異世界恋愛ざまあ&溺愛短編集 傷ついた令嬢たちの幸せな逆転劇
靴も買わせてもらえなかった徴税官の妻ですが、「大事にしてね」ともらった靴のおかげで辺境伯様に溺愛されることになりました
「靴? 貧乏貴族の娘が、今さら着飾って誰に見せるつもりだ」
夫のロルフは、私の足元をちらっと見ただけでそう言った。
まだ履けるだろ、と言いたいらしい。
まあ、見た目だけならそうかもしれない。つま先は破れていないし、紐も一応ついている。
でも底は薄くなっていて、雨の日は水がしみる。石畳を歩けば足の裏が痛い。冬の朝なんて、冷たすぎて泣きたくなる。
私の名前はエリナ・グランツ。辺境伯領の徴税官ロルフ・グランツの妻だ。
妻、といっても、夫に大事にされているわけではない。
結婚するまでは、この人はこうではなかった。
結婚する前の私は、レーヴェン子爵家の娘だった。
子爵家といっても、父が亡くなってからは領地も屋敷も傾きかけていた。そこへ現れたのがロルフだ。
結婚前のロルフは、評判がよかった。
若いのに仕事ができる。上司にも領民にも人気がある。いつも穏やかで、誰にでも誠実そうに笑う。
母も親戚も、「あの人なら安心だ」と言った。
私もそう思った。
初めてまともに話したのは、どこかの伯爵家の舞踏会だった。
ロルフは壁際で退屈そうにしていた私に、肩をすくめて笑った。
「貴族の舞踏会って、堅苦しくて苦手なんです。あなたもそうでしょう?」
その言い方が、気取っていなくて、正直な人に見えた。
「家柄より、人柄を見たいんです」
そんなことを言われて、私は少しだけ胸を高鳴らせた。
「あなたの家を守りたい」
「持参金は私が預かって、必ず立て直してみせる」
「辺境伯家にも顔が利く。君を苦労させない」
あの頃の私は、馬鹿みたいに信じた。
でも。
結果、母が私のために残してくれた装身具も、父の形見の馬車も、持参金も、全部ロルフの管理になった。
そして私は、自分の靴一足さえ買えない妻になった。
夫は外では愛想がいい。役所では「頼れるロルフさん」。酒場では「気前のいいロルフ様」。歌姫には花束を贈るし、同僚には酒をおごる。
ロルフに言わせれば、それは全部「人付き合いに必要な金」らしい。
でも家では、私がパンを一つ買うにも許可がいる。
「明日、北倉庫まで帳簿を届けに行くの。歩く距離が長いから、せめて仕事用の靴を」
「俺の金で贅沢するな」
「贅沢じゃなくて、あなたの仕事に必要で」
「お前が社会経験を積めるように、俺の仕事を手伝わせてやってるんだろ」
手伝わせてやってる。
夫は本気でそう思っている。
でも実際には、夫が忘れた書類を届けるのも、夫が間違えた税額を直すのも、夫がきつく取り立てすぎた家に謝りに行くのも、全部私だった。
ロルフは最後に肉だけ食べて、椅子にもたれた。
「もう結婚した女が、着飾ってどうする。俺の用事で歩くだけなんだから、その靴で十分だろ」
その瞬間、頭の奥で何かがぷつんと切れた。
私がぼろぼろの靴を買い替えるのは贅沢で、夫の酒場通いは人付き合い。
ああ、そう。
この人は、私を妻として見ていない。
財布どころか、人間としても見ていない。
それでも、すぐに離縁はできなかった。
正当な理由をそろえて辺境伯様に申し立てれば、妻からでも離縁はできる。
けれど、靴を買わせてもらえない。夫の仕事を手伝わされている。その程度では、きっと理由にならない。
それに、離縁した女なんて、この町ではまともに扱われない。夫に捨てられたか、自分から家を壊した狂った女だと笑われるだけだ。
実家のレーヴェン子爵家も、もう私を引き取れる余裕はなかった。
そう思ったら、悲しいより先に腹が立った。
***
翌朝、私は古い靴で市場へ行った。
買えないのはわかっていた。でも靴屋の前を通ったら、どうしても足が止まってしまった。
飾りのない、丈夫そうな革靴。
ただそれだけなのに、まぶしく見えた。
欲しい。
自分のお金で、自分の足に合う靴を買いたい。
たったそれだけのことが許されない今の暮らしが、たまらなく惨めだった。
「その靴、気に入ったの?」
後ろから声をかけられて、私は慌てて振り向いた。
立っていたのは、銀色の髪をゆるく結った女の人だった。上品だけれど、貴族ぶった感じはない。指先には小さな火傷の跡がいくつもあった。
職人さんだろうか。
「いえ、見るだけです」
「どうして?」
「夫に叱られるので」
言ってから、しまったと思った。
知らない人に、何を正直に話しているんだろう。
けれどその人は、笑わなかった。
私の靴を見て、私の顔を見て、それから少しだけ眉を寄せた。
「あなた、エリナ・レーヴェンね」
それは私の旧姓だ。
なんで知ってるんだろう。
ロルフは私を「おい」か「お前」としか呼ばないし、役所の人たちは「ロルフ徴税官の奥さん」と呼ぶ。
「前に、一度見かけたの」
「どこで見たんですか?」
「まあ、いいじゃない。それより、これ、履いてみない? 私が作ったの」
差し出されたのは、茶色の靴だった。
新品ではない。派手でもない。むしろ市場に並んでいる靴より地味なくらいだ。
でも、縫い目がきれいだった。
革も柔らかそうで、見るからに足に優しそうだった。
「いただけません」
「売り物じゃないの。私が作った試作品。誰かに履いてほしかっただけ」
「でも、お代が払えません」
「じゃあ、お代の代わりに大事にして」
女の人は、にこっと笑った。
「大事にしてくれたら、いいことがあるかも」
子ども向けのおまじないみたいな言葉なのに、返事をしようとした私の声は震えた。
「……本当に、いいんですか」
「もちろん」
私はその場で靴を履き替えた。
驚くほど足に合った。
履きやすい。
どれだけ歩いても足が痛くならなそうだった。
「ありがとうございます。必ず、大事にします」
女の人は満足そうにうなずいた。
「うん。あなたなら大丈夫」
***
それから一年、私はその靴を毎日履いた。
雨の日は乾かした。泥は落とした。革油を塗った。紐がほつれたら縫った。
毎日あれほど歩いているのに、靴底だけは不思議なくらい減らなかった。
ロルフには何度も笑われた。
「いつまでそんな貧乏くさい靴を履いてるんだ」
「気に入っているので」
「みすぼらしい女には似合いだな」
前なら泣いていたかもしれない。
でも、その靴を履いていると、少しだけ自信を持てた。
私は歩いた。
最初は、ロルフに命じられたからだった。苦情を言いに来た領民をなだめてこい。忘れた書類を届けてこい。税の間違いを、俺の名前を出さずに直してこい。
でも、行けば困っている人がいた。
兵士の奥さんが熱を出したと聞けば薬師を呼びに。
冬麦の配給が漏れている村へ知らせに。
孤児院の薪が冬の半ばで足りなくなったと知れば、倉庫番の前に座って、出した薪の束を一つずつ数え直した。
夫は言った。
「余計なことをするな。女が口を出すと面倒になる」
でも領民は言った。
「奥さんが来てくれて助かった」
「ロルフ様に言っても聞いてもらえなかったんです」
「あなたがいてくれてよかった」
あなたがいてくれてよかった。
その言葉だけが、辛い家庭での心の支えだった。
***
その靴をもらって一年目の冬、酒場の歌姫が家まで来た。
夕方、玄関の扉を開けると、甘い香水の匂いがした。
立っていたのは、赤い靴を履いた若い女。
私には「贅沢だ」と言って買わせなかった、新しい靴。
その靴で、彼女は私の家の敷居を踏んでいた。
「ロルフ様、素敵な靴をありがとう!」
私の後ろから帰ってきたロルフに、歌姫はぱっと抱きついた。
ロルフは一瞬だけ私を見た。
ばつが悪そうにするかと思ったら、違った。
「……おい、外で待てと言っただろ」
怒るところはそこなの?
歌姫は私をちらっと見て、くすっと笑った。
「ごめんなさい。嬉しくて待てなかったの」
それから私の足元を見て、わざとらしく目を丸くした。
「まあ。奥様は、そんな古い靴を履いていらっしゃるの?」
赤い靴の爪先が、私の泥の染みた靴を指した。
玄関の敷居の上で、つやつや光る赤い革だけが浮いて見えた。
「ロルフ様ったらひどい人。私にはこんなに素敵な靴をくださったのに、奥様には買ってあげないのね」
歌姫は赤い靴を見せつけるように、くるりと片足を回した。
甘い香水の匂いが、狭い玄関に入り込んでくる。
「でも、奥様にはその古い靴の方がお似合いかも。とても地味ですもの」
「こいつには、それで十分だ」
ロルフは、私の靴ではなく私の顔を見て笑った。
歌姫も声を立てて笑う。
その笑い声が、家の中の壁に当たって返ってきた。
――お前たち、私をどこまで馬鹿にすれば気が済むの。
握りしめた手のひらに、爪が食い込んだ。
腹立たしかった。辛かった。今すぐ泣き出してしまいたかった。
歌姫はロルフの腕に自分の腕を絡めた。
「ねえ、早く行きましょう。宿の部屋、取ってあるんでしょう?」
ロルフは私から目をそらし、歌姫を連れて家を出ていった。
私は裸足で立っているわけでもないのに、足元から冷えていく気がした。
二人は腕を組んだまま通りを歩き、そのまま角の宿屋へ入っていった。
夫と愛人が二人きりで宿の部屋に入って、何をするのか。
そんなことは、私にだってわかる。
赤い靴が宿屋の扉の向こうへ消えるまで、私は玄関に立って見ていた。
扉が閉まる直前、歌姫の笑い声がもう一度だけ聞こえた。
その音が途切れた瞬間、私は家へ戻り、ロルフの机の引き出しを全部開けた。
泣くのは後でいい。
今は、あの赤い靴を何の金で買ったのか確かめたかった。
家計簿と、ロルフが家へ持ち帰っていた仕事の書きつけを並べた。
歌姫への贈り物、宿代、酒代、宝石代。出るわ出るわだった。
その合計は、領民から預かった一時金の不足額とぴたりと合った。
どうして今まで見なかったんだろう。
見てはいけないと言われていたからだ。夫の仕事に口を出すな。女が帳簿を見るな。何度もそう怒鳴られて、いつの間にか、机の引き出しに触れるだけで胸が縮むようになっていた。
夜が明けるころ、酒と香水の匂いをつけたロルフが帰ってきた。
私は書き写した紙を、服の内側に隠した。
「おかえりなさい」
「起きていたのか」
「はい」
ロルフは私をろくに見もせず、上着を椅子に投げた。
「セラのことだが、しばらく町に部屋を取る」
「……あの方のために、ですか」
「いちいちうるさいな。お前は今まで通り、家のことと俺の仕事をしていればいい」
悪びれるどころか、ロルフは面倒そうにあくびをした。
「正妻なら、そのくらい黙って受け入れろ。俺が食わせてやってるんだからな」
食わせてやった。
私に靴一足も買わせなかった人が、私の前で愛人の部屋の話をしている。
その言葉で、もう迷わなかった。
「では、離縁しましょう」
今度こそ、私の声は震えなかった。
ロルフは一瞬、ぽかんとした。
私が泣いてすがると思っていたのだろう。あるいは、怒ってもどうせ従うと思っていたのかもしれない。
「は? 誰が離縁すると言った」
「私です」
「財産なんて一銭も渡さないぞ。俺が食わせてやったんだからな」
残念だけど、もうそんな元気はない。
すがるくらいなら、この靴でどこへでも歩いていく。
***
私はその日のうちに辺境伯城へ行き、離縁調停と公金の使い込み調査を申し立てた。
十日後、離縁調停は辺境伯城の小広間で開かれた。
ロルフはいつもより上等な上着を着て、外向きの笑顔を貼りつけていた。
「妻は昔から思い込みが激しくて。私の仕事に口を出したがるんです」
ロルフは困ったように眉を下げ、書記官たちへ申し訳なさそうに笑った。
「家にいただけの妻には、領政のことは難しかったのでしょう。私が少し酒場で付き合いをしただけで、浮気だの使い込みだのと騒いでしまって」
まるで、私を気遣っているような声だった。
「私も、もっと優しく言い聞かせるべきでした。妻をここまで追い詰めてしまった責任は、夫である私にもあります」
小広間の空気が少しだけ揺れた。
ああ、まただ。
外ではいつも、この顔をする。
穏やかで、妻思いで、自分を責めることもできる立派な夫。
私が何を言っても、あの人当たりのいい笑顔の前では、ただの取り乱した女に見えてしまう。
悔しかった。
悔しくて、膝の上の手を握りしめた。爪の跡が残るほど強く握ってから、ゆっくり開く。
正面の役人が、書きかけの羽ペンを止めた。
「では、奥様。ご主人の使い込みを示す証拠はありますか」
書き写した紙はある。
けれど、それは私が一人で写したものだ。ロルフが改ざんだと言えば、それで終わってしまう。
喉が乾いた。
「……今、この場に出せるものは」
役人は小さく息を吐いた。
「証拠がないのですね。では、この申し立ては却下ということで」
視界が、すっと暗くなった。
やっぱり、駄目なの。
笑われて、奪われて、歩かされて。
それでも証拠がなければ、私はただの騒いだ妻で終わるの。
私は足元の靴を見た。
大事にしてきた靴。
この靴だけは、私が歩いてきたことを知っている。
「エリナさんが嘘をついていない証拠なら、ありますよ」
扉が開いた。
入ってきたのは、市場で靴をくれたあの女の人だった。
でも今日は旅装ではない。
深い青のドレス。胸には魔道具師の銀章。そして辺境伯家の紋章。
ロルフの顔が引きつった。
「リ、リディア様……」
リディア様。
辺境伯の姉で、領内一の魔道具師。現辺境伯の補佐もしている才女だ。
名前と噂は何度も聞いたことがある。けれど、人前にはほとんど姿を見せない方で、顔までは知らなかった。
市場で靴をくれたあの人が、まさかリディア様だったなんて。
そんな人が、私の前に立って笑った。
「久しぶりね、エリナさん。靴を大事にしてくれてありがとう」
「リディア……様。どうして私を」
「南門通りの靴職人から、あなたの噂を聞いていたの。困っている人のために走り回る、レーヴェン家のお嬢さんがいるって。だから市場で見かけたとき、この靴を託したくなったの」
「まさか、この靴は」
「私の魔道具よ。歩いた場所と、そこであなたが何をしたかを覚えているの」
ロルフが青ざめた。
「そんな靴が証拠になるものか!」
「なるわ。持ち主が自分の意思で大事に履いたときだけ、その人の歩みを残す魔道具よ。この靴が証明するのは、エリナさんの歩み。あなたの罪を証明するのは、城で調べた帳簿よ」
リディア様は私を見た。
「十日前、あなたが自分の足で城まで来てくれたから、正式に帳簿を調べることができたの。あなたが申し立てなければ、ここまで早くは動けなかったわ」
リディア様は、私の足元を見た。
「あなたは一年間、一度も粗末にしなかった。だからこの靴は、全部覚えている」
靴底から光が広がった。
小広間の床に、辺境伯領の地図が浮かび上がる。
町、村、橋、兵舎、倉庫、孤児院。
その上に、細い金色の線がどんどん伸びていく。
私が歩いた道だった。
北倉庫、冬麦の袋を六十二袋から六十九袋に数え直す。
東橋村、取りすぎた銀貨三枚をミラ婆さんへ返す。
第三兵舎、片腕を失った兵士の家へ薪と薬代を届ける。
孤児院、消えた薪束十八束の行き先を倉庫番に問いただす。
南門通り、税を払えず泣いていた靴職人の娘に、分納の印をもらいに走る。
金色の文字が一つ増えるたび、書記官たちの羽ペンが止まり、ロルフの顔から血の気が引いていった。
ロルフは真っ赤になった。
「そ、それは妻が勝手にやったことで」
「勝手に助けた、ということですね」
リディア様の声は冷たかった。
「ロルフ徴税官。あなたの評判がよかったのは、妻があなたの失敗を歩いて埋めていたからです」
リディア様は、書記官に目配せした。
机の上に、赤い靴と数枚の領収書が置かれる。
私の喉が、きゅっと鳴った。
あの靴だった。
歌姫が履いていた、赤い靴。
「そしてこちらは、あなたが領民預かり金から支払った贈答品の記録です。受取人は酒場の歌姫セラ。品目は婦人靴、首飾り、宿代」
小広間がどよめいた。
ロルフは椅子を鳴らして立ち上がった。
「そ、それは交際費で」
「徴税官の交際費で、愛人の靴を買う必要が?」
リディア様の一言で、ロルフの口が閉じた。
そのとき、奥の席から若い男性が立ち上がった。
黒髪に、冬空みたいな青い目。
思わず背筋を伸ばした。
辺境伯カイラス様だった。
彼は私の前まで来ると、まっすぐ頭を下げた。
「エリナ殿。領主として、あなたに礼を言わせてほしい」
「私に、ですか」
「本来なら、私が見なければいけなかった道です。あなたが先に歩いてくれていた」
そんなふうに言われたのは、初めてだった。
私のしたことを、夫の手伝いではなく、私の仕事として見てくれた。
膝の上で握っていた手を、ようやくほどくことができた。
カイラス様はロルフを見た。
「横領、職務怠慢、配給帳簿の偽装。加えて公金で愛人に贈答品を買った疑い。調査は始めている。君には今日付けで職務停止を命じる」
「辺境伯様! お待ちください! その女は私の妻で」
「だから、まず離縁を成立させる」
カイラス様は容赦がなかった。
「慰謝料と財産分与も、正式に支払わせる。君が愛人に贈った靴代と宿代とは別にだ」
リディア様が続けた。
「それから、レーヴェン子爵家から預かった持参金と装身具。あれも返還対象よ。『妻のために管理する』と言って受け取ったものを、酒代に変えていい法律はないわ」
ロルフは口をぱくぱくさせた。
いつも外でだけ上手に笑っていた夫が、今は小さく見えた。
肩から力が抜けた。
ああ、終わるんだ。
やっと。
離縁はその日のうちに成立した。
ロルフは官舎を追い出され、給金も差し押さえられた。
歌姫のセラは「妻がいるなんて知らなかった」と言い張ったらしい。
けれど私の家まで来て、私を「奥様」と呼んだことを役人に話すと、ロルフはあっさり白状した。
赤い靴も首飾りも、領民から盗んだ金で買われた品として没収。受け取った金も返すことになり、雇っていた酒場からも追い出された。
あれほど自慢していた赤い靴を脱がされ、古い靴で町を出ていったそうだ。
正直、それを聞いたときは少しだけ笑ってしまった。
***
離縁が成立した翌日、私はまた辺境伯城に呼ばれた。
リディア様はにこにこしていた。
「ね? いいことあったでしょう?」
「ありました。ありすぎて、まだ夢みたいです」
「夢じゃないわよ。あなたはこれから、辺境伯城で民政補佐官として働くの」
「私が、ですか」
「あなた以上に領民のところへ足を運んでいる人、うちにはいないもの」
胸が熱くなった。
誰かの妻としてではなく、私の名前で働ける。
その横で、カイラス様が少し緊張した顔をしていた。
「エリナ殿」
「はい」
「仕事の話とは別に、一つお願いがある」
辺境伯様にお願いされるようなことなんて、思いつかない。
私は身構えた。
「明日、あなたが歩いてきた道を案内してほしい」
「私が、ですか?」
「領主として、自分の足で見たい。あなたが誰を助け、何を見てきたのか」
私は思わず言った。
「泥道ですよ」
「靴は用意します」
「村の人の話は長いです」
「聞きます」
「寒いです」
「外套も用意します」
「たぶん、食事も簡単なものになります」
「あなたと同じものを食べます」
まっすぐすぎる返事に、私は困ってしまった。
ロルフはいつも私を歩かせた。
自分は馬車に乗って、汚れる場所には行かなかった。
でもカイラス様は、隣を歩くと言う。
翌朝、城門の前にカイラス様が立っていた。
飾りのない、丈夫な靴を履いている。
「行きましょう、辺境伯様」
「はい。今日はあなたの言うとおりに歩きます」
カイラス様は、本当に私の隣を歩いた。
私が立ち止まれば一緒に止まり、村人が話し始めれば、日が傾いても急かさなかった。昼には私と同じ固いパンを食べ、ぬかるみでは先に渡ってから手を差し出した。
帰り道、カイラス様の歩き方がおかしくなった。
「もしかして、足が痛いんですか?」
「……少しだけ」
「無理をなさったんですね」
「あなたに情けないところを見せたくなくて」
私は吹き出した。
「隠して歩けなくなる方が、よほど困ります」
「覚えておきます」
次の巡回で、カイラス様はもっと丈夫な靴を履いてきた。
その次も、そのまた次も、彼は私と一緒に歩いた。
東橋村の壊れた橋は直され、孤児院には冬を越せるだけの薪が届いた。北倉庫には新しい管理人が置かれた。
報告書のいちばん上には、毎回きちんと私の名前が書かれた。
給金も私自身が受け取り、管理した。初めて自分のお金で新しい外套を買った日は、店を出てから何度も財布の中を確かめてしまった。
そんな日々が半年続いたころ、城の廊下でリディア様に呼び止められた。
「エリナさん。最近、弟があなたの巡回予定ばかり聞いてくるのよ」
「領地を見たいからでは?」
「あなたが一人で出かけた日は、一日中機嫌が悪かったけれど?」
そこへ来たカイラス様が、珍しく慌てた。
「姉上、余計なことを言わないでください」
「城中が知っていることよ。知らないのはエリナさんくらいだわ」
私の顔が熱くなった。
カイラス様は耳まで赤くしたまま、私に向き直った。
「今日の巡回のあと、少し時間をいただけませんか」
連れていかれたのは、リディア様と出会った市場の靴屋だった。
店主が出してきた箱には、飾りのない茶色の革靴が入っていた。私があの日、店先で見つめていたものによく似ている。
「あなたに贈りたくて作らせました。ただ、勝手に押しつけるのは嫌だったので」
カイラス様は緊張した顔で私を見た。
「履いてみてくれますか。気に入らなければ、別のものを一緒に選びたい」
買うことも、断ることも、選び直すこともできる。
ロルフとは、何もかも違った。
「履いてみます」
新しい靴は、ぴったり足に合った。
カイラス様が、ほっとしたように笑う。
「エリナ。半年間、あなたの隣を歩いて、領地の見え方が変わりました。困っている人を見つけるあなたを尊敬しています。そして今は、一人の女性として、あなたが好きです」
彼は私の前に膝をついた。
「これからも、あなたの隣を歩かせてください。私と結婚してくれませんか」
私は、古い魔法の靴と新しい靴を見比べた。
どちらを履くか、今は私が決められる。
「はい。よろしくお願いします、カイラス様」
「カイラスと呼んでください」
「それは、もう少し慣れてから」
彼は少し残念そうにしたあと、すぐに笑った。
私たちはその半年後に結婚した。
結婚しても、私は民政補佐官の仕事を続けている。給金はもちろん私のものだし、欲しいものは自分で買える。
ただ、一つだけ困っていることがある。
「エリナ、北の村へ行くなら、こちらの靴の方が温かい」
「カイラス。また靴を買ったの?」
「贈ってもいいだろうか」
「靴箱がいっぱいです」
「では、靴箱を増やそう」
雨の日用、雪の日用、巡回用、舞踏会用。
私に靴一足買わせなかった前の夫とは正反対に、今の夫は何かと理由をつけて靴を贈りたがる。
しかも必ず、受け取ってもいいかと私に聞くのだ。
大事にしてきた魔法の靴は、新しい靴の隣に置いてある。
靴一足も買わせてもらえなかった私が、今では辺境伯の溺愛で増え続ける靴の置き場所に悩んでいる。
週2〜3回ほど、このような短編を更新していく予定です。
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