嘘を真実にできる私ですが、婚約者の「愛している」だけは真実にしませんでした
婚約者から「愛している」と言われるたび、私の目の前には同じ文字が浮かぶ。
『この嘘を真実にしますか?』
そして私は今日も、心の中で「いいえ」と答えた。
「どうした、アリシア?」
「いいえ。何でもありません」
向かいに座る王太子レオナルドは、不思議そうに私を見ていた。
春の王宮庭園。白い花が咲く中で、私たちは結婚式について話していた。三か月後には私は彼と結婚し、この国の王太子妃になる予定だった。
レオナルドは優秀な人だ。二十二歳の今では国王陛下の仕事の一部を任され、外国から来た使節とも堂々と話す。私に乱暴な言葉を向けたこともなければ、他の女性と恋仲になったこともない。
だから周囲から見れば、私たちは何の問題もない婚約者同士だった。
「では、式の花は白いリリアでいいな?」
「はい。私は好きです」
「よかった」
レオナルドは書類に印をつけたあと、顔を上げた。
「アリシア」
「はい」
「愛しているよ」
また銀色の文字が浮かんだ。
『この嘘を真実にしますか?』
私は少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
それだけ答えた。
レオナルドは気づいていない。
彼の言葉が嘘だということを、私は十六歳のころから知っていた。
私、アリシア・フォードには、生まれつき少し変わった祝福がある。
名前は《真実の祝福》。
誰かが私に向かって、自分自身についての嘘を言ったとき、その言葉を真実に変えることができる。
一日に一度だけ。
たとえば、幼いころに弟が転んで膝をすりむいたことがあった。
「こんなの痛くない!」
泣きながら強がった弟の横に、銀色の文字が浮かんだ。
『この嘘を真実にしますか?』
当時七歳だった私は、意味も分からず「はい」と願った。
すると弟は泣き止んだ。
「……本当に痛くない」
傷が消えたわけではない。
ただ、痛みだけがなくなった。
別の日、母が苦手な薬を飲みながら、
「全然苦くないわ」
と言った。
私はそれを真実にした。
母は驚いて、
「本当に苦くなくなったわ」
と笑った。
少しずつ、能力の仕組みが分かった。
誰かが私へ嘘を言うと、銀色の文字が見える。
その人自身についての嘘なら、一日に一度だけ真実へ変えられる。
過去を変えることはできない。
「私は昨日そこへ行っていない」と言っても、昨日の出来事そのものを消すことはできない。
けれど今の状態や気持ちについての嘘なら、変えられる。
もちろん、私は何でも真実にしたわけではない。
弟が勉強をしていないのに、
「僕はもう宿題を全部理解している」
と言ったときは、迷わず「いいえ」を選んだ。
本人はとても残念そうだった。
この力のことは、家族と王家、それから神殿の一部の人しか知らない。
何でも好きに変えられる力ではないが、それでも使い方によっては危険だからだ。
そして十三歳のとき、私は王太子レオナルドの婚約者になった。
私が公爵家の娘だったこと。
王太子妃として必要な魔力を持っていたこと。
成績が悪くなかったこと。
理由はいくつもあった。
私の祝福も、その一つだったと思う。
最初のころ、私はレオナルドが好きだった。
三歳年上の彼は大人に見えたし、私が王宮で迷ったときには迎えに来てくれた。好きな本を覚えていて誕生日に贈ってくれたこともある。
恋だったのかと聞かれると、十三歳の私には分からない。
でも、いつかこの人と結婚するのだと思うと嬉しかった。
だから十六歳の誕生日に、初めて彼からその言葉を聞いたとき。
「アリシア。愛しているよ」
私は息を止めた。
嬉しかったからではない。
彼の横に、銀色の文字が浮かんだからだ。
『この嘘を真実にしますか?』
しばらく文字を見つめた。
「アリシア?」
「……はい」
「どうした?」
「いいえ」
私は首を振った。
「何でもありません」
その日は、能力を使わなかった。
まだ婚約したばかりだからだと思った。
恋愛感情がなくてもおかしくない。私だって、彼を男性として愛しているのかどうか自信がなかった。
これから好きになればいい。
そう考えた。
でも一年後。
「愛している」
『この嘘を真実にしますか?』
十八歳。
「君を大切に思っている。愛しているよ」
『この嘘を真実にしますか?』
十九歳。
「これからも君と生きていきたい。愛している」
『この嘘を真実にしますか?』
何度聞いても、文字は消えなかった。
「レオナルド様」
十九歳の冬、私はとうとう聞いた。
王宮の小さな応接室で、二人きりでお茶を飲んでいたときだった。
「どうした?」
「私を愛していらっしゃいますか?」
レオナルドは少し驚いた顔をした。
「もちろん」
『この嘘を真実にしますか?』
「本当に?」
「ああ」
また同じ文字が浮かぶ。
私はカップを置いた。
「私の祝福のことは、ご存じですよね」
「知っている」
「では、今のお言葉が嘘であることを、私が分かることも?」
レオナルドの表情が止まった。
しばらくして、彼は小さく息を吐いた。
「……そうだったな」
思っていたよりあっさり認められて、胸が少し痛んだ。
「なぜ嘘を?」
「君を傷つけたくなかった」
「でも、私は分かります」
「それについては考えが足りなかった。すまない」
レオナルドは本当に申し訳なさそうだった。
だから私は、少し安心した。
嫌われているわけではないのだと思った。
「私のことがお嫌いなのですか?」
「嫌いではない」
文字は出ない。
本当だった。
「一緒にいるのが苦痛ですか?」
「そんなことはない」
これも本当。
「では、どう思っていらっしゃるのです?」
レオナルドは少し考えた。
「尊敬している」
文字は出ない。
「君は王太子妃に向いている。頭もいいし、感情に流されすぎることもない。父上も母上も君を高く評価しているし、僕も君なら安心して隣に立ってもらえると思っている」
「……そうですか」
「結婚相手として、君以上の女性はいないと思っている。それは本当だ」
文字は浮かばなかった。
全部、本当なのだろう。
ただ一つ。
愛している。
その言葉だけが嘘だった。
「でしたら、もう愛しているとは言わなくても構いません」
私が言うと、レオナルドは少し困った顔をした。
「でも、婚約者に何も言わないのも変だろう」
「嘘を言われるよりはいいです」
「……そうか」
「はい」
その日は、それで話が終わった。
少し寂しかった。
でも、まだ時間はあると思った。
愛は作れなくても、育つことはあるかもしれない。
そう思っていた。
翌月。
レオナルドは私へ花束を贈ってくれた。
「いつもありがとう。愛している」
『この嘘を真実にしますか?』
私は花束を受け取りながら、少しだけ悲しくなった。
それから一年が過ぎた。
二十歳になった私は、三か月後にレオナルドと結婚することになった。
王太子妃教育もほぼ終わり、式の準備も進んでいる。
そんなある日、王妃様から呼ばれた。
王妃様の部屋には、国王陛下とレオナルドもいた。
「アリシア。座ってちょうだい」
「はい」
何の話だろうと思いながら椅子へ座る。
王妃様は少し言いにくそうに夫である国王陛下を見た。
先に口を開いたのは陛下だった。
「結婚について確認しておきたいことがある」
「はい」
「レオナルドから、話は聞いた」
嫌な予感がした。
「何のお話でしょうか」
「愛情についてだ」
私はレオナルドを見る。
彼は私から目をそらさなかった。
「レオナルドは、まだ君に恋愛感情を持っていないそうだ」
「存じております」
「その上で結婚するつもりらしい」
「それも存じております」
国王陛下は頷いた。
「私たちも、それ自体を問題にするつもりはない。王族の婚姻には政治的な意味もある」
「はい」
「ただ、王太子夫妻となれば、ある程度の信頼と親しさは必要になる」
その言葉で、何を言われるのか分かった。
たぶん。
分かりたくなかっただけだ。
「そこでだ」
国王陛下が続ける。
「一度だけ、君の祝福を使ってはどうかと思っている」
私は何も答えなかった。
王妃様が静かな声で言う。
「レオナルドに『アリシアを愛している』と言わせるのです。そして、あなたがそれを真実にする」
やっぱり。
「そうすれば、夫婦としてもうまくいくでしょう」
「……」
「もちろん、無理にとは言わないわ。ただ、あなたにも悪い話ではないと思うの」
私はレオナルドを見た。
「レオナルド様も、同じお考えですか?」
「ああ」
「私の力で、ご自分の気持ちを変えても構わないと?」
「構わない」
迷いのない返事だった。
「どうせ僕たちは結婚する。君を嫌っているわけでもない。それなら愛情があった方が、お互いに幸せだろう」
私は膝の上で手を握った。
「レオナルド様」
「何だ?」
「今、私を愛しているとおっしゃってください」
王妃様が少し驚いた。
レオナルドも一瞬だけ目を見開いたが、すぐに私を見る。
「分かった」
そして、いつものように言った。
「アリシア。僕は君を愛している」
銀色の文字が浮かんだ。
『この嘘を真実にしますか?』
何度も見てきた文字だった。
これまで私は、毎回「いいえ」と答えてきた。
今日だけ「はい」を選べばいい。
そうすれば、この人は私を愛する。
三年間、何度も欲しかったものが手に入る。
結婚後も安心できる。
夫から愛される王太子妃になれる。
私はしばらく文字を見つめた。
そして心の中で答えた。
「いいえ」
銀色の文字が消えた。
「アリシア?」
レオナルドが呼ぶ。
「使ったのか?」
「いいえ」
「なぜ?」
私は彼を見た。
「それは、あなたの気持ちではないからです」
「使えば僕の気持ちになる」
「違います」
「何が?」
「私が作った気持ちです」
レオナルドが黙った。
「結果は同じでは?」
「私にとっては違います」
「でも――」
「レオナルド様」
私は一度息を吸った。
「私は、あなたに愛されたいと思っていました」
初めて口にした。
「十三歳で婚約したころから、いつか本当に好きになっていただけたらいいと思っていました。十六歳で初めて『愛している』と言われたとき、嘘だと分かって、とても悲しかったです」
レオナルドの表情が少し変わる。
「それでも、いつか本当になればいいと思いました。でも、その『いつか』は、私の祝福で作りたいわけではありません」
「アリシア……」
「私が『はい』と言えば、あなたは私を愛するようになるのでしょう。でも、その愛を見るたびに私は思うはずです。これはあの日、自分で作ったものだ、と」
そんな結婚生活を想像した。
優しくされる。
抱きしめられる。
愛していると言われる。
すべて本当になる。
だからこそ、つらい。
「私はそれを、一生疑わずに受け取ることができないと思います」
王妃様が静かに私を見ていた。
国王陛下も何も言わない。
「では、どうしたい?」
レオナルドが聞いた。
私はすぐには答えられなかった。
三か月後には結婚する。
もう招待状も出ている。
ドレスもほとんど完成している。
十三歳から七年間、王太子妃になるために勉強してきた。
それを全部やめる。
怖くないと言えば嘘になる。
そして私がそう言えば、目の前には文字が浮かぶだろう。
「婚約を」
口にする。
「解消してください」
レオナルドが息を止めた。
「本気か?」
「はい」
文字は浮かばない。
自分自身には能力を使えないけれど、そんなものがなくても分かる。
これは嘘ではなかった。
婚約解消は簡単ではなかった。
私たちは七年間も婚約していたし、公爵家と王家の間で決めたことも多い。
けれど、国王陛下は最終的に認めてくださった。
「祝福を使うかどうかは、もともと君が決めることだ」
陛下はそう言った。
「それを婚姻の条件にしようとした私にも責任がある」
王妃様はもっと短かった。
「ごめんなさい」
そしてレオナルドは、最後まで私を責めなかった。
「一つ聞いていいか?」
正式に婚約を解消する日のことだった。
「はい」
「僕がいつか、自分の意思で君を愛する可能性はなかったと思う?」
私は少し考えた。
「分かりません」
「そうか」
「でも、その日を待つために結婚するのは、もうやめようと思います」
「……そうだな」
レオナルドは苦く笑った。
「僕はずっと、結婚するなら君が一番いいと思っていた」
「知っています」
「でも、それと愛しているは同じではなかった」
「はい」
「今になって分かった」
私は少しだけ笑った。
「それなら、よかったです」
悲しくなかったわけではない。
七年間一緒にいた人だ。
もし彼が本当に私を愛してくれていたら、違う未来もあったのかもしれない。
それでも、婚約を続けたいとは思わなかった。
別れ際、レオナルドが言った。
「幸せになってくれ」
文字は浮かばなかった。
「レオナルド様も」
私もそう答えた。
婚約解消後、私は王宮を離れた。
実家へ戻って何もしないという選択もできたが、七年間学んできたことを無駄にはしたくなかった。
私が選んだのは、王立祝福研究院だった。
祝福や特殊な魔法について調べる場所で、私の《真実の祝福》についても昔から研究していた。私は研究される側ではなく、そこで働く側になった。
最初は少し不安だった。
元王太子の婚約者。
珍しい祝福を持つ公爵令嬢。
どう接すればいいのか困る人も多かった。
ただ、一人だけ最初から変わらない人がいた。
「フォードさん。この記録、間違ってます」
働き始めて三日目。
そう言ってきたのが、ノア・ベルクだった。
二十三歳。
研究院の祝福記録を整理している文官で、私より二歳上だった。
「間違っていますか?」
「はい。十年前の使用記録が一回多い」
「でも、これは神殿から提出された記録ですよ」
「神殿も間違えます」
「王立研究院の記録より?」
「うちもよく間違えます」
「……そうなのですか」
「だから確認するんです」
ノアは紙を私へ渡した。
元王太子婚約者だからと遠慮する様子もない。
私は少し驚いた。
「私に、そんなことを言って大丈夫なのですか?」
「間違ってるものは間違ってるので」
文字は浮かばない。
本当にそう思っているらしい。
「ノアさんは、正直な方ですね」
「そうでもないですよ」
『この嘘を真実にしますか?』
文字が浮かんだ。
私は思わず笑った。
「どうしました?」
「いいえ。何でもありません」
それがノアとの最初の会話だった。
ノアは別に、何でも正直に話す人ではなかった。
「今日の昼食、おいしかったですね」
ある日の昼休み、研究院の食堂でそう言った。
『この嘘を真実にしますか?』
「おいしくなかったのですか?」
「え?」
「顔に出ています」
「……豆の煮込みが苦手です」
「では、なぜおいしいと?」
「作った人が近くにいたからです」
「なるほど」
別の日。
「その髪型、似合っていますね」
『この嘘を真実にしますか?』
私はノアを見る。
「本当に?」
「……」
「本当に?」
「昨日の方が好きでした」
「嘘だったのですね」
「何で分かるんですか?」
「顔に出ています」
「そんなに?」
もちろん、顔には出ていない。
祝福について詳しいことは、研究院でも上の立場の人しか知らないことになっているので、私は黙っていた。
でも不思議だった。
レオナルドの嘘は、聞くたびに悲しかった。
ノアの嘘は、あまり嫌ではなかった。
理由はすぐに分かった。
ノアは認めるからだ。
「それ、本当ですか?」
と聞けば、
「すみません。違います」
と答える。
そして、最初から私が欲しい言葉を決めているわけでもない。
ある日、仕事で失敗した。
私が確認を忘れたせいで、古い祝福記録を別の保管庫へ送ってしまった。
一日かけて元へ戻したあと、私はかなり落ち込んでいた。
「私、この仕事に向いていないのでしょうか」
ノアが少し考えた。
「一回失敗しただけでは分かりません」
「そこは『向いています』と言ってくださらないのですね」
「分からないことを分かるとは言えませんから」
文字は浮かばない。
「でも」
ノアは続けた。
「今日、一日かけて自分で全部戻したでしょう」
「はい」
「投げ出さない人なんだなとは思いました」
これも文字は浮かばなかった。
なぜか、その言葉の方が嬉しかった。
半年ほどたったころ、ノアと仕事帰りに食事をするようになった。
最初は同僚も一緒だった。
そのうち二人だけの日も増えた。
「今日、どこへ行きます?」
「昨日の店は?」
「昨日も行ったでしょう」
「好きなんです」
「僕、昨日あそこで食べました」
「私も食べました」
「だったら別の店にしましょうよ」
「私は二日続いても構いません」
「僕は嫌です」
「では違う店にしましょう」
それだけで決まる。
ノアが嫌だと言えば、私は別の店を探す。
私が疲れたと言えば、近い店にする。
どちらかが我慢しなければならないわけではない。
そんな当たり前のことが、少し新鮮だった。
ある日、雨が降った。
研究院を出ると、ノアが傘を持って立っていた。
「送ります」
「家まで?」
「はい」
「遠いですよ」
「知ってます」
文字は出ない。
「どうして?」
「一緒に歩きたいからです」
私は彼を見た。
文字は出ない。
「……そうですか」
「嫌なら一人で帰ります」
「嫌ではありません」
「なら行きましょう」
二人で傘に入った。
歩き始めてから、胸が少しだけ速く鳴っていることに気づいた。
その日は家へ着くまで、ノアは一度も「好きだ」とは言わなかった。
でも私は、今まで聞いたどんな「愛している」よりも、さっきの言葉を何度も思い出した。
一緒に歩きたい。
それだけだった。
それだけなのに、嬉しかった。
一年後。
私は二十二歳になった。
レオナルドとの婚約が解消されてから、もう二年近くたっている。
母から聞いたところでは、レオナルドには新しい婚約者候補がいるらしい。
地方の侯爵家の娘で、彼とはよく意見がぶつかっているという。
「大丈夫なのですか?」
母に聞くと、
「むしろ楽しそうだそうよ」
と言われた。
少し笑った。
私とレオナルドは、あまり喧嘩をしなかった。
相性がいいからだと思っていた。
今なら、お互いに深く踏み込んでいなかっただけなのかもしれないと思う。
それ以上、気にはならなかった。
私には私の生活があった。
そして、その生活の中にはノアがいた。
「アリシア」
いつからか、仕事以外では名前で呼ばれるようになっていた。
「何です?」
「今度の休み、湖へ行きませんか?」
「遠いところ?」
「馬車で二時間くらい」
「二時間……」
「嫌ですか?」
少し考えた。
湖には行ってみたい。
ノアと一日出かけることも嫌ではない。
「行きたいです」
「よかった」
文字は浮かばない。
その休日。
二人で湖へ行った。
特別なことは何もしなかった。
湖の周りを歩き、露店でパンを買い、小さな船へ乗った。
夕方、帰りの馬車を待っていたときだった。
「アリシア」
「はい」
「話したいことがあります」
ノアが珍しく緊張していた。
「何でしょう?」
「僕は、あなたが好きです」
私は動かなかった。
文字を待った。
いつもなら、嘘を言われた瞬間に浮かぶ。
一秒。
二秒。
三秒。
何も出ない。
「アリシア?」
「……もう一度、言っていただけますか?」
「え?」
「お願いします」
ノアは少し顔を赤くした。
「好きです」
何も出ない。
本当だ。
胸の奥が熱くなった。
「どうして泣くんです?」
言われて初めて、自分が泣いていることに気づいた。
「すみません」
「嫌でした?」
「違います」
「じゃあ何で」
「嬉しいんです」
涙を拭いた。
「とても」
ノアは少し安心した顔をした。
「では、返事を聞いても?」
「少し考えさせてください」
「はい」
「驚かないのですね」
「今決めろと言っても仕方ないでしょう」
「そうですね」
「どのくらい待てばいいですか?」
「分かりません」
「じゃあ分かったら教えてください」
それだけ言って、ノアはいつものように馬車を待ち始めた。
急かさない。
勝手に答えを決めない。
私が返事をするまで待つ。
私はそんな横顔をしばらく見ていた。
「ノア」
「はい?」
「やっぱり、今言います」
「え?」
「私も、あなたが好きです」
ノアの目が大きくなる。
「本当に?」
「はい」
「早くないですか?」
「考えました」
「三十秒くらいでしたよ」
「十分でした」
ノアが笑った。
私も笑った。
それからさらに二年が過ぎた。
私は二十四歳になった。
ノアとは今も一緒にいる。
喧嘩もする。
彼は豆の煮込みが嫌いで、私は好きだ。
私は休日にも仕事の話をしてしまうことがあり、ノアには何度か止められた。
「今日は仕事の話は禁止です」
「でも、少しだけ」
「駄目です」
「新しい祝福の記録が面白くて」
「明日聞きます」
そんなやり取りをする。
それでも不安になることはなかった。
嫌なものを嫌だと言える。
違う意見を違うと言える。
そのあとも一緒にいられる。
それで十分だった。
春のある日。
ノアに王宮近くの庭園へ呼ばれた。
白い花が咲いていた。
昔、レオナルドと結婚式の相談をした場所に少し似ている。
「アリシア」
「はい」
ノアが私の前に立った。
「僕と結婚してください」
驚かなかった。
たぶん、いつか言われると思っていた。
「はい」
私は答えた。
「喜んで」
ノアがほっと息を吐く。
「よかった……」
「そんなに心配だったのですか?」
「断られる可能性だってあるでしょう」
「二年も付き合っているのに?」
「付き合っていることと、結婚したいことは別です」
私は少し驚いた。
そして笑った。
「そうですね」
昔の私なら、同じだと思っていたかもしれない。
婚約者なのだから結婚する。
結婚するのだから愛する。
愛されるのだから幸せになる。
全部、同じ線の上にあると思っていた。
でも違う。
一つずつ、自分で選んでいい。
「アリシア」
「はい」
ノアが少し恥ずかしそうに言った。
「愛しています」
私は何も答えなかった。
ただ、待った。
一秒。
二秒。
いつまで待っても、銀色の文字は出なかった。
「……アリシア?」
「もう一度お願いします」
「また?」
「はい」
「愛しています」
何も出ない。
私は笑った。
「私も愛しています」
「今日は変ですね」
「そうかもしれません」
ノアは私の祝福の詳しい仕組みを知らない。
いつか話してもいいと思っている。
でも今日はまだ、胸の中だけに置いておきたかった。
婚約者から「愛している」と言われるたび、昔の私は銀色の文字を見ていた。
『この嘘を真実にしますか?』
私は一度も「はい」を選ばなかった。
もしあのとき選んでいたら、レオナルドは私を本当に愛するようになっていたのだろう。
幸せな夫婦になれた可能性もある。
それでも後悔はしていない。
私が欲しかったのは、愛してくれるように変えられた人ではなかった。
自分の意思で私を好きになり、自分の意思でそばにいたいと思ってくれる人だった。
「ところで」
ノアが言う。
「今日の服、すごく似合っています」
銀色の文字が浮かんだ。
『この嘘を真実にしますか?』
私はノアを見る。
「……本当に?」
「似合ってます」
文字は消えない。
「ノア」
「はい」
「正直に」
しばらく沈黙したあと、彼は観念したように言った。
「その服より、昨日の青い服の方が好きです」
「やっぱり」
「何で分かるんですか?」
「顔に出ています」
「絶対出てないと思うんですが」
「出ています」
私は笑った。
今日も、嘘を一つ真実にすることができる。
でも、この嘘を真実にする必要はなかった。
服が似合わなくても困らない。
好みが違っても困らない。
そして何より。
私が一番真実であってほしかった言葉は、もう私の力を必要としていなかった。




