第二章 最悪の敵
「な……に」
思わずうめき声が漏れた。
もし秋香の言うことが本当で、ヤナセ・カギナリがヴァイの追う人物だとすれば、余裕があるどころではない。時間切れだ。二人目の実験台としてリンが選ばれたのだ。
リンや秋香の安全を考えて情報を話さなかったことが完全に裏目に出た。
秋香も全く想定外の事態らしく、祈るような表情で携帯電話を握り締め、どこかに電話をかけている。
電話先は訊くまでもない、リンの携帯電話だ。コール音が響く、鳴りやまない。
「出ない、というか繋がらない。ああ……もう、こんなに早く動くなんて、迷ってないでさっさと吐かせればよかった私の馬鹿ッ!
……ふぅ。ヴァイくん、どうすればいい?」
携帯電話を切り、取り乱したかのように一度叫んだ後、秋香はヴァイに指示を仰いだ。
それは縋っているのではなく、ヴァイがこの手の問題に的確な対処ができると踏んでの問いだろう。気持ち悪いほど切り替えが早く、寒々しいと思えるほどの冷静さだった。
しかしヴァイも他人のことは言えない。彼も既に現状を打破する手段を練っているからだ。
(アレが敵に回る可能性を考えるなら、切り札を切るか?)
いくつか思いついた手段を口にする前に、ヴァイは弾かれたように顔を上げた。
放送室の扉がゆっくりと開けられていることに気付いたからだ。
「リン……ちゃん」
秋香が眼を見張る。放送室に姿を見せたのはリンだった。彼女は今にも崩れ落ちそうなバランスの悪い姿勢で立っており、ふらつきながら一歩一歩身体を揺らしながら放送室に入ってきた。
視線は足元に向けられ、表情は前髪に隠れて見えないが、姿勢からして普段のリンとは大きくかけ離れており、ヴァイはもとより、秋香にしても迂闊に近寄ろうとしない。
「オレの後ろに居ろ、ドライはいつでも接続できるようにしておけ」
秋香を背後に追いやり、その前に立ってヴァイはリンを睨み据える。
「止まれ、それ以上近づくな」
ヴァイの言葉が通じたか、二メートルほど距離を開けてリンは足を止めた。
草士朗の時も僅かながらだが言葉は通じていたらしい。もしかすれば、という希望はある。
リンが顔を上げた。その表情を見てヴァイは制服から拳銃を引き抜いていた。
リンの眼は虚ろで焦点が定まっておらず。口だけが何やら高速で言葉を繰り返し紡いでいる。それが『マモル』という言葉を呪いのように言い続けていることに気付き、淡い希望は捨てた。
やはり暴走している。厄介な奴が敵に回った。それだけの認識で他の感情は切り捨てるように努め、自分と秋香を護るために拳銃の引き金に指をかけるが、遅い。
予備動作を見せず、リンは開いていた間合いを一気に詰め、手刀を振り上げた。
ソウルバディの心能力を用いての手刀が音も無く銃身を切り飛ばす。
それは恐るべき速さではなかった。普通に考えて手刀より拳銃の方が早い。つまりヴァイの動作が遅かったがゆえに、遅れを取ってしまったのだ。
拳銃を引き抜いた段階で引き金に指をかけておくべきだったが、できなかった。
リンに拳銃を向けた瞬間、一呼吸分だけヴァイは動きを止めてしまった。
「くっ、逃げるぞ」
ヴァイは長さが半分になった拳銃をリンに投げつけ、もう片方の手にあらかじめ取り出しておいた閃光手榴弾を地面に向かって叩きつける。
眩い光が放送室の中で炸裂した。
リンが眼を庇うように腕を掲げる間にヴァイは両眼をきつく閉じた秋香の手を掴んで放送室から脱出した。そのまま廊下を止まらずに走り続ける。
「ちょっと! 閃光手榴弾とか使う前に言ってよ! 前見えないじゃん!」
「オレが見えてれば問題ない、そのまま走り続けろ」
右眼を閉じたままヴァイは怒鳴り返す。
「というか! リンちゃんをあのままにする気?」
「あのままにはできんが、アレと戦うなら場所を変えなければまずい。その気になれば、アイツは校舎ごとオレ達を消し飛ばすぞ」
「え! リンちゃんってそんなに凄いの?」
寝耳に水といった様子で秋香が聞き返す。基本的にリンは他人に手を上げることはない。やってせいぜい牽制や、相手の動きを止めるための手加減した攻撃だろう。
しかし今は暴走している。手加減などは期待できない。
「ああ、最悪なまでに凄い。そんなのが今暴走しているんだ。なるべく広い空間でやり合わんと被害がシャレにならん。ドライの心能力も広い空間の方が使いやすい」
「リンちゃんを止められるの?」
「止めるしかないだろう。……傷つけるなとは言うなよ、今回は手加減できない」
下手に手心を加えれば、先程切り裂かれた拳銃の二の舞になりかねない。
「質問の仕方を変えるよ。リンちゃんと戦えるの?」
秋香は淡々と言い直した。先程ヴァイが躊躇ったのを見ていたのだろう
「さっきはあの場所で戦うことに躊躇しただけだ。それにアレを傷つけるとオレと三心教高校の関係が崩れかねない。なにより後に響くから撃たなかった、理由はそれだけだ」
「撃てなかったじゃないなら理由はどうでもいいよ。二人共倒れっていうのは無しだからね」
秋香がヴァイの手を強く握りながら言う。それは友人を失うことを恐れているのだと、ヴァイは信じたかった。
ヴァイは秋香の手を引いたまま校舎を飛び出し、グラウンドエリアまで走った。
さすがに深夜過ぎということもあり、擦れ違う人は居ない。ただ巡回しているはずの警備員とも擦れ違わない。
草士朗の時と同じく、ヴァイに任せて静観するつもりなのだろう。
砂で固められた広大なグラウンドの中心まで移動してヴァイは足を止めた。
周囲を確認、一辺が数百メートル以上ある。ここなら爆弾が爆発しようが周囲の建物に被害は出ないだろう。
「ちょ……ま……さすがにちかれた……」
ようやく眼が見えるようになったか、秋香が息も絶え絶えといった様子で肩を上下させる。
「休んでいる暇はないようだぞ」
グラウンドの端からリンが歩いてくるのを確認して、ヴァイは予備の拳銃を取り出す。
「なるべくリンと正対するな、間にオレを挟むようにしてさがっていろ」
秋香は返事をせず、ヴァイの背中から離れた。
言葉を交わす余裕が無いほどにリンは接近してきている。
呼吸を乱さず、眼をやられた様子見せず、バランスが悪い体勢で近づいてくる。
ヴァイはリンに銃口を向ける。歩みは止まらない。
この程度では脅しにはならないのか、それとも脅しが通用しないのか。ヴァイが考える間に、二人の距離が二十メートルを切る。
拳銃の有効射程内だ。既に指は引き金にかけてある。
「ちっ!」
発砲音とヴァイの舌打ちはほぼ同時だった。
まるでヴァイが撃つタイミングがわかっていたかのように、リンが緩慢な動作から急加速、拳銃の銃身を下から掴んで銃口を真上に向けた。
その直後にヴァイは引き金を引き、放たれた弾丸は夜空に虚しく飛んでいった。
「駄目ダよ、ヴァい……こんな危ないモノを持ってたら……怪我すルよ」
リンが顔を近づけながら言う。眼の焦点がようやくヴァイに合わせられる。彼女の手の中で拳銃が軋む、リンの手に心波が集まる。
先程と同様に切り裂くか、握り潰す気だ。
「だったらオレに撃たせるな!」
苛立ち混じりに叫び、吐息が触れあう距離にあるリンの頭にヴァイは頭突きを喰らわせた。
数歩後ろに下がったリンに拳銃を向ける。
「撃ちたくなイなら、代わりに私が撃ツよ。ヴァイの代わりに……私が、ぐっ! うぅ……」
突然リンが胸元を抑え、苦しそうな声を上げた。荒い呼吸を繰り返し、動きが止まる。
「今なら……ドライ!」
ヴァイの叫びに応じ、すぐ傍で待機していたドライが接続を開始する。
「なんで……私ジャ駄目なの? なんで……私は……護りたいだケなのに!」
ドライの接続に反応し、リンが再び動き出す。
まるで泣き叫ぶように悲痛な声を上げ、先程とは打って変わって攻撃的な姿勢で襲いかかってくる。
それはヴァイからすれば想定外な動きだった。接続が終わり、盾を構えたヴァイにリンは手刀を構えながら迫る。
リンの周辺の空間を凍結させ、その中に閉じ込めることで動きを封じようとしたが、こう動かれては難しい。
タイミングを見誤った、焦りが判断を誤らせたのだ。
ヴァイは突き出された手刀を身を捻ってかわし、リンの足元に向けて威嚇射撃を行う。
リンは銃撃を意に介さず。いや、まるで弾丸など見ていないような動きで攻撃を継続する。
ヴァイは銃口をリンの腹に合わせ、引き金を引く。弾は出ない。弾切れだ。
(弾切れに気付かないなど、新兵かオレは!)
両手から交互に放たれる手刀を避け、ヴァイは盾を手放し、後ろに跳んで距離を開けた。
盾を手にした状態で素手による近接戦闘は分が悪い。相手が飛び道具や武器を使っていないのなら、大きく重い盾など死角に入り込まれやすくなるただの枷にしかならない。
だがドライの盾でなければリンの動きを封じることはできない。心波を流すことで全身を凶器にできるリンに防具無しで組みつくことはできない。
ドライの心能力でなければリンは止められない、だが盾の大きさと重さが邪魔だ。
「私ハ護リタイ、大切ナ人……人達……みんな、マモル……そのタメならなんデモ……」
リンが動く。攻撃は先程までと同じ手刀のみ。彼女がその気になればヴァイの存在など跡形も無く消し飛ばすことができるにも関わらずだ。それをしない、いや、できないのだ。
ヴァイの背後に秋香がいる限り、リンは心波を使った広範囲の攻撃ができない。
単純な徒手空拳による戦闘ならば、身体能力の差は無いとはいえ、実戦経験が豊富なヴァイが打ち勝つだろう。
しかし勝つことが目的ではない以上、有利な条件とは言い難い。
「邪魔をしているのはお前だ、正気に戻れ」
手刀を避け、手にした拳銃で捌き、回避に専念しながらヴァイはリンに呼びかける。
紅葉の時や、草士朗の時でも言葉は届いていた。
感情が暴走し、本性が剥き出しであるがゆえに、普段は理性や理論で護っている心が丸裸になる。揺さぶることができれば隙は作れるはず。感情的になってしまうのが欠点だ。
「自分の大切な人達を護りたいんだろう? だから厄介事を三心教高校に引き込み、お前の大切な友人を事件に関わらせているオレを排除しようとする。
そんなことをしなくても、オレはここから消える。お前のやっていることは護りたい友人を危険に晒しているだけだ。オレが憎いのは理解している。だがお前が今本当にやるべき事は別にある。そうだろ!」
ヴァイは、リンが自分を憎んでいることを知っている。
しかしそれは今挟むべき問題ではない。その事を理解しているからこそ、リンはヴァイが三心教高校に来てからも恨み事の一つも言わず、ただ視線を反らすだけで終わっていた。
そのように彼女は割り切っていたはずだ。我慢していたはずだ。
だから、この攻撃は抑えつけていた恨みが、理性が消えたことで抑えきれなくなったのだとヴァイは考えた。
ヴァイを排除することで自分の大切な人達を護ることに繋がるという理屈で私怨を包み隠しているだけに過ぎないと。
リンは今誰かを護ろうとしているのではなく、ただ単に私怨を晴らそうとしているのではないかと疑問を投げつける。
実際はどうだか知らないが、ヴァイをこうして攻撃している時点で肯定も否定もできない。通常なら絶対に通用しない挑発だが、心の護りが無いなら効くはずだ。
紅葉の時のように攻撃が単調になれば良し、動きが止まれば尚のこと良い。
ヴァイの思惑通り、リンの動きが止まる。その隙に手放した盾を回収し、ドライの心能力を。
「なニ……言ってルの? ヴァイも……私ノ……大切な……護りたいヒトだよ」
不思議そうにリンが言った。感情が剥き出しになった、本音の発言。
その言葉の意味がわからず、いや、わかってもそれが何を意味しているかがわからず。いきなり天地が逆さまになったような錯覚を覚えるほどの衝撃を受け、ヴァイの動きが止まる。
お前はオレを恨んでいるのではなかったのかと、戦闘中に考えてしまうほどにヴァイは動揺する。
虚を突くつもりが、反対に虚を突かれた形となってしまった。
『マスター!』
先に動いたのはリンだ。ドライの悲鳴に近い叫びにヴァイは我を取り戻す。
リンは眼の前に居た。拳銃を撃つことも、盾を構えることもできない至近距離まで近づいていた。
鉄さえ切り裂く手刀がヴァイの顔に向かって突き出された。