救世主(ぽんこつ)は山奥でエルフに拾われました
気が付くと、見知らぬ天井が広がっていた。巨大な石造りのドーム。見上げるほど高い頂点の近くには小さな窓がいくつも穿たれ、そこから薄い朝の光が斜めに差し込んでいる。光の筋の中で、細かな塵がゆっくりと舞っていた。
背中に硬い石の感触。足元には青白い魔法陣が脈打つように明滅し、淡い光が、周囲の闇をかすかに押し返している。空気はひんやりと冷たく、苔むした石の湿った匂いに、蝋燭の煤けた香りが混じっていた。ゆっくりと身を起こすと、ぐるりと取り囲む人々の姿が目に入った。揃いの白いローブ。フードの陰に隠れた顔が、息を詰めてこちらを見つめている。
そして、目の前には立派な白髭をたくわえた老人が、両手を大きく広げて立っていた。皺の刻まれた頬を、幾筋もの涙が伝っていく。
「――おぉ! 成功じゃ! 救世主様のご降臨じゃ!」
「え? あ、あの、僕、さっきまでコンビニに行く途中で……」
僕の声は、地鳴りのような歓声にかき消された。白いローブの人々が口々に何かを叫び、拳を突き上げ、力強く抱き合っている。何か訊こうと口を開きかけたが、声は喉の手前で押し潰された。疑問をぶつける隙など、どこにもない。完全にアウェーだ。
若干ずきりと鈍い痛みが頭の奥で脈打つ。軽く頭を振ると、濁っていた意識がじわじわと輪郭を取り戻していく。よし念のため、記憶に抜けがないか、確かめておこう。名前は那須ハルト。二十三歳。職業は、フリーター。それも「無職一歩手前」という但し書きつきの。情けないことに、それこそが正真正銘の僕なのだ。
確か夜勤明けにふらふら歩いていて、信号を渡ったところまでは覚えている。眠くて、お腹が空いていて、頭の中は「帰ったら何を食べよう」でいっぱいだった。そこから先の記憶が、この石の部屋に直結していた。
いかにも重要人物といった風格の髭の老人は、王国の大賢者だと名乗った。もったいぶった口調で語られたのは、ひととおりの説明らしきものだった。老人によると、この世界は魔王の軍勢に脅かされており、王国は滅亡寸前。古い予言に従って、異世界から救世主を呼んだのだという。
「あなた様は、世界を救う運命の方。どうか我らをお救いくだされ」
全員が、僕に向かって、深々と頭を下げる。正直に言うと、悪い気はしなかった。生まれてこのかた、人に頭を下げられたことなんて一度もなかったのだ。バイト先では怒られ、実家では「いつまでフラフラしてるの」と言われ、友達と呼べる相手もほとんどいない。コンビニの深夜シフトで「ありがとうございました」と頭を下げるのは、いつも僕のほうだ。そんな僕が、救世主様。もしかして、これ、人生の逆転ってやつなんじゃないだろうか?
僕は調子に乗った。それはもう、高波に乗るサーファーのように、勢いよく調子づいた。そして十分後、早くも後悔することになる。
「それでは救世主様、まずは聖剣をお授けいたします」
そう言われて、王城の宝物庫へと案内された。長い螺旋階段をひたすら降りていく。たどり着いた地下の部屋の中央、台座に一本の剣が突き刺さっていた。柄に宝石をあしらった刀身は、月明かりのようにぎらりと光っていた。
「この聖剣は、救世主様にしか抜くことができませぬ。歴代の勇者が誰一人として抜けなかった、伝説の剣です」
いつの間にか、周りには大勢の人が集まっている。騎士団長に、宰相に、王女様。大層な肩書きの人ばかりだ。全員の目が、期待できらきらと輝いている。その視線の重さだけで、僕の膝はもう笑っていた。早くも後悔が汗になって、額からだらだらと噴き出していく。
僕は台座の前に立ち、柄を握りしめた。緊張で手のひらが湿る。ここで失敗したら格好悪い。けれど、本当に嫌なのはそこじゃない。変に期待された挙げ句、勝手にがっかりされることだ。
ええい、ままよ。歯を食いしばって、力いっぱい引いた。するり。拍子抜けするほどあっけなく、剣は抜けた。
「おおぉおお!」
歓声が上がる。そりゃそうだ、完璧な滑り出しだった。内心でガッツポーズをしてしまった。ところが、だ。この剣、やたらと重い。非常に、異常に重い。抜けた瞬間、両腕がぐんと下に引っ張られた。二十キロはあるだろうか。いやいや、三十キロはある。絶対に四十キロ以上ある。僕は「ぬぐぐぐ」と変な声を出しながら踏ん張ったが、三秒で限界が来た。
がらん、がらがらがら。聖剣は、僕の足の甲の上に落ちた。
「いっっっっっった!!」
僕は片足で飛び跳ね、ひっくり返り、後頭部を台座の角にぶつける。ごつん、といい音がした。宝物庫が、しんと静まり返る。どこかで誰かが、控えめな咳払いをした。
「……あの、救世主様? 聖剣は、救世主様が持つと羽のように軽くなると、伝承には書いてあって……」
騎士団長が、おそるおそる口を開くが。堪えられないなくなったのか、言葉は途中で尻すぼみに消えてしまった。気まずい間が流れる。
「全然、軽くないです」
僕はそれでも嘘はつかずに、涙目で答えた。
結局、聖剣は専用の荷車に載せられ、騎士三人がかりで運ばれていった。救世主の剣を、騎士が運ぶ。何かが根本的に間違っている。その光景を見て、僕は自分が哀れでならない。
足の甲には、きれいな青あざができていた。王女様が自ら薬を塗ってくれたけれど、慣れない様子で動くその手を見ていると、なぜだか申し訳ない気持ちになった。
「剣の扱いは、後ほど鍛錬するとして。救世主様ほどのお方なら、魔法の才も計り知れぬはずです」
大賢者の老人が、励ますように、元気よく僕に向かって言う。召喚しておいて、こんな期待外れの救世主だったとなれば、大賢者の立場も危うくなる。それで必死なのだろう。もしかしたら、ただ純粋に気遣ってくれているだけかもしれない。それに合わせて、王女様も頷く。
「わたくしも、そう思います。救世主様には、きっと、他にも才能がおありです」
その言葉に、嘘はなさそうだ。だからこそ、胸の奥がちくりと痛んだ。期待されるのは苦手だ。けれど、期待されないのは、もっと寂しい。
次の日から、宮廷魔術師による魔法の授業が始まった。教師は、眼鏡をかけた穏やかな女性の魔術師長だった。
「まずは基本の火球からです。体内の魔力を掌に集めて、燃えるイメージを描いてください」
「はい!」
僕は掌を前に突き出し、全力で念じた。燃えろ。燃えろ。燃えろ。萌えろ。燃えろ。燃えろ。一つ同じ読みでも、全く意味の異なるものが混ざったが、気にせず続ける。
うーん、何も起きないぞ、どうした?
「力みすぎですね。もっと肩の力を抜いて」
「燃えろ……燃えろ……おらっ!」
ちょっとぐらい火の粉が出てもいいだろうが。そんなに恥をかかせたいのか、この僕に。
「で、では。水の魔法に変えてみましょうか」
見かねた魔術師長が、他の系統の魔法も次々と試させてくれた。
水は出ない。風は吹かない。光も灯らない。治癒魔法を試しても、足の青あざはそのまま。浮遊魔法を試しても、足は床に吸い付いたまま。魔術師長は何度も水晶玉を取り替えて測り直したが、どれもうんともすんとも言わなかった。
一週間、毎日八時間、あらゆる系統の魔法を試して、結果はすべて同じ。魔術師長は最後に、顔を青くしてこう言った。
「救世主様の体内には……魔力が、ほとんど、存在しないようです」
「ほとんど?」
「はい。この世界の赤ん坊でも、もう少しあります」
赤ん坊以下。 たった四文字なのに、心を抉るには十分すぎた。 それを皮切りに、僕は延々と続く地獄を味わうことになる。いや、地獄というより喜劇だ。当事者の僕以外にとっては。
剣術の稽古では、木剣を振ろうとして自分の頭を叩いた。馬術の訓練では、僕が跨がった瞬間に馬が振り向き、ため息をついてから、僕を振り落とした。弓を引けば矢は真後ろに飛び、後ろにいた騎士団長の兜をかすめた。騎士団長は無言で兜を脱ぎ、矢の跡をしばらく見つめていた。
兵法の勉強では、地図を見ただけで眠くなった。作戦会議では「救世主様のお考えは?」と聞かれ、「え、えーと。みんなで頑張る、とか」と答えて、会議室が凍りついた。宰相のペンが床に落ちる音が、やけに大きく響いた。あの音を録音して、あとでたっぷり自己嫌悪に浸れたら、いっそ気が楽かもしれない。
そして、僕の持ち場は、城の雑用に落ち着いていた。つまり、戦力外通告である。ただし、そこは大人の言い回しで包まれていた。逆に僕のほうから頼み込んだ。何もしないでタダ飯だけ食べているなど、居たたまれない。バイトで身についた「とりあえず動く」精神だけは、異世界でも通用すると信じていた。雑用なら慣れたものだ。これまで散々バイトでやってきたのだから。裏方として走り回るほうが、よほど自分らしい。
救世主は無理でも雑用係くらいなら務まる。この自己評価は見事なまでに、過大評価だということが知れた。料理当番では鍋を焦がし、洗濯当番では騎士団の制服を全部ピンク色に染めた。翌日の閲兵式では、屈強な騎士たちが桃色の隊列を組んで行進し、市民たちは言葉を失っていた。
城の廊下を歩けば、何もないところで転ぶ。階段を降りれば、一段踏み外し、下で待っていてくれた王女様に激突する有様。もはや救いようがない。
「救世主様。お怪我は、ございませんか?」
王女様は、僕を受け止めたまま、どこか遠い目で接する。そういえば、いつからだろう。王女様と視線が合わなくなったのは。最初の頃は、薬を塗ってくれたり、励ましてくれたりしたのに。今では、目が合いそうになるたびに、すっと逸らされる。普通なら、こういう場面は違うはずだ。異世界に召喚された救世主と、彼を迎える王女様。好意を持たれて、ヒロインになってくれる、お約束の展開のはずなのに。
まあ、そうなる理由は心当りがある。自分が一番よく分かっている。聖剣は持てない。魔法は使えない。馬には振り落とされ、騎士団の制服はピンク色。こんな救世主に、ときめけというほうが無理な話だ。
「……ありがとうございます。大丈夫です」
王女様は微笑んで、軽く会釈をすると、足早に去っていった。
その夜、部屋の扉が控えめにノックされた。顔を出すと、王女様が盆を抱えて立っていた。盆の上には、湯気の立つミルクと、赤色の焼き菓子がひとつ。
「あの、少しよろしいでしょうか」
不安そうに視線を揺らしながら、困ったように微笑む王女様。さてはあの老人に頼まれて、落ち込んでいる僕を慰めに来たのだろうか。
王女様は盆をテーブルにそっと置き、言葉を探すように視線を伏せた。
「私も、期待に応えなければならない立場ですから。今の救世主様の気持ちが、分かる気がします」
それ以上は何も言わず、王女様は静かに一礼すると部屋を後にした。残されたミルクは驚くほど苦く、焼き菓子は甘々だった。あの人もきっと、この城でずっと爪先立ちのまま生きてきたのだろう。けれど同 時に、こんなことも思った。分かってくれる人がいることと、救ってくれる人がいることは、きっと別の話なのだと。
雑用を終え部屋へ戻ろうとしたところで、謁見の間へと呼び出された。
玉座の前に、王様、大賢者、騎士団長、宰相、魔術師長、王女様。全員が並んでいた。誰も、僕と目を合わせない。高い天井にステンドグラスの光が落ちて、床に赤や青の模様を描いているのが、場違いなほど綺麗だった。
「救世主殿」
王様が、重々しい声で言う。
「そなたには、これまで多大な支援を行ってきた。しかし、成果は何ひとつ得られなかった」
「あの。時間をいただければ、きっと、上手くできます!」
「もう、十分に待った」
王様は、僕の言葉を遮って続ける。
「我が国には、そなたを養う余裕はない。魔王軍は日に日に迫っておる。そなた一人に構っている時間すら惜しいのだ。呼び出しておいて心苦しくはあるが、ここから去ってもらうしかない」
「さ、去るって、どういうことですか?」
「連れて行け」
返答の代わりに、兵士たちが無言で僕の両腕を掴んだ。有無を言わさず連れて行こうとするその力に抗い、床に足を踏ん張る。力任せに引かれながらも、声を張り上げた。
「ちょ、ちょっと待ってください!! 僕、勝手に呼ばれたんですよ!? 帰る方法は!? 帰してくれるんですよねぇ!?」
誰も答えない。大賢者は、白い髭の中に顔を埋めるようにして、ずっと床を見ていた。王女様だけが、一瞬だけ僕を見た。慰めでも、否定でもない。ただ痛ましいものを見るような悲しげな瞳。まるで処刑台へ向かう罪人を見るかのような眼差しに、僕は抵抗する気力を失った。
僕は馬車に押し込まれ、一昼夜、揺られ続けた。窓には板が打ちつけられていて、外の景色は隙間からしか見えない。畑が森になり、森が山になり、やがて道は獣道になった。
人の気配の全くない、深い山の奥に連れてこられた。
兵士たちは、無言で作業を始めた。僕を一本の太い木に押しつけ、ロープでぐるぐると縛りつけていく。胸も、腹も、足も、何重にも。
「やめてください! お願いします! 置いていかないで!」
「すまない」
若い兵士が、無感情に呟いて去る。馬車の音が、遠ざかっていく。山の中で、僕は、木に縛られたまま、一人きりになった。最初は、呆然としていた。次に、怒りがこみあげてきた。
いやいや、勝手に呼んだのはそっちじゃないか。僕が頼んだわけじゃない。何のスキルもない普通の人間を連れてきておいて、期待に応えられないから捨てる? 人を何だと思ってるんだ。せめて元居た世界に返せよ。あいつらは非人道的だ、血も涙もない。
ついには、とうとう悲しみが来てしまう。
「う……ぅう……」
喉の奥から、変な音が出た。
「うわああぁぁああん!!」
僕は、泣いた。二十三歳の大人が、山奥で、ロープにぐるぐる巻きにされて、わあわあ泣いた。
「ひどいよぉ~~~! 勝手に呼んで!! 勝手に期待して!!! 勝手にがっかりして!!!! 勝手に捨てるなああぁあ!!!!!」
涙と鼻水が、顔中をぐしょぐしょにした。拭きたくても、手が動かせない。それがまた悲しくて、余計に涙が出る。
「僕だって頑張ったのに!!!!!! 剣は重かったんだぁあ!!!!!!! 魔法は出なかったんだよぉ!!!!!!!! 帰りたい、お母さあん!!!!!!!!!」
叫びすぎて、喉が痛くなってきた。それでも止まらない、不平不満。日が傾き、森が暗くなっていく。どれくらい、泣き続けただろう。
不意にがさりと、茂みが揺れた。
「ひぃっ!?」
魔物かと思った。もう、食べられるなら食べられてもいい、とすら思える。けれど、茂みの奥から現れたのは、一人の少女だった。月光を受けてきらめく銀髪。吸い込まれそうな緑の瞳。髪の間からぴんと伸びた、長く尖った耳。
エルフ?
少女は、僕の前までとことこと歩いてきて、首を傾げた。手には、摘んだばかりらしい薬草の籠を提げている。
「ねえ。さっきから、すごい声だったけど。大丈夫?」
ロープで木に縛られているのだから、大丈夫なわけがない。僕は、ぐしゃぐしゃの顔で、こくこくと首を横に振った。少女は、じっと僕を見つめる。それから、腰のナイフを抜いた。
「動かないでね」
しゅっ、しゅっ、と軽い音がして、何重にも巻かれたロープが、あっさりと切れていく。はらり、と最後の一本が落ちた。僕は、膝から崩れ落ちる。少女は慌てて僕を支えてくれた。
「わっ。ずっと縛られてたんだね。体、冷えてる」
温かな掌が、そっと僕の背中を撫でる。ぽんぽんと優しく伝わってくる温もりに、張り詰めていた心がほどけ、堪えていた涙が再びあふれ出した。
「うえぇん……」
「よしよし。もう大丈夫だよ。怖かったね」
少女は、泣きじゃくる僕を、何も聞かずに抱きしめた。泣き止んだころには、すっかり夜が深くなっていた。少女は焚き火を起こしてくれた。指先から、ぽっと灯った火の玉が枯れ枝に移る。僕が何週間かけても出せなかった火を、彼女はあくび混じりに出してみせた。
「私はミルフィ。この山の奥の森で暮らしてるの。あなたは?」
「那須、ハルト」
「ハルトね。どうして縛られてたの?」
僕は、ぽつりぽつりと話す。勝手に異世界から召喚されたこと。救世主だと言われたこと。聖剣が重くて持てなかったこと。魔法は赤ん坊以下だったこと。何をやってもだめで、最後には山に捨てられたこと。話しているうちに、またまた鼻の奥がつんとなった。ミルフィは、焚き火の向こうで最後まで黙って聞いていた。ときどき、火に枝をくべながら。
話し終えると、彼女はきゅっと眉を寄せて、頬をふくらませた。
「ひどい」
「……え?」
「ひどいよ、それ。勝手に連れてきて、勝手に期待して、勝手にがっかりして、勝手に捨てるなんて。ハルトは何も悪くないのに」
悪くない。あぁ、僕はその言葉が欲しかったんだ。誰もそんなことを言ってくれなかった。僕自身ですら、「やっぱり僕が悪いんだ」と信じ込んでしまっていた。
「でも、僕、本当に何もできなくて」
「できなくていいよ」
ミルフィは、あっさりと言った。
「できなくていい。ハルトは、ここにいるだけでいいの」
焚き火がぱちりと爆ぜる。
「ねえ、ハルト。うちに来ない? 森の奥に、私の家があるの。一人だと広すぎて、ちょっぴり寂しかったんだ。ごはんも作るし、お布団もあるし、お風呂もあるよ」
「そんな、迷惑じゃ」
「迷惑じゃないよ。私が来てほしいの。面倒は全部見てあげる。ハルトは何にも心配しなくていいよ。どう? 至れり尽くせりじゃない??」
面倒を見る。この子は今、確かにそう言った。出会って一時間も経っていない、情けなく泣きじゃくっていただけの二十三歳の男に。普通なら、怪しむべきだ。うまい話には裏があると、元の世界でさんざん学んだはずだった。
もう僕の中には、何も残っていない。やる気も、意地も、生きがいも、警戒心も。全部全部、泣いて、叫んで、すっかり流れてしまっていた。
「お願い、します」
返事をした途端、ミルフィの顔がぱあっと花が咲くように明るくなる。
「うんうん! 任せて!」
こうして僕は、森のエルフに拾われた。
夜の山道を、僕は歩けなかった。縛られていた足がしびれていたし、そもそも王城暮らしで体力が落ちていたし、何より泣き疲れて体に力が入らなかったのだ。立ち上がろうとして三歩目で膝が笑い、四歩目で草むらに座り込んだ僕を見て、ミルフィはしゃがみ込み目線を合わせた。
「歩けない? じゃあ、おんぶしてあげる」
「えっ。ミルフィの方が、どう見ても小さいし、無理だよ」
「大丈夫。エルフは森の中なら、風の力で体を軽くできるの」
言うが早いか、ミルフィは僕をひょいと背負い上げた。ふわり、と体が浮く感覚。綿でも担いでいるかのように、平気な顔で歩き始める。足元の落ち葉が、さくさくと小気味いい音を立てる。規則正しい揺れが、背中越しに伝わってくる。一歩、また一歩。そのリズムに身を任せているうちに、瞼がじわじわと重くなってきた。
張りつめていたものが、ゆるゆるとほどけていく。うとうとと微睡んでいた。
「ハルト、寝ていいよ。着いたら起こしてあげるから」
「う、ん」
夢うつつの中で、ミルフィが低く歌っているのが聞こえた。聞いたことのない、やさしい旋律だ。歌詞の意味は分からないけれど、ひとつひとつの言葉が、胸の奥まで染みていく。子守唄なんて、何年ぶりに聞いただろう。そんなことをぼんやり思ったのを最後に、僕の意識は、暗闇へと沈んでいった。
目を覚ますと、知らない天井があった。異世界に来てから、これで三度目の知らない天井だ。一度目は、青白い魔法陣の上から見上げた石造りのドーム。二度目は、王城で与えられた、無駄に高くて無駄に豪華な部屋の天井。どちらも、見上げるたびに胃がきゅっと縮こまるような天井だった。
けれど今目の前に見えている天井は、ちょっと違った。太い木の梁が何本も渡されていて、そこに乾燥させた花束がいくつも逆さに吊るされている。紫、黄色、白。花々が、風もないのにかすかに揺れては、甘くて優しい香りをふわりと落としてくる。壁は丸太を組んだもので、ところどころに年季の入った艶があった。誰かが長い時間をかけて、大事に暮らしてきた家の匂いがする。
ゆっくり体を起こそうとして、僕は動きを止めた。体の下の布団が、信じられないくらいふかふかだったのだ。沈み込むようでいて、ちゃんと体を受け止めてくれる。干したばかりの日向の匂いがして、このまま溶けて布団の一部になってしまいたいと思った。王城のベッドだって、天蓋付きで、シーツは絹で、寝心地は確かに良かったはずだ。それなのに、あの広すぎるベッドで眠った夜は、一度だってぐっすり眠れなかった。明日は何をやらかすだろう、と天井を見つめて怯えていたからだ。それに比べて、この部屋の布団のほうが、ずっとふかふかで、ずっと安心できる。
そこで、ふと気付いた。着ているものが、ゆったりした麻の寝巻きに変わっている。手足を動かしてみると、縛られていた跡の痛みはあるものの、体はきれいに拭かれていた。足の甲の青あざには、薬草らしき葉が貼られている。あれ。僕、いつ着替えたっけ? というか、誰が? 脳裏に妙ないやらしい想像浮かびかけたところで、部屋の扉が、こんこんと叩かれた。
「ハルト、起きてる? 入るね」
返事をする前に、扉が開く。ミルフィが、大きなお盆を両手で支えたまま、器用に肩で扉を押し開けて入ってきた。
「おはよう、ハルト」
そう言って笑った彼女の銀髪が、朝の光を浴びてきらきらと輝く。長い耳の先が、嬉しそうにぴくりと動いた。昨夜は焚き火の明かりでしか見ていなかったから、明るいところで見る彼女は、なんだか別人みたいに印象が違って見える。見とれていると、彼女は少し照れくさそうに首を傾げた。
「どうしたの?」
「い、いや! なんでもない! それよりそのお盆はなに?」
慌てて視線を逸らし、彼女が抱えているお盆に目を向ける。湯気の立つスープに、焼きたてのパン、それから彩りのいい果物。お盆の上には、朝食がずらりと並んでいた。スープの香りが、部屋いっぱいに広がっていく。それを嗅いだ途端、僕のお腹が、ぐう、と盛大に鳴った。
「ふふっ。ちゃんとお腹は起きてるみたいだね」
「聞こえた?」
「ばっちり、と」
ミルフィはくすくす笑いながら、ベッドの脇のテーブルにお盆を置いた。
「ぐっすり眠ってたから、起こさなかったの。着替えは、私の昔の知り合いが置いていった古着だよ。ちょっと大きいかもしれないけど」
「あ、いや、ありがとう。その、体は……?」
「ああ、それは濡らした布で拭いただけだよ。お風呂は、起きてからゆっくり入ってね」
あっさり言われて、勝手に赤くなった自分が恥ずかしい。ミルフィは気にした様子もなく、スープをよそったスプーンをこちらに差し出してくる。
「はい、あーん」
「ミルフィ、それは」
「あーん」
有無を言わさぬ笑顔。僕は観念して、口を開けた。美味しい。野菜と木の実の味がするスープが、空っぽの体を満たしていく。
「おいしい?」
「うん! すごく」
「よかった。いっぱい食べてね」
パンも、果物も、全部ミルフィが食べさせてくれた。パンは外がさくっとして、中がもちもちで、蜂蜜をたっぷり塗ると、口の中でとろりと溶けた。最後には口の端をハンカチでやさしく拭かれた。
二十三にもなって、何をされているんだ、僕は。そう思うのに、体はあまりに心地よくて、どうしても抗えなかった。食べ終えるころには、瞼が半分落ちかけていた。
「眠くなった? 寝てていいよ。私、お洗濯してくるね」
ミルフィが毛布を肩まで引き上げてくれる。胸のあたりを軽く叩かれる。その拍子に誘われて、僕はものの数十秒で、ふたたび眠りに落ちていた。
数日が過ぎた。
ミルフィの家は、大樹の幹をくりぬいて作られた、居心地のいい家だった。壁には花と蔓が這い、床には柔らかな苔が敷かれ、どこにいても木と花のいい匂いがする。
ミルフィは森で薬草を摘み、それを街の市場で売って生計を立てているらしい。庭には温かな湧き水をたたえた池があり、それがそのまま浴場代わりになっていた。
「お風呂の時間だよ。ハルト」
「あ、あの、お風呂ぐらい自分で入るから」
「でもハルト。昨日、お湯の中で寝ちゃって溺れかけたよね?」
「うっ」
む、確かに溺れかけた。上手く反論できない。
「だからさ、今日は私が見てるね。背中も流してあげる」
「それはさすがに」
「ちゃんと湯あみ用の着物を着てるから」
こういうとき、エルフの文化観念はどうなっているのだろう。ミルフィは恥ずかしがる様子がなく、むしろ嬉しそうに石けんを泡立てている。木桶の中で白い泡がもこもこと膨らんでいくのを、子どもみたいに目を輝かせて眺めているくらいだ。
結局、僕は肩までお湯に浸かり、ミルフィが背中を洗ってくれるのを、真っ赤になって耐えた。
柔らかい女の子特有の手が、僕の背中をごしごし擦る。泡が肩を伝って落ちる。ミルフィは楽しそうに鼻歌を歌っていた。
風呂から上がると、ミルフィはタオルで僕の髪を拭き、ブラシで梳かし、さらには風の魔法で髪を乾かしてくれた。
「はい、おしまい。ハルト、いい匂いだよ」
自分でも嗅いでみると、たしかに草と花の香りがした。
そのまま居間に移動すると、ミルフィがソファに座って、ぺちぺち自分の太ももを叩いている。
「ここ、どうぞ。膝枕、よしよししてあげたい」
だめだ。これは、だめだ。人間として、何かが終わってしまう。
「ハルト」
ミルフィが、しゅんとした声を出した。
「嫌? 私の膝、嫌い?」
「き、嫌いなわけない!」
反射的に叫んで、僕はそのまま、ミルフィの膝に頭を置いていた。上を見上げると、ミルフィの笑顔と、窓から差し込む木漏れ日が見えた。
「いい子、いい子」
ミルフィの指が、僕の髪をそっと撫でる。僕は、そのまま三時間、また不覚にもぐっすり眠ってしまった。目を覚ましたとき、ミルフィはまだ膝を貸したまま、本を片手に座っていた。足がしびれているはずなのに、「おはよう」と笑っただけで、一言も文句を言わない。
「ご、ごめん! 足、しびれたよね」
「ううん、平気。ハルトの寝顔、見てたら時間があっという間だったよ」
そう言って立ち上がろうとしたミルフィは、よろけて、僕の上に倒れ込んだ。
「しびれてたんじゃないか」
「えへへ。ちょっとだけ」
二人で顔を見合わせて、同時に吹き出した。笑ったのは、この世界に来て、はじめてのことだった。
朝が来て、夜が来て、また朝が来る。それを繰り返すうちに、僕は日にちを数えるのをやめてしまった。もとよりこの世界の暦はよくわからないし、数える必要もないと思う。感覚では数週間経っている気がする。
僕の一日は、だいたいこうだ。朝、ミルフィに起こされる。起こし方はいつも耳元で名前を呼んで、頬をつんつんする。起きてからの朝ごはんは、ベッドの上で食べさせてもらう。最近は、あーんされることにも抵抗がなくなってきた。慣れというのは恐ろしい。午前中は、ミルフィが薬草を摘みに行く。僕は日当たりのいい縁側で、クッションに埋もれて、うとうとしている。ときどきリスが寄ってきて、僕の膝の上で木の実をかじっていく。最近は、毎朝来る茶色いリスに、勝手に「ヨーグルト」という名前までつけてしまった。ミルフィに話すと、「ヨーグルトってなに?」と聞かれたので、元の世界の白くて酸っぱい食べ物だと説明したら、「それは、おいしいの?」と真剣な顔で聞かれた。今度、似たものを作ってみるそうだ。昼ごはんは、ミルフィがお弁当を持って戻ってくる。庭の木陰にシートを広げて、二人で食べる。ミルフィは僕の好物をちゃんと覚えていて、昨日は甘じょっぱい木の実のパイ、今日は焼いた川魚とハーブのサンドイッチだった。
お昼寝も忘れず、ミルフィの膝枕に頭を預ける。夜は、お風呂。ミルフィが髪を洗ってくれて、肩を揉んでくれる。そして、眠る前には、ミルフィが枕元で物語を聞かせてくれる。森の精霊の話、星の王国の話、花の女王の話。知らぬ間に夢の中だ。
何もしない。本当に、何もしていない。剣を振ることも、魔法を唱えることも、会議で意見を求められることもない。誰かの期待に応える必要も、誰かに失望される心配もない。ただ、息をして、食べて、眠って、ミルフィに撫でられているだけ。そんな日々が続いたある朝、僕はひとつの決意をした。自分から何かをしようと。
ミルフィが薬草を摘みに出かけるのを、縁側から見送ったあと、僕はひとりで台所に立った。目標は、洗い物。昨夜のスープ皿とカップが、流しに積まれたままになっている。これくらいなら、僕にだってできるはずだ。
――結論から言うと、できなかった。
一枚目の皿は、洗剤代わりの木の実の泡でつるりと滑って床に落ちた。幸い割れなかった。二枚目の皿は、拾おうと屈んだ拍子に頭で棚にぶつかり、上から瓶が三つ降ってきた。よりによって、ミルフィが大事にしている、なんだかとてもきれいな青い粉の入った瓶だった。
青い粉はぶわあっと広がり、台所じゅうを青い霧で満たした。
「げほっ、げほっ! な、なにこれ!」
粉が落ち着いたとき、僕は頭から爪先まで、真っ青になっていた。髪も、顔も、服も。鏡を見なくても、自分が珍妙な生き物になったことだけは分かった。
そこへ、ミルフィが帰ってきた。
「ただいま、ハルト。忘れ物しちゃって——」
戸口で、ミルフィの動きが止まる。青い僕。割れた瓶。倒れた棚。沈黙。
「ご、ごめんなさい……お皿を洗おうと、思って……」
怒られると思った。怒られて当然だと思った。
対してミルフィは、肩をふるふると震わせ始める。
「ふっ」
「ミルフィ?」
「ふふっ、あはははは! ハルト、真っ青!」
ミルフィは、お腹を抱えて笑いだした。笑いすぎて涙まで出ている。僕は呆気にとられて、青い顔のまま立ち尽くした。
「ごめんごめん。笑っちゃった。ハルト、自分から何かしようとしてくれたんだね。嬉しい」
「でも、台所めちゃくちゃにしちゃったし、あの青い粉、大事なものだったんじゃ……」
「あれ? あれは染め粉。いくらでも代えはきくものだよ」
ミルフィは、僕の頬に手を伸ばして、青い粉を指でそっとぬぐった。
「お風呂に入ろっか。一緒に洗ってあげる」
「……お願いします」
青い粉が落ちるまで二時間もかかった。湯船が真っ青に染まって、ミルフィは「きれいな色だね」と喜んでいた。
その夜、ルフィの膝の上でごろんと寝転がったまま、僕は小さな声で言った。
「ねえ、ミルフィ」
「なあに?」
「僕、このままでいいのかな」
「ん?」
「だって、僕、ここに来てから、何もしてないんだよ。ごはんも作ってもらって、お風呂も入れてもらって、洗濯も、掃除も、全部ミルフィがやってくれて。僕、本当に、ただのお荷物じゃないか」
僕の髪を撫でていたミルフィの手が、ぴたりと止まる。僕は身を固くした。もしかしたら、ここで「そうだね」と言われるのかもしれない。言われても仕方がない。
「うーん、ハルト。私ね、ハルトが来てくれて、すっごく嬉しいんだよ」
「…………そうなの?」
「ずっと一人で暮らしてたから、朝起きて、おはようって言う相手がいるのが、嬉しいの。ごはんを作ったら、おいしいって言ってくれる人がいるのが、嬉しいの。お風呂のあとに、ありがとうって言ってもらえるのが、嬉しいの」
ミルフィは、僕の頬に手を添えた。
「ハルトは、何もできないんじゃないよ。ハルトがいるだけで、私の毎日はすごく楽しくなったの。だから、それで十分なの。私が全部やってあげる。ハルトは、今まで頑張った分、ゆっくり休んで」
その言葉を、僕は何度も心の中で繰り返した。
「ありがとう、ミルフィ」
「うん。いいんだよ」
ミルフィは、僕の額にそっと口づけた。頬が、かっと熱くなる。
「お、おやすみ!」
「ふふ、おやすみ、ハルト」
翌朝、目を覚ますと、やけに頭がすっきりしていた。昨夜のことを思い出して、僕は布団の中で一人、じたばたと悶えた。ようやく羞恥心の嵐をやり過ごし、観念して布団を抜け出した。
台所から鼻歌が聞こえる。ミルフィだ。聞き慣れた朝の音に、かちゃかちゃという物音が重なっていた。様子を見に行くと、ミルフィは籠へ薬草を並べているところだった。束ねた薬草を収めては形を整え、また次の束を置いていく。外出用の緑のケープまで羽織っている。その姿からは、どこか浮き立った気配さえ感じられた。
「あ、ハルト。おはよう。今日は市場に行く日なの。お留守番、お願いできる? お昼ごはんは用意しておくから」
「市場……」
口の中で繰り返したとき、自分でも驚くことに、言葉が自然にこぼれていた。
「僕も、行ってみたい」
ミルフィの手が止まる。ぱちぱちと長いまつ毛が瞬きを繰り返した。
言葉にした後、胸の奥が急にざわついた。外には人がいる。王国の人間に見つかったらどうなるのか。「あれが役立たずの救世主だ」と指をさされるかもしれない。その想像だけで、足の裏を冷たいものが這い上がってくる。
「無理はしなくていいんだよ?」
ミルフィが、そっと僕の顔を覗き込む。僕の迷いなど、とっくに見抜いているらしい。
「ううん、行きたい。ちょっとだけ、怖いけど」
「うん」
ミルフィは、花がほころぶように笑った。
「じゃあ、行こう! はぐれないように、手、つなごうね」
「うん。はぐれるといけないからね」
自分に言い訳するように差し出した手を、ミルフィがぎゅっと握った。小さくて、温かい手だった。その温もりに背中を押されるまま家を出る。森を抜けた先に広がっていた市場は、想像していたよりもずっと賑やかだった。エルフに人間、頭に獣の耳を生やした獣人たち。さまざまな種族が行き交い、肩が触れ合っても気にした様子もなく笑い合っていた。そこには王城の広間のような、息を潜めたくなるほどの荘厳さはない。色んな声が重なり、笑顔が行き交い、暮らしの気配があふれている。ミルフィも市場の人たちへ慣れた様子で手を振っていた。
「あらあら、ミルフィちゃん。今日は連れがいるんだね」
果物屋のおばあさんが、目を丸くして声をかけてきた。
「うん。ハルトっていうの。うちの子なんだよ」
うちの子。いや、間違ってはいないけど。二十三歳が、うちの子。僕は、どういう顔をすればいいのか分からず、微妙な表情で固まった。
おばあさんは、僕を頭のてっぺんから爪先までじろじろと眺めまわした。品定めされる野菜とは、きっとこんな気分なのだろう。やがて、皺だらけの顔がにっこりとほころんだ。
「ずいぶん細っこいねえ。ほら、これを持っておいき。蜂蜜をたっぷり染み込ませた木の実のケーキだよ。ミルフィちゃんの大事な人なら、うちの大事な客だ」
「あ、ありがとうございます」
「いいんだよ、遠慮するもんじゃない。ほら、もっと食べて太りな」
ずしりと重い包みを押しつけられる。断ろうにも、おばあさんは満足そうに何度も頷いていて、とても返せる雰囲気ではなかった。
また別の店では、髭面の鍛冶屋のおじさんが、僕のひょろひょろの腕を見て豪快に笑った。
「がはは! 兄ちゃん、せめて重い荷物は彼女に持たせるなよ!」
「か、彼女って!」
ミルフィが、慌てて手をぶんぶんと振る。
「ち、違うの! そういうのじゃなくて! ハルトは、その、えっと!」
「はいはい、そういうことにしておこうな」
おじさんは、すべてを察したような顔でにやにやしている。何も察していないと思う。
その後も、あちこちの店で声をかけられた。ミルフィの薬草は評判がいいらしく、どの店の人も嬉しそうに彼女を迎える。そして不思議なことに、その隣にいる僕のことも、同じ距離感で迎え入れてくれた。それがなんだかとても嬉しかった。
帰り道、僕はミルフィの手を、強く握った。何かを聞いて欲しいことがあれば伝えるための、アピールだ。
「どうしたの、ハルト?」
「今日、楽しかった」
「よかった。また来ようね」
夕焼けの中、二人で並んで歩く影が、地面に長く伸びていた。そのとき、前から来た二人連れの会話が、すれ違いざまに耳に入ってきた。
「そういえば、王国のほう、魔王軍との戦いがうまくいってるらしいよ」
「聞いた聞いた。騎士王と、天才魔術師が大活躍して、魔王軍の先鋒を押し返したんでしょ? 新しい英雄だって、みんな大騒ぎしてるって」
足が止まりそうになるのを、僕は無理やり前を向き、乱れそうになる歩調を保った。
騎士王と天才魔術師。どれも聞き覚えのない肩書きだった。もしかしたら。誰にも注目されていなかった彼らが、僕という特大の「期待外れ」のおかげで、かえって光を浴びることになったのかもしれない。
どうやら救世主がいなくても、世界は救われるらしい。
正直に言えば、胸の奥がちくりと痛む。あれほど「救世主様」と呼ばれていたのに、あっさり代わりが現れてしまったことへの、情けない寂しさ。僕が頑張らなくても、世界は回る。僕が何もできなくても、誰も困らない。これはきっと当たり前のこと。世界は僕一人のために存在しているわけじゃないし、誰か一人がいなくなっただけで立ち行かなくなるほど脆くもない。むしろ、僕がいなくても回り続けるからこそ、多くの人が安心して生きていける。そう頭では理解している。理解しているはずなのに、心のどこかで「それでも必要とされたかった」と思ってしまう自分はいる。
そんな考えを振り払うように、僕は首を横に振った。
もう、いいじゃないか。いいんだ。僕は救世主じゃない。
握ったままの手にもう一度ぎゅっと力を込める。歩いていたミルフィが不意に振り返る。その緑色の瞳がまっすぐ僕を捉えた。開いていた数歩を詰め、ミルフィの隣に並ぶ。
僕は、ここがいい。




