですよ!』
「ドライ、落ち着け……」
ドライのらしくない振る舞いに、ヴァイはリンの発言から立ち直ることができていた。ドライが叫ぶ度に、感情を迸らせる度に、ヴァイが感じる痛みが強くなっていくからだ。
ドライが宿している感情が膨れ上がり、ヴァイに影響を及ぼしているのだ。暴走するまでのような強い感情ではないが、集中力が乱される。
普段が人形めいているので勘違いしていたが、ドライはかなりキレやすいようだ。自分自身を悪用していた研究員や、自分勝手な謎めいた行動を見せる三心教高校に対して毒を吐いていたように、意外と感情的になりやすい。
『ですがマスター!』
「大丈夫だ、もうやられん。とにかくあいつを止めなければ、何も始まらない」
もう大丈夫だと、ヴァイは平静な口調で伝える。
全く動揺していないというのは嘘だが、ドライの言葉に秘められたヴァイとリンを想う気持ちに気付けないほど取り乱してはいない。
もう一度、大丈夫だと言葉にする。
『っ……すみません、取り乱しました。マスター、後悔無き戦いを』
何とか自制できたか、ドライは最後にそう言って沈黙する。
わかっている。口の動きだけそう言って、ヴァイはリンを見据えた。
リンは自分の胸元を抑え、うずくまるように縮こまっていた。ドライの言葉が相当効いたのかもしれない。
リンのことを知っているはずのヴァイの言葉より、ドライの言葉が的確にリンに影響を与えている。
その事実に、ヴァイは二年という長さと自分の思い違いを痛感した。
「間違っテいルのはわかっていル! だけど、だけど私は……こういうカタチでしか護れないから……。だから例え後悔することにナッテモ、二人が傷ついても、それで護れるのナラ。
そうだよ、私ガ護る、護るカラ……ヴァイはもう戦わなくてイイんだヨ? それでも戦ウなら、傷つくナラ……二度と戦えないヨウにしてあげる。ソれでモウ……傷つかないでショう?
あ……や! 違ウ! 違う? 間違えてる。私……ヴァイと一緒に……秋香とも一緒に? ぐっ! い……や、私……ヴァイ……ヴァイ……私、このままじゃ……お願い、逃げて」
苦しそうにリンは呻く。正気に戻りかけている。抗っているのだ。無理やり感情を高められ、理性の枷を外された状態で、それでも必死に踏み止まろうとしている。
「話はお前を正気に戻してからゆっくりとしよう。確認したいことが山ほどできたからな。じっとしていろ、いや、暴れてもいい。どうであろうと止めてやる」
リンを止めるには彼女の身体のどこかに在るチップを外すか破壊するしかない。
「私……護る、護るために。だめ、もう……抑えられない。逃げて、ヴァイ……」
周囲の大気が揺らぐ。リンの全身から溢れ出した高密度の心波が大気にまで影響を及ぼしているのだ。まるで世界が軋んでいるように、大気の乱れによって発生する音が鼓膜を震わせる。
リンの手を覆っていた氷の膜が溢れ出す心波によって砕かれる。
今のリンは全身が凶器の状態だ。ヴァイは触れるだけで切り裂かれるだろう。
ならばどうする? 先程のようにリンが体表に纏った心波のみを凍結させ、動きを封じることはできない。
さっきのはヴァイが意識的にやったことではない、無意識下で行った条件反射のようなものだ。できることには間違いないが、ぶっつけ本番で試すにはリスクが高過ぎる。下手をすればリンの全身を凍結させてしまう。
まだドライの心能力を相手に向かって直接使うことには抵抗がある。対象を問答無用で凍結させる以上、この心能力には手加減が存在しないからだ。
それなら方法は一つ。ドライの心能力でチップを凍結させ、機能を停止させるしかない。
研究所での一件や草士朗の時から考えて、チップの所在はある程度予想はできている。あとは確認だけだ。
「どうであろうと止めてやるとオレは言ったぞ」
ヴァイは盾を手放し、数歩下がって両腕を胸の前で構える。
「あああああああああああああっ……!」
リンが一直線に駆け、ヴァイとの間に置かれた盾を跳び越えながら接近してくる。
加速が乗った貫手がヴァイの胴体目掛けて突き出された。
ヴァイはリンの攻撃を見切り、身体を半歩分だけ左に動かし、左脇腹の上を滑らせるように紙一重で貫手をかわす。
直後、ヴァイの脇腹から血が噴き出した。当たっていないにもかかわらず、リンが体表に纏った心波が刃となってヴァイを切り裂いたのだ。
「ぐっ!」
まるで刀で斬りつけられたかのような一本線の傷口から鮮血が流れ落ちる。だが傷を負うことは承知の上だ。
紙一重で避けた、いや、完全には避けきれなかったリンの貫手はまだ突き出されたままだ。
貫手が戻される前にヴァイは右腕を伸ばす。リンと同じように『心波でできた氷の鎧を纏った』腕を伸ばし、リンの腕を絡め取った。
リンがもう片方の手をヴァイの眉間に向かって突き出す。
ヴァイは顔を左に倒してかわすが、貫手を掠めた右頬から血が飛び散る。
構わずヴァイは左腕をリンの首の後ろに回し、その長い後ろ髪を払いのけた。それだけで左腕が纏う衣服がズタズタに裂けるが、ヴァイは叫ぶ。
「ドライ!」
『首の後ろ! 草士朗様のソウルバディと同じです!』
リンの背後に置かれた盾からドライの声が響く。
「おおおおおおおおッ!」
ヴァイは右肩からリンに体当たりを喰らわせ、そのままのしかかるように押し倒す。
もつれあうように二人が倒れる先には、ドライの盾がある。その上に倒れ込む。
盾を持ったままではリンの動きについていけず、盾を手放した状態ではリンを止められない。
ならばリンの動きを封じた状態で盾を手にすれば良い。
押し倒したリンの上に馬乗りになり、右手で頭を掴んで抑え込む。
リンが突き出した貫手が左肩を削り、全身を接触させているせいで身体中に浅くはない切り傷ができていく。
「凍れ!」
盾に左手を伸ばし、ヴァイは咆哮した。
リンの身体に付けられた異物が一瞬で凍りつく。
同時に操り糸の切れた人形のように、リンが力無く地面に横たわって動きを止めた。
それを見届け、ヴァイはリンの隣に並ぶように倒れ込む。
「マスター、大丈夫ですか!」
接続を解除したドライが、ヴァイの頬に触れた。その小さな手がヴァイの血で汚れる。
「全身が痛い」
素直に答えながら、ヴァイは隣に倒れるリンの顔を見る。
まるで怖い夢を見ているような、苦しそうな表情をしていた。
「リンちゃん!」
その事に小さくはない苛立ちを感じていると、固唾を呑んで二人の戦いを見ていた秋香が走り寄ってきた。
秋香はリンの傍で膝を付き、口の前に手をかざして呼吸音を確かめたり、胸の上に手を置いて心音を確かめたりした後、泣き笑いのような表情でリンの頭をきつく抱きしめた。
ヴァイは何とか上半身を起こし、念のため脈も計ろうかとリンに右手を伸ばすが、自分の手が血で染まっていることに気付いて止めた。
(やはり、傍に居るべきではない)
リンを抱きしめる秋香の姿を見て、ヴァイは改めてそう思った。
「マスター!」
ドライが強張った表情で声を上げた。ヴァイの身を案じての発言ではない。ドライはグラウンドの一角を見ている。
ヴァイはドライの視線を追い、即座に跳び起きてリンと秋香の前に出た。
「まさか失敗作が本物に勝てるとは思わなかったよ。うん、これは貴重な発見だ」
月明かりの下に一人の男が姿を現した。背はそれほど高くなく、線の細い男だった。研究員と言われれば納得がいく、そんな男だ。名前はヤナセ・カギナリ。
ここまでくれば間違いない、ヤナセがヴァイの追う人物であり、リンや紅葉、草士朗を傷つけた敵だ。
ヴァイはしきりに頷くヤナセを見る。その眼は人に向けていいモノではなかった。
「久しぶりだねナンバー1133、記憶の混濁はなくなったかい? まだ夜な夜な泣き叫んだりしてないよね?」
だがヤナセはヴァイの殺意に気付いた様子はなく。むしろ存在にすら気付いていないように、ドライに話しかけた。
「誰ですかあなた、親気取りで話しかけないでくれますか? 不愉快です」
気安く話しかけられ、ドライが半眼で睨み返す。
「そういえば直接顔を合わせるのは初めてだったね。君のパパだよ、パピーと呼ぶのもありかな」
「今すぐくたばってください、この腐れマッドサイエンティスト野郎」
「うんうん、元気なようだね。君をブービートラップに使ったのは悪かったと思うよ。あの時は逃げるのに必死でね。
でも、おかげで新しいマスターに出会えたのだからよかったじゃないか。そのまま上手くやれば君を生み出すのに使ったソウルバディ達も浮かばれるだろう」
それは間違っても、己の研究を進めるために数えきれない数のソウルパディ達を犠牲にした男が言うセリフではなかった。
「っ! どの……口が」
ドライが全身を震わせる。頭に血が昇り過ぎて言葉が上手く発言できていない。
「間違ったことは言ってないだろ? せっかく何百体も材料にしたんだ、使えるモノになってないと材料が無駄になっちゃうじゃないか。ああ、いや、君の前の試作を含めると何千体かな?」
指折り数えるヤナセに、とうとうドライは言葉を失ってしまう。
清々しいほどの外道である。ヴァイは逆に安心した。これなら躊躇いなく潰せる。
「できればまた君のデータを取りたいかな。色々な要素が重なっているとはいえ、本物を倒すという思わぬ進化を遂げているようだし。それに他の子もね」
「させると思うか?」
ヤナセが向ける物欲の眼差しを遮るように、ヴァイは更に前へ出る。
「君にも少しは興味があるんだけど、もっとやりがいがある研究対象がいるからパスかな。そっちの黒髪の子も残念なサンプルだったし、でも貴重なサンプルであることは変わりないか」
ギリ。ヴァイは無意識に拳を強く握り締める。
「というか気持ちが悪いんだよその子。誰かを護る護るって、自分のことより他人のことを第一に考えているんだろうけど、それって聞こえはいいけど生物として破綻しているよね。
しかも、それが偽善じゃなくて本当にそんな風に考えているから尚更気持ちが悪い。自分が一番大切じゃない生物なんて存在自体が間違っている、自殺願望者と同じだよ、そうは思わないかい? 僕はそう思うよ。
だから話をしていて本当に気持ち悪かった。この子は金のためでも名誉のためでも、ましてや自分のためでもなく、他人のために命を捨てられるんだと知った時は悪寒が走った。思い出すだけで鳥肌が立つ。世の中にはいるものだね、本物の狂人というのが」
ヤナセが笑いながらリンを評価する。
ヴァイは思う。どうして自分は拳銃を三丁持ってきていないのだろうかと。ドライの能力は使いたくない。こんな男をドライに殺させたくなかった。
「そんなのに想われた人は大変だ、彼女の行動原理は他人にとって猛毒だからね。誰だって自分を想ってくれる存在を邪険にはし辛いのだから。そのままズルズルと心が解けるまで想われる。他人を間違いなく駄目にする魔性の女、それが彼女だ。ああ、怖い怖い」
ヤナセの言葉は正しい。研究員というだけあって、モノの本質を見抜く力に長けているかもしれない。
だが、それでもだ、リンのことを、彼女に何があったかも知らないにも関わらず、無遠慮に好き勝手な評価をつけるのは許されない。
「うわぁ、なんてストレートな挑発。しかもわざとじゃなくて本気で言ってるのがポイント高いねぇ。ねぇねぇヴァイくん、怒ったら駄目だよ? 冷静にね」
秋香が笑顔で、まるで自分を縛りつけるようにリンの身体を強く抱きしめる。
「こんな挑発に乗るわけがないだろう。この手の挑発は腐るほど受けてきた。オレは冷静だ」
ヴァイは冷ややかに応じる。もっと汚い言葉が戦場では日常会話のように使われるのだ。挑発に対する耐性は高いとヴァイは自負できる。
今の自分は冷静だと胸を張って言えるほどに。
だから、冷静に、任務通りに、あの男を始末すればいい。
その場に居た全員の虚を突くように、ヴァイは地を蹴り、ヤナセ目掛けて突進した。
ヤナセは動かない。そもそも反応できていない。見るからに戦う術を心得ていないのがわかる。
いくらリンとの戦闘で傷を負い、消耗しているとはいえ、あの程度の人間なら今のヴァイでも余裕で始末することができる。彼は不用意に姿を見せるべきではなかったのだ。
もしも戦場に身を置く者だったならば対応できただろう。だがヤナセにはできない。
そもそも対応する必要も無かった。ヤナセ自身の代わりに対応する人物がヴァイの眼の前に割って入ってきたのだから。