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短編(異世界など)

嘘を真実にできる私ですが、婚約者の「愛している」だけは真実にしませんでした

作者: みき
掲載日:2026/08/22

 婚約者から「愛している」と言われるたび、私の目の前には同じ文字が浮かぶ。


『この嘘を真実にしますか?』


 そして私は今日も、心の中で「いいえ」と答えた。


「どうした、アリシア?」


「いいえ。何でもありません」


 向かいに座る王太子レオナルドは、不思議そうに私を見ていた。


 春の王宮庭園。白い花が咲く中で、私たちは結婚式について話していた。三か月後には私は彼と結婚し、この国の王太子妃になる予定だった。


 レオナルドは優秀な人だ。二十二歳の今では国王陛下の仕事の一部を任され、外国から来た使節とも堂々と話す。私に乱暴な言葉を向けたこともなければ、他の女性と恋仲になったこともない。


 だから周囲から見れば、私たちは何の問題もない婚約者同士だった。


「では、式の花は白いリリアでいいな?」


「はい。私は好きです」


「よかった」


 レオナルドは書類に印をつけたあと、顔を上げた。


「アリシア」


「はい」


「愛しているよ」


 また銀色の文字が浮かんだ。


『この嘘を真実にしますか?』


 私は少しだけ笑った。


「ありがとうございます」


 それだけ答えた。


 レオナルドは気づいていない。


 彼の言葉が嘘だということを、私は十六歳のころから知っていた。


 


 私、アリシア・フォードには、生まれつき少し変わった祝福がある。


 名前は《真実の祝福》。


 誰かが私に向かって、自分自身についての嘘を言ったとき、その言葉を真実に変えることができる。


 一日に一度だけ。


 たとえば、幼いころに弟が転んで膝をすりむいたことがあった。


「こんなの痛くない!」


 泣きながら強がった弟の横に、銀色の文字が浮かんだ。


『この嘘を真実にしますか?』


 当時七歳だった私は、意味も分からず「はい」と願った。


 すると弟は泣き止んだ。


「……本当に痛くない」


 傷が消えたわけではない。


 ただ、痛みだけがなくなった。


 別の日、母が苦手な薬を飲みながら、


「全然苦くないわ」


 と言った。


 私はそれを真実にした。


 母は驚いて、


「本当に苦くなくなったわ」


 と笑った。


 少しずつ、能力の仕組みが分かった。


 誰かが私へ嘘を言うと、銀色の文字が見える。


 その人自身についての嘘なら、一日に一度だけ真実へ変えられる。


 過去を変えることはできない。


「私は昨日そこへ行っていない」と言っても、昨日の出来事そのものを消すことはできない。


 けれど今の状態や気持ちについての嘘なら、変えられる。


 もちろん、私は何でも真実にしたわけではない。


 弟が勉強をしていないのに、


「僕はもう宿題を全部理解している」


 と言ったときは、迷わず「いいえ」を選んだ。


 本人はとても残念そうだった。


 この力のことは、家族と王家、それから神殿の一部の人しか知らない。


 何でも好きに変えられる力ではないが、それでも使い方によっては危険だからだ。


 そして十三歳のとき、私は王太子レオナルドの婚約者になった。


 私が公爵家の娘だったこと。


 王太子妃として必要な魔力を持っていたこと。


 成績が悪くなかったこと。


 理由はいくつもあった。


 私の祝福も、その一つだったと思う。


 最初のころ、私はレオナルドが好きだった。


 三歳年上の彼は大人に見えたし、私が王宮で迷ったときには迎えに来てくれた。好きな本を覚えていて誕生日に贈ってくれたこともある。


 恋だったのかと聞かれると、十三歳の私には分からない。


 でも、いつかこの人と結婚するのだと思うと嬉しかった。


 だから十六歳の誕生日に、初めて彼からその言葉を聞いたとき。


「アリシア。愛しているよ」


 私は息を止めた。


 嬉しかったからではない。


 彼の横に、銀色の文字が浮かんだからだ。


『この嘘を真実にしますか?』


 しばらく文字を見つめた。


「アリシア?」


「……はい」


「どうした?」


「いいえ」


 私は首を振った。


「何でもありません」


 その日は、能力を使わなかった。


 まだ婚約したばかりだからだと思った。


 恋愛感情がなくてもおかしくない。私だって、彼を男性として愛しているのかどうか自信がなかった。


 これから好きになればいい。


 そう考えた。


 でも一年後。


「愛している」


『この嘘を真実にしますか?』


 十八歳。


「君を大切に思っている。愛しているよ」


『この嘘を真実にしますか?』


 十九歳。


「これからも君と生きていきたい。愛している」


『この嘘を真実にしますか?』


 何度聞いても、文字は消えなかった。


 


「レオナルド様」


 十九歳の冬、私はとうとう聞いた。


 王宮の小さな応接室で、二人きりでお茶を飲んでいたときだった。


「どうした?」


「私を愛していらっしゃいますか?」


 レオナルドは少し驚いた顔をした。


「もちろん」


『この嘘を真実にしますか?』


「本当に?」


「ああ」


 また同じ文字が浮かぶ。


 私はカップを置いた。


「私の祝福のことは、ご存じですよね」


「知っている」


「では、今のお言葉が嘘であることを、私が分かることも?」


 レオナルドの表情が止まった。


 しばらくして、彼は小さく息を吐いた。


「……そうだったな」


 思っていたよりあっさり認められて、胸が少し痛んだ。


「なぜ嘘を?」


「君を傷つけたくなかった」


「でも、私は分かります」


「それについては考えが足りなかった。すまない」


 レオナルドは本当に申し訳なさそうだった。


 だから私は、少し安心した。


 嫌われているわけではないのだと思った。


「私のことがお嫌いなのですか?」


「嫌いではない」


 文字は出ない。


 本当だった。


「一緒にいるのが苦痛ですか?」


「そんなことはない」


 これも本当。


「では、どう思っていらっしゃるのです?」


 レオナルドは少し考えた。


「尊敬している」


 文字は出ない。


「君は王太子妃に向いている。頭もいいし、感情に流されすぎることもない。父上も母上も君を高く評価しているし、僕も君なら安心して隣に立ってもらえると思っている」


「……そうですか」


「結婚相手として、君以上の女性はいないと思っている。それは本当だ」


 文字は浮かばなかった。


 全部、本当なのだろう。


 ただ一つ。


 愛している。


 その言葉だけが嘘だった。


「でしたら、もう愛しているとは言わなくても構いません」


 私が言うと、レオナルドは少し困った顔をした。


「でも、婚約者に何も言わないのも変だろう」


「嘘を言われるよりはいいです」


「……そうか」


「はい」


 その日は、それで話が終わった。


 少し寂しかった。


 でも、まだ時間はあると思った。


 愛は作れなくても、育つことはあるかもしれない。


 そう思っていた。


 翌月。


 レオナルドは私へ花束を贈ってくれた。


「いつもありがとう。愛している」


『この嘘を真実にしますか?』


 私は花束を受け取りながら、少しだけ悲しくなった。


 


 それから一年が過ぎた。


 二十歳になった私は、三か月後にレオナルドと結婚することになった。


 王太子妃教育もほぼ終わり、式の準備も進んでいる。


 そんなある日、王妃様から呼ばれた。


 王妃様の部屋には、国王陛下とレオナルドもいた。


「アリシア。座ってちょうだい」


「はい」


 何の話だろうと思いながら椅子へ座る。


 王妃様は少し言いにくそうに夫である国王陛下を見た。


 先に口を開いたのは陛下だった。


「結婚について確認しておきたいことがある」


「はい」


「レオナルドから、話は聞いた」


 嫌な予感がした。


「何のお話でしょうか」


「愛情についてだ」


 私はレオナルドを見る。


 彼は私から目をそらさなかった。


「レオナルドは、まだ君に恋愛感情を持っていないそうだ」


「存じております」


「その上で結婚するつもりらしい」


「それも存じております」


 国王陛下は頷いた。


「私たちも、それ自体を問題にするつもりはない。王族の婚姻には政治的な意味もある」


「はい」


「ただ、王太子夫妻となれば、ある程度の信頼と親しさは必要になる」


 その言葉で、何を言われるのか分かった。


 たぶん。


 分かりたくなかっただけだ。


「そこでだ」


 国王陛下が続ける。


「一度だけ、君の祝福を使ってはどうかと思っている」


 私は何も答えなかった。


 王妃様が静かな声で言う。


「レオナルドに『アリシアを愛している』と言わせるのです。そして、あなたがそれを真実にする」


 やっぱり。


「そうすれば、夫婦としてもうまくいくでしょう」


「……」


「もちろん、無理にとは言わないわ。ただ、あなたにも悪い話ではないと思うの」


 私はレオナルドを見た。


「レオナルド様も、同じお考えですか?」


「ああ」


「私の力で、ご自分の気持ちを変えても構わないと?」


「構わない」


 迷いのない返事だった。


「どうせ僕たちは結婚する。君を嫌っているわけでもない。それなら愛情があった方が、お互いに幸せだろう」


 私は膝の上で手を握った。


「レオナルド様」


「何だ?」


「今、私を愛しているとおっしゃってください」


 王妃様が少し驚いた。


 レオナルドも一瞬だけ目を見開いたが、すぐに私を見る。


「分かった」


 そして、いつものように言った。


「アリシア。僕は君を愛している」


 銀色の文字が浮かんだ。


『この嘘を真実にしますか?』


 何度も見てきた文字だった。


 これまで私は、毎回「いいえ」と答えてきた。


 今日だけ「はい」を選べばいい。


 そうすれば、この人は私を愛する。


 三年間、何度も欲しかったものが手に入る。


 結婚後も安心できる。


 夫から愛される王太子妃になれる。


 私はしばらく文字を見つめた。


 そして心の中で答えた。


「いいえ」


 銀色の文字が消えた。


「アリシア?」


 レオナルドが呼ぶ。


「使ったのか?」


「いいえ」


「なぜ?」


 私は彼を見た。


「それは、あなたの気持ちではないからです」


「使えば僕の気持ちになる」


「違います」


「何が?」


「私が作った気持ちです」


 レオナルドが黙った。


「結果は同じでは?」


「私にとっては違います」


「でも――」


「レオナルド様」


 私は一度息を吸った。


「私は、あなたに愛されたいと思っていました」


 初めて口にした。


「十三歳で婚約したころから、いつか本当に好きになっていただけたらいいと思っていました。十六歳で初めて『愛している』と言われたとき、嘘だと分かって、とても悲しかったです」


 レオナルドの表情が少し変わる。


「それでも、いつか本当になればいいと思いました。でも、その『いつか』は、私の祝福で作りたいわけではありません」


「アリシア……」


「私が『はい』と言えば、あなたは私を愛するようになるのでしょう。でも、その愛を見るたびに私は思うはずです。これはあの日、自分で作ったものだ、と」


 そんな結婚生活を想像した。


 優しくされる。


 抱きしめられる。


 愛していると言われる。


 すべて本当になる。


 だからこそ、つらい。


「私はそれを、一生疑わずに受け取ることができないと思います」


 王妃様が静かに私を見ていた。


 国王陛下も何も言わない。


「では、どうしたい?」


 レオナルドが聞いた。


 私はすぐには答えられなかった。


 三か月後には結婚する。


 もう招待状も出ている。


 ドレスもほとんど完成している。


 十三歳から七年間、王太子妃になるために勉強してきた。


 それを全部やめる。


 怖くないと言えば嘘になる。


 そして私がそう言えば、目の前には文字が浮かぶだろう。


「婚約を」


 口にする。


「解消してください」


 レオナルドが息を止めた。


「本気か?」


「はい」


 文字は浮かばない。


 自分自身には能力を使えないけれど、そんなものがなくても分かる。


 これは嘘ではなかった。


 


 婚約解消は簡単ではなかった。


 私たちは七年間も婚約していたし、公爵家と王家の間で決めたことも多い。


 けれど、国王陛下は最終的に認めてくださった。


「祝福を使うかどうかは、もともと君が決めることだ」


 陛下はそう言った。


「それを婚姻の条件にしようとした私にも責任がある」


 王妃様はもっと短かった。


「ごめんなさい」


 そしてレオナルドは、最後まで私を責めなかった。


「一つ聞いていいか?」


 正式に婚約を解消する日のことだった。


「はい」


「僕がいつか、自分の意思で君を愛する可能性はなかったと思う?」


 私は少し考えた。


「分かりません」


「そうか」


「でも、その日を待つために結婚するのは、もうやめようと思います」


「……そうだな」


 レオナルドは苦く笑った。


「僕はずっと、結婚するなら君が一番いいと思っていた」


「知っています」


「でも、それと愛しているは同じではなかった」


「はい」


「今になって分かった」


 私は少しだけ笑った。


「それなら、よかったです」


 悲しくなかったわけではない。


 七年間一緒にいた人だ。


 もし彼が本当に私を愛してくれていたら、違う未来もあったのかもしれない。


 それでも、婚約を続けたいとは思わなかった。


 別れ際、レオナルドが言った。


「幸せになってくれ」


 文字は浮かばなかった。


「レオナルド様も」


 私もそう答えた。


 


 婚約解消後、私は王宮を離れた。


 実家へ戻って何もしないという選択もできたが、七年間学んできたことを無駄にはしたくなかった。


 私が選んだのは、王立祝福研究院だった。


 祝福や特殊な魔法について調べる場所で、私の《真実の祝福》についても昔から研究していた。私は研究される側ではなく、そこで働く側になった。


 最初は少し不安だった。


 元王太子の婚約者。


 珍しい祝福を持つ公爵令嬢。


 どう接すればいいのか困る人も多かった。


 ただ、一人だけ最初から変わらない人がいた。


「フォードさん。この記録、間違ってます」


 働き始めて三日目。


 そう言ってきたのが、ノア・ベルクだった。


 二十三歳。


 研究院の祝福記録を整理している文官で、私より二歳上だった。


「間違っていますか?」


「はい。十年前の使用記録が一回多い」


「でも、これは神殿から提出された記録ですよ」


「神殿も間違えます」


「王立研究院の記録より?」


「うちもよく間違えます」


「……そうなのですか」


「だから確認するんです」


 ノアは紙を私へ渡した。


 元王太子婚約者だからと遠慮する様子もない。


 私は少し驚いた。


「私に、そんなことを言って大丈夫なのですか?」


「間違ってるものは間違ってるので」


 文字は浮かばない。


 本当にそう思っているらしい。


「ノアさんは、正直な方ですね」


「そうでもないですよ」


『この嘘を真実にしますか?』


 文字が浮かんだ。


 私は思わず笑った。


「どうしました?」


「いいえ。何でもありません」


 それがノアとの最初の会話だった。


 


 ノアは別に、何でも正直に話す人ではなかった。


「今日の昼食、おいしかったですね」


 ある日の昼休み、研究院の食堂でそう言った。


『この嘘を真実にしますか?』


「おいしくなかったのですか?」


「え?」


「顔に出ています」


「……豆の煮込みが苦手です」


「では、なぜおいしいと?」


「作った人が近くにいたからです」


「なるほど」


 別の日。


「その髪型、似合っていますね」


『この嘘を真実にしますか?』


 私はノアを見る。


「本当に?」


「……」


「本当に?」


「昨日の方が好きでした」


「嘘だったのですね」


「何で分かるんですか?」


「顔に出ています」


「そんなに?」


 もちろん、顔には出ていない。


 祝福について詳しいことは、研究院でも上の立場の人しか知らないことになっているので、私は黙っていた。


 でも不思議だった。


 レオナルドの嘘は、聞くたびに悲しかった。


 ノアの嘘は、あまり嫌ではなかった。


 理由はすぐに分かった。


 ノアは認めるからだ。


「それ、本当ですか?」


 と聞けば、


「すみません。違います」


 と答える。


 そして、最初から私が欲しい言葉を決めているわけでもない。


 ある日、仕事で失敗した。


 私が確認を忘れたせいで、古い祝福記録を別の保管庫へ送ってしまった。


 一日かけて元へ戻したあと、私はかなり落ち込んでいた。


「私、この仕事に向いていないのでしょうか」


 ノアが少し考えた。


「一回失敗しただけでは分かりません」


「そこは『向いています』と言ってくださらないのですね」


「分からないことを分かるとは言えませんから」


 文字は浮かばない。


「でも」


 ノアは続けた。


「今日、一日かけて自分で全部戻したでしょう」


「はい」


「投げ出さない人なんだなとは思いました」


 これも文字は浮かばなかった。


 なぜか、その言葉の方が嬉しかった。


 


 半年ほどたったころ、ノアと仕事帰りに食事をするようになった。


 最初は同僚も一緒だった。


 そのうち二人だけの日も増えた。


「今日、どこへ行きます?」


「昨日の店は?」


「昨日も行ったでしょう」


「好きなんです」


「僕、昨日あそこで食べました」


「私も食べました」


「だったら別の店にしましょうよ」


「私は二日続いても構いません」


「僕は嫌です」


「では違う店にしましょう」


 それだけで決まる。


 ノアが嫌だと言えば、私は別の店を探す。


 私が疲れたと言えば、近い店にする。


 どちらかが我慢しなければならないわけではない。


 そんな当たり前のことが、少し新鮮だった。


 ある日、雨が降った。


 研究院を出ると、ノアが傘を持って立っていた。


「送ります」


「家まで?」


「はい」


「遠いですよ」


「知ってます」


 文字は出ない。


「どうして?」


「一緒に歩きたいからです」


 私は彼を見た。


 文字は出ない。


「……そうですか」


「嫌なら一人で帰ります」


「嫌ではありません」


「なら行きましょう」


 二人で傘に入った。


 歩き始めてから、胸が少しだけ速く鳴っていることに気づいた。


 その日は家へ着くまで、ノアは一度も「好きだ」とは言わなかった。


 でも私は、今まで聞いたどんな「愛している」よりも、さっきの言葉を何度も思い出した。


 一緒に歩きたい。


 それだけだった。


 それだけなのに、嬉しかった。


 


 一年後。


 私は二十二歳になった。


 レオナルドとの婚約が解消されてから、もう二年近くたっている。


 母から聞いたところでは、レオナルドには新しい婚約者候補がいるらしい。


 地方の侯爵家の娘で、彼とはよく意見がぶつかっているという。


「大丈夫なのですか?」


 母に聞くと、


「むしろ楽しそうだそうよ」


 と言われた。


 少し笑った。


 私とレオナルドは、あまり喧嘩をしなかった。


 相性がいいからだと思っていた。


 今なら、お互いに深く踏み込んでいなかっただけなのかもしれないと思う。


 それ以上、気にはならなかった。


 私には私の生活があった。


 そして、その生活の中にはノアがいた。


「アリシア」


 いつからか、仕事以外では名前で呼ばれるようになっていた。


「何です?」


「今度の休み、湖へ行きませんか?」


「遠いところ?」


「馬車で二時間くらい」


「二時間……」


「嫌ですか?」


 少し考えた。


 湖には行ってみたい。


 ノアと一日出かけることも嫌ではない。


「行きたいです」


「よかった」


 文字は浮かばない。


 その休日。


 二人で湖へ行った。


 特別なことは何もしなかった。


 湖の周りを歩き、露店でパンを買い、小さな船へ乗った。


 夕方、帰りの馬車を待っていたときだった。


「アリシア」


「はい」


「話したいことがあります」


 ノアが珍しく緊張していた。


「何でしょう?」


「僕は、あなたが好きです」


 私は動かなかった。


 文字を待った。


 いつもなら、嘘を言われた瞬間に浮かぶ。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


 何も出ない。


「アリシア?」


「……もう一度、言っていただけますか?」


「え?」


「お願いします」


 ノアは少し顔を赤くした。


「好きです」


 何も出ない。


 本当だ。


 胸の奥が熱くなった。


「どうして泣くんです?」


 言われて初めて、自分が泣いていることに気づいた。


「すみません」


「嫌でした?」


「違います」


「じゃあ何で」


「嬉しいんです」


 涙を拭いた。


「とても」


 ノアは少し安心した顔をした。


「では、返事を聞いても?」


「少し考えさせてください」


「はい」


「驚かないのですね」


「今決めろと言っても仕方ないでしょう」


「そうですね」


「どのくらい待てばいいですか?」


「分かりません」


「じゃあ分かったら教えてください」


 それだけ言って、ノアはいつものように馬車を待ち始めた。


 急かさない。


 勝手に答えを決めない。


 私が返事をするまで待つ。


 私はそんな横顔をしばらく見ていた。


「ノア」


「はい?」


「やっぱり、今言います」


「え?」


「私も、あなたが好きです」


 ノアの目が大きくなる。


「本当に?」


「はい」


「早くないですか?」


「考えました」


「三十秒くらいでしたよ」


「十分でした」


 ノアが笑った。


 私も笑った。


 


 それからさらに二年が過ぎた。


 私は二十四歳になった。


 ノアとは今も一緒にいる。


 喧嘩もする。


 彼は豆の煮込みが嫌いで、私は好きだ。


 私は休日にも仕事の話をしてしまうことがあり、ノアには何度か止められた。


「今日は仕事の話は禁止です」


「でも、少しだけ」


「駄目です」


「新しい祝福の記録が面白くて」


「明日聞きます」


 そんなやり取りをする。


 それでも不安になることはなかった。


 嫌なものを嫌だと言える。


 違う意見を違うと言える。


 そのあとも一緒にいられる。


 それで十分だった。


 春のある日。


 ノアに王宮近くの庭園へ呼ばれた。


 白い花が咲いていた。


 昔、レオナルドと結婚式の相談をした場所に少し似ている。


「アリシア」


「はい」


 ノアが私の前に立った。


「僕と結婚してください」


 驚かなかった。


 たぶん、いつか言われると思っていた。


「はい」


 私は答えた。


「喜んで」


 ノアがほっと息を吐く。


「よかった……」


「そんなに心配だったのですか?」


「断られる可能性だってあるでしょう」


「二年も付き合っているのに?」


「付き合っていることと、結婚したいことは別です」


 私は少し驚いた。


 そして笑った。


「そうですね」


 昔の私なら、同じだと思っていたかもしれない。


 婚約者なのだから結婚する。


 結婚するのだから愛する。


 愛されるのだから幸せになる。


 全部、同じ線の上にあると思っていた。


 でも違う。


 一つずつ、自分で選んでいい。


「アリシア」


「はい」


 ノアが少し恥ずかしそうに言った。


「愛しています」


 私は何も答えなかった。


 ただ、待った。


 一秒。


 二秒。


 いつまで待っても、銀色の文字は出なかった。


「……アリシア?」


「もう一度お願いします」


「また?」


「はい」


「愛しています」


 何も出ない。


 私は笑った。


「私も愛しています」


「今日は変ですね」


「そうかもしれません」


 ノアは私の祝福の詳しい仕組みを知らない。


 いつか話してもいいと思っている。


 でも今日はまだ、胸の中だけに置いておきたかった。


 婚約者から「愛している」と言われるたび、昔の私は銀色の文字を見ていた。


『この嘘を真実にしますか?』


 私は一度も「はい」を選ばなかった。


 もしあのとき選んでいたら、レオナルドは私を本当に愛するようになっていたのだろう。


 幸せな夫婦になれた可能性もある。


 それでも後悔はしていない。


 私が欲しかったのは、愛してくれるように変えられた人ではなかった。


 自分の意思で私を好きになり、自分の意思でそばにいたいと思ってくれる人だった。


「ところで」


 ノアが言う。


「今日の服、すごく似合っています」


 銀色の文字が浮かんだ。


『この嘘を真実にしますか?』


 私はノアを見る。


「……本当に?」


「似合ってます」


 文字は消えない。


「ノア」


「はい」


「正直に」


 しばらく沈黙したあと、彼は観念したように言った。


「その服より、昨日の青い服の方が好きです」


「やっぱり」


「何で分かるんですか?」


「顔に出ています」


「絶対出てないと思うんですが」


「出ています」


 私は笑った。


 今日も、嘘を一つ真実にすることができる。


 でも、この嘘を真実にする必要はなかった。


 服が似合わなくても困らない。


 好みが違っても困らない。


 そして何より。


 私が一番真実であってほしかった言葉は、もう私の力を必要としていなかった。

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