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異世界恋愛ざまあ&溺愛短編集 傷ついた令嬢たちの幸せな逆転劇

靴も買わせてもらえなかった徴税官の妻ですが、「大事にしてね」ともらった靴のおかげで辺境伯様に溺愛されることになりました

掲載日:2026/08/05

「靴? 貧乏貴族の娘が、今さら着飾って誰に見せるつもりだ」


 夫のロルフは、私の足元をちらっと見ただけでそう言った。


 まだ履けるだろ、と言いたいらしい。

 まあ、見た目だけならそうかもしれない。つま先は破れていないし、紐も一応ついている。

 でも底は薄くなっていて、雨の日は水がしみる。石畳を歩けば足の裏が痛い。冬の朝なんて、冷たすぎて泣きたくなる。


 私の名前はエリナ・グランツ。辺境伯領の徴税官ロルフ・グランツの妻だ。


 妻、といっても、夫に大事にされているわけではない。


 結婚するまでは、この人はこうではなかった。

 結婚する前の私は、レーヴェン子爵家の娘だった。

 子爵家といっても、父が亡くなってからは領地も屋敷も傾きかけていた。そこへ現れたのがロルフだ。


 結婚前のロルフは、評判がよかった。

 若いのに仕事ができる。上司にも領民にも人気がある。いつも穏やかで、誰にでも誠実そうに笑う。

 母も親戚も、「あの人なら安心だ」と言った。


 私もそう思った。


 初めてまともに話したのは、どこかの伯爵家の舞踏会だった。


 ロルフは壁際で退屈そうにしていた私に、肩をすくめて笑った。


「貴族の舞踏会って、堅苦しくて苦手なんです。あなたもそうでしょう?」


 その言い方が、気取っていなくて、正直な人に見えた。


「家柄より、人柄を見たいんです」


 そんなことを言われて、私は少しだけ胸を高鳴らせた。


「あなたの家を守りたい」

「持参金は私が預かって、必ず立て直してみせる」

「辺境伯家にも顔が利く。君を苦労させない」


 あの頃の私は、馬鹿みたいに信じた。


 でも。


 結果、母が私のために残してくれた装身具も、父の形見の馬車も、持参金も、全部ロルフの管理になった。

 そして私は、自分の靴一足さえ買えない妻になった。


 夫は外では愛想がいい。役所では「頼れるロルフさん」。酒場では「気前のいいロルフ様」。歌姫には花束を贈るし、同僚には酒をおごる。

 ロルフに言わせれば、それは全部「人付き合いに必要な金」らしい。


 でも家では、私がパンを一つ買うにも許可がいる。


「明日、北倉庫まで帳簿を届けに行くの。歩く距離が長いから、せめて仕事用の靴を」

「俺の金で贅沢するな」

「贅沢じゃなくて、あなたの仕事に必要で」

「お前が社会経験を積めるように、俺の仕事を手伝わせてやってるんだろ」


 手伝わせてやってる。


 夫は本気でそう思っている。


 でも実際には、夫が忘れた書類を届けるのも、夫が間違えた税額を直すのも、夫がきつく取り立てすぎた家に謝りに行くのも、全部私だった。


 ロルフは最後に肉だけ食べて、椅子にもたれた。


「もう結婚した女が、着飾ってどうする。俺の用事で歩くだけなんだから、その靴で十分だろ」


 その瞬間、頭の奥で何かがぷつんと切れた。


 私がぼろぼろの靴を買い替えるのは贅沢で、夫の酒場通いは人付き合い。


 ああ、そう。


 この人は、私を妻として見ていない。

 財布どころか、人間としても見ていない。


 それでも、すぐに離縁はできなかった。


 正当な理由をそろえて辺境伯様に申し立てれば、妻からでも離縁はできる。


 けれど、靴を買わせてもらえない。夫の仕事を手伝わされている。その程度では、きっと理由にならない。

 それに、離縁した女なんて、この町ではまともに扱われない。夫に捨てられたか、自分から家を壊した狂った女だと笑われるだけだ。


 実家のレーヴェン子爵家も、もう私を引き取れる余裕はなかった。


 そう思ったら、悲しいより先に腹が立った。


***


 翌朝、私は古い靴で市場へ行った。


 買えないのはわかっていた。でも靴屋の前を通ったら、どうしても足が止まってしまった。

 飾りのない、丈夫そうな革靴。

 ただそれだけなのに、まぶしく見えた。


 欲しい。


 自分のお金で、自分の足に合う靴を買いたい。


 たったそれだけのことが許されない今の暮らしが、たまらなく惨めだった。


「その靴、気に入ったの?」


 後ろから声をかけられて、私は慌てて振り向いた。


 立っていたのは、銀色の髪をゆるく結った女の人だった。上品だけれど、貴族ぶった感じはない。指先には小さな火傷の跡がいくつもあった。


 職人さんだろうか。


「いえ、見るだけです」

「どうして?」

「夫に叱られるので」


 言ってから、しまったと思った。


 知らない人に、何を正直に話しているんだろう。


 けれどその人は、笑わなかった。

 私の靴を見て、私の顔を見て、それから少しだけ眉を寄せた。


「あなた、エリナ・レーヴェンね」


 それは私の旧姓だ。

 なんで知ってるんだろう。


 ロルフは私を「おい」か「お前」としか呼ばないし、役所の人たちは「ロルフ徴税官の奥さん」と呼ぶ。


「前に、一度見かけたの」

「どこで見たんですか?」

「まあ、いいじゃない。それより、これ、履いてみない? 私が作ったの」


 差し出されたのは、茶色の靴だった。


 新品ではない。派手でもない。むしろ市場に並んでいる靴より地味なくらいだ。

 でも、縫い目がきれいだった。

 革も柔らかそうで、見るからに足に優しそうだった。


「いただけません」

「売り物じゃないの。私が作った試作品。誰かに履いてほしかっただけ」

「でも、お代が払えません」

「じゃあ、お代の代わりに大事にして」


 女の人は、にこっと笑った。


「大事にしてくれたら、いいことがあるかも」


 子ども向けのおまじないみたいな言葉なのに、返事をしようとした私の声は震えた。


「……本当に、いいんですか」

「もちろん」


 私はその場で靴を履き替えた。


 驚くほど足に合った。


 履きやすい。

 どれだけ歩いても足が痛くならなそうだった。


「ありがとうございます。必ず、大事にします」


 女の人は満足そうにうなずいた。


「うん。あなたなら大丈夫」


***


 それから一年、私はその靴を毎日履いた。


 雨の日は乾かした。泥は落とした。革油を塗った。紐がほつれたら縫った。

 毎日あれほど歩いているのに、靴底だけは不思議なくらい減らなかった。


 ロルフには何度も笑われた。


「いつまでそんな貧乏くさい靴を履いてるんだ」

「気に入っているので」

「みすぼらしい女には似合いだな」


 前なら泣いていたかもしれない。


 でも、その靴を履いていると、少しだけ自信を持てた。


 私は歩いた。


 最初は、ロルフに命じられたからだった。苦情を言いに来た領民をなだめてこい。忘れた書類を届けてこい。税の間違いを、俺の名前を出さずに直してこい。


 でも、行けば困っている人がいた。


 兵士の奥さんが熱を出したと聞けば薬師を呼びに。

 冬麦の配給が漏れている村へ知らせに。

 孤児院の薪が冬の半ばで足りなくなったと知れば、倉庫番の前に座って、出した薪の束を一つずつ数え直した。


 夫は言った。


「余計なことをするな。女が口を出すと面倒になる」


 でも領民は言った。


「奥さんが来てくれて助かった」

「ロルフ様に言っても聞いてもらえなかったんです」

「あなたがいてくれてよかった」


 あなたがいてくれてよかった。


 その言葉だけが、辛い家庭での心の支えだった。


***


 その靴をもらって一年目の冬、酒場の歌姫が家まで来た。


 夕方、玄関の扉を開けると、甘い香水の匂いがした。

 立っていたのは、赤い靴を履いた若い女。


 私には「贅沢だ」と言って買わせなかった、新しい靴。


 その靴で、彼女は私の家の敷居を踏んでいた。


「ロルフ様、素敵な靴をありがとう!」


 私の後ろから帰ってきたロルフに、歌姫はぱっと抱きついた。


 ロルフは一瞬だけ私を見た。

 ばつが悪そうにするかと思ったら、違った。


「……おい、外で待てと言っただろ」


 怒るところはそこなの?


 歌姫は私をちらっと見て、くすっと笑った。


「ごめんなさい。嬉しくて待てなかったの」


 それから私の足元を見て、わざとらしく目を丸くした。


「まあ。奥様は、そんな古い靴を履いていらっしゃるの?」


 赤い靴の爪先が、私の泥の染みた靴を指した。

 玄関の敷居の上で、つやつや光る赤い革だけが浮いて見えた。


「ロルフ様ったらひどい人。私にはこんなに素敵な靴をくださったのに、奥様には買ってあげないのね」


 歌姫は赤い靴を見せつけるように、くるりと片足を回した。

 甘い香水の匂いが、狭い玄関に入り込んでくる。


「でも、奥様にはその古い靴の方がお似合いかも。とても地味ですもの」

「こいつには、それで十分だ」


 ロルフは、私の靴ではなく私の顔を見て笑った。

 歌姫も声を立てて笑う。


 その笑い声が、家の中の壁に当たって返ってきた。


 ――お前たち、私をどこまで馬鹿にすれば気が済むの。


 握りしめた手のひらに、爪が食い込んだ。

 腹立たしかった。辛かった。今すぐ泣き出してしまいたかった。


 歌姫はロルフの腕に自分の腕を絡めた。


「ねえ、早く行きましょう。宿の部屋、取ってあるんでしょう?」


 ロルフは私から目をそらし、歌姫を連れて家を出ていった。


 私は裸足で立っているわけでもないのに、足元から冷えていく気がした。


 二人は腕を組んだまま通りを歩き、そのまま角の宿屋へ入っていった。

 夫と愛人が二人きりで宿の部屋に入って、何をするのか。

 そんなことは、私にだってわかる。


 赤い靴が宿屋の扉の向こうへ消えるまで、私は玄関に立って見ていた。

 扉が閉まる直前、歌姫の笑い声がもう一度だけ聞こえた。


 その音が途切れた瞬間、私は家へ戻り、ロルフの机の引き出しを全部開けた。


 泣くのは後でいい。


 今は、あの赤い靴を何の金で買ったのか確かめたかった。


 家計簿と、ロルフが家へ持ち帰っていた仕事の書きつけを並べた。


 歌姫への贈り物、宿代、酒代、宝石代。出るわ出るわだった。


 その合計は、領民から預かった一時金の不足額とぴたりと合った。


 どうして今まで見なかったんだろう。


 見てはいけないと言われていたからだ。夫の仕事に口を出すな。女が帳簿を見るな。何度もそう怒鳴られて、いつの間にか、机の引き出しに触れるだけで胸が縮むようになっていた。


 夜が明けるころ、酒と香水の匂いをつけたロルフが帰ってきた。


 私は書き写した紙を、服の内側に隠した。


「おかえりなさい」

「起きていたのか」

「はい」


 ロルフは私をろくに見もせず、上着を椅子に投げた。


「セラのことだが、しばらく町に部屋を取る」

「……あの方のために、ですか」

「いちいちうるさいな。お前は今まで通り、家のことと俺の仕事をしていればいい」


 悪びれるどころか、ロルフは面倒そうにあくびをした。


「正妻なら、そのくらい黙って受け入れろ。俺が食わせてやってるんだからな」


 食わせてやった。

 私に靴一足も買わせなかった人が、私の前で愛人の部屋の話をしている。


 その言葉で、もう迷わなかった。


「では、離縁しましょう」


 今度こそ、私の声は震えなかった。


 ロルフは一瞬、ぽかんとした。


 私が泣いてすがると思っていたのだろう。あるいは、怒ってもどうせ従うと思っていたのかもしれない。


「は? 誰が離縁すると言った」

「私です」

「財産なんて一銭も渡さないぞ。俺が食わせてやったんだからな」


 残念だけど、もうそんな元気はない。


 すがるくらいなら、この靴でどこへでも歩いていく。


***


 私はその日のうちに辺境伯城へ行き、離縁調停と公金の使い込み調査を申し立てた。


 十日後、離縁調停は辺境伯城の小広間で開かれた。

 ロルフはいつもより上等な上着を着て、外向きの笑顔を貼りつけていた。


「妻は昔から思い込みが激しくて。私の仕事に口を出したがるんです」


 ロルフは困ったように眉を下げ、書記官たちへ申し訳なさそうに笑った。


「家にいただけの妻には、領政のことは難しかったのでしょう。私が少し酒場で付き合いをしただけで、浮気だの使い込みだのと騒いでしまって」


 まるで、私を気遣っているような声だった。


「私も、もっと優しく言い聞かせるべきでした。妻をここまで追い詰めてしまった責任は、夫である私にもあります」


 小広間の空気が少しだけ揺れた。


 ああ、まただ。


 外ではいつも、この顔をする。

 穏やかで、妻思いで、自分を責めることもできる立派な夫。


 私が何を言っても、あの人当たりのいい笑顔の前では、ただの取り乱した女に見えてしまう。


 悔しかった。


 悔しくて、膝の上の手を握りしめた。爪の跡が残るほど強く握ってから、ゆっくり開く。


 正面の役人が、書きかけの羽ペンを止めた。


「では、奥様。ご主人の使い込みを示す証拠はありますか」


 書き写した紙はある。

 けれど、それは私が一人で写したものだ。ロルフが改ざんだと言えば、それで終わってしまう。


 喉が乾いた。


「……今、この場に出せるものは」


 役人は小さく息を吐いた。


「証拠がないのですね。では、この申し立ては却下ということで」


 視界が、すっと暗くなった。


 やっぱり、駄目なの。


 笑われて、奪われて、歩かされて。

 それでも証拠がなければ、私はただの騒いだ妻で終わるの。


 私は足元の靴を見た。


 大事にしてきた靴。


 この靴だけは、私が歩いてきたことを知っている。


「エリナさんが嘘をついていない証拠なら、ありますよ」


 扉が開いた。


 入ってきたのは、市場で靴をくれたあの女の人だった。


 でも今日は旅装ではない。


 深い青のドレス。胸には魔道具師の銀章。そして辺境伯家の紋章。


 ロルフの顔が引きつった。


「リ、リディア様……」


 リディア様。


 辺境伯の姉で、領内一の魔道具師。現辺境伯の補佐もしている才女だ。


 名前と噂は何度も聞いたことがある。けれど、人前にはほとんど姿を見せない方で、顔までは知らなかった。


 市場で靴をくれたあの人が、まさかリディア様だったなんて。


 そんな人が、私の前に立って笑った。


「久しぶりね、エリナさん。靴を大事にしてくれてありがとう」

「リディア……様。どうして私を」

「南門通りの靴職人から、あなたの噂を聞いていたの。困っている人のために走り回る、レーヴェン家のお嬢さんがいるって。だから市場で見かけたとき、この靴を託したくなったの」

「まさか、この靴は」

「私の魔道具よ。歩いた場所と、そこであなたが何をしたかを覚えているの」


 ロルフが青ざめた。


「そんな靴が証拠になるものか!」

「なるわ。持ち主が自分の意思で大事に履いたときだけ、その人の歩みを残す魔道具よ。この靴が証明するのは、エリナさんの歩み。あなたの罪を証明するのは、城で調べた帳簿よ」


 リディア様は私を見た。


「十日前、あなたが自分の足で城まで来てくれたから、正式に帳簿を調べることができたの。あなたが申し立てなければ、ここまで早くは動けなかったわ」


 リディア様は、私の足元を見た。


「あなたは一年間、一度も粗末にしなかった。だからこの靴は、全部覚えている」


 靴底から光が広がった。


 小広間の床に、辺境伯領の地図が浮かび上がる。


 町、村、橋、兵舎、倉庫、孤児院。


 その上に、細い金色の線がどんどん伸びていく。


 私が歩いた道だった。


 北倉庫、冬麦の袋を六十二袋から六十九袋に数え直す。

 東橋村、取りすぎた銀貨三枚をミラ婆さんへ返す。

 第三兵舎、片腕を失った兵士の家へ薪と薬代を届ける。

 孤児院、消えた薪束十八束の行き先を倉庫番に問いただす。

 南門通り、税を払えず泣いていた靴職人の娘に、分納の印をもらいに走る。


 金色の文字が一つ増えるたび、書記官たちの羽ペンが止まり、ロルフの顔から血の気が引いていった。


 ロルフは真っ赤になった。


「そ、それは妻が勝手にやったことで」

「勝手に助けた、ということですね」


 リディア様の声は冷たかった。


「ロルフ徴税官。あなたの評判がよかったのは、妻があなたの失敗を歩いて埋めていたからです」


 リディア様は、書記官に目配せした。


 机の上に、赤い靴と数枚の領収書が置かれる。


 私の喉が、きゅっと鳴った。


 あの靴だった。


 歌姫が履いていた、赤い靴。


「そしてこちらは、あなたが領民預かり金から支払った贈答品の記録です。受取人は酒場の歌姫セラ。品目は婦人靴、首飾り、宿代」


 小広間がどよめいた。


 ロルフは椅子を鳴らして立ち上がった。


「そ、それは交際費で」

「徴税官の交際費で、愛人の靴を買う必要が?」


 リディア様の一言で、ロルフの口が閉じた。


 そのとき、奥の席から若い男性が立ち上がった。


 黒髪に、冬空みたいな青い目。


 思わず背筋を伸ばした。


 辺境伯カイラス様だった。


 彼は私の前まで来ると、まっすぐ頭を下げた。


「エリナ殿。領主として、あなたに礼を言わせてほしい」

「私に、ですか」

「本来なら、私が見なければいけなかった道です。あなたが先に歩いてくれていた」


 そんなふうに言われたのは、初めてだった。


 私のしたことを、夫の手伝いではなく、私の仕事として見てくれた。


 膝の上で握っていた手を、ようやくほどくことができた。


 カイラス様はロルフを見た。


「横領、職務怠慢、配給帳簿の偽装。加えて公金で愛人に贈答品を買った疑い。調査は始めている。君には今日付けで職務停止を命じる」

「辺境伯様! お待ちください! その女は私の妻で」

「だから、まず離縁を成立させる」


 カイラス様は容赦がなかった。


「慰謝料と財産分与も、正式に支払わせる。君が愛人に贈った靴代と宿代とは別にだ」


 リディア様が続けた。


「それから、レーヴェン子爵家から預かった持参金と装身具。あれも返還対象よ。『妻のために管理する』と言って受け取ったものを、酒代に変えていい法律はないわ」


 ロルフは口をぱくぱくさせた。


 いつも外でだけ上手に笑っていた夫が、今は小さく見えた。


 肩から力が抜けた。


 ああ、終わるんだ。

 やっと。


 離縁はその日のうちに成立した。


 ロルフは官舎を追い出され、給金も差し押さえられた。


 歌姫のセラは「妻がいるなんて知らなかった」と言い張ったらしい。


 けれど私の家まで来て、私を「奥様」と呼んだことを役人に話すと、ロルフはあっさり白状した。


 赤い靴も首飾りも、領民から盗んだ金で買われた品として没収。受け取った金も返すことになり、雇っていた酒場からも追い出された。


 あれほど自慢していた赤い靴を脱がされ、古い靴で町を出ていったそうだ。


 正直、それを聞いたときは少しだけ笑ってしまった。


***


 離縁が成立した翌日、私はまた辺境伯城に呼ばれた。


 リディア様はにこにこしていた。


「ね? いいことあったでしょう?」

「ありました。ありすぎて、まだ夢みたいです」

「夢じゃないわよ。あなたはこれから、辺境伯城で民政補佐官として働くの」

「私が、ですか」

「あなた以上に領民のところへ足を運んでいる人、うちにはいないもの」


 胸が熱くなった。


 誰かの妻としてではなく、私の名前で働ける。


 その横で、カイラス様が少し緊張した顔をしていた。


「エリナ殿」

「はい」

「仕事の話とは別に、一つお願いがある」


 辺境伯様にお願いされるようなことなんて、思いつかない。


 私は身構えた。


「明日、あなたが歩いてきた道を案内してほしい」

「私が、ですか?」

「領主として、自分の足で見たい。あなたが誰を助け、何を見てきたのか」


 私は思わず言った。


「泥道ですよ」

「靴は用意します」

「村の人の話は長いです」

「聞きます」

「寒いです」

「外套も用意します」

「たぶん、食事も簡単なものになります」

「あなたと同じものを食べます」


 まっすぐすぎる返事に、私は困ってしまった。


 ロルフはいつも私を歩かせた。


 自分は馬車に乗って、汚れる場所には行かなかった。


 でもカイラス様は、隣を歩くと言う。


 翌朝、城門の前にカイラス様が立っていた。


 飾りのない、丈夫な靴を履いている。


「行きましょう、辺境伯様」

「はい。今日はあなたの言うとおりに歩きます」


 カイラス様は、本当に私の隣を歩いた。


 私が立ち止まれば一緒に止まり、村人が話し始めれば、日が傾いても急かさなかった。昼には私と同じ固いパンを食べ、ぬかるみでは先に渡ってから手を差し出した。


 帰り道、カイラス様の歩き方がおかしくなった。


「もしかして、足が痛いんですか?」

「……少しだけ」

「無理をなさったんですね」

「あなたに情けないところを見せたくなくて」


 私は吹き出した。


「隠して歩けなくなる方が、よほど困ります」

「覚えておきます」


 次の巡回で、カイラス様はもっと丈夫な靴を履いてきた。

 その次も、そのまた次も、彼は私と一緒に歩いた。


 東橋村の壊れた橋は直され、孤児院には冬を越せるだけの薪が届いた。北倉庫には新しい管理人が置かれた。


 報告書のいちばん上には、毎回きちんと私の名前が書かれた。


 給金も私自身が受け取り、管理した。初めて自分のお金で新しい外套を買った日は、店を出てから何度も財布の中を確かめてしまった。


 そんな日々が半年続いたころ、城の廊下でリディア様に呼び止められた。


「エリナさん。最近、弟があなたの巡回予定ばかり聞いてくるのよ」

「領地を見たいからでは?」

「あなたが一人で出かけた日は、一日中機嫌が悪かったけれど?」


 そこへ来たカイラス様が、珍しく慌てた。


「姉上、余計なことを言わないでください」

「城中が知っていることよ。知らないのはエリナさんくらいだわ」


 私の顔が熱くなった。


 カイラス様は耳まで赤くしたまま、私に向き直った。


「今日の巡回のあと、少し時間をいただけませんか」


 連れていかれたのは、リディア様と出会った市場の靴屋だった。

 店主が出してきた箱には、飾りのない茶色の革靴が入っていた。私があの日、店先で見つめていたものによく似ている。


「あなたに贈りたくて作らせました。ただ、勝手に押しつけるのは嫌だったので」


 カイラス様は緊張した顔で私を見た。


「履いてみてくれますか。気に入らなければ、別のものを一緒に選びたい」


 買うことも、断ることも、選び直すこともできる。

 ロルフとは、何もかも違った。


「履いてみます」


 新しい靴は、ぴったり足に合った。


 カイラス様が、ほっとしたように笑う。


「エリナ。半年間、あなたの隣を歩いて、領地の見え方が変わりました。困っている人を見つけるあなたを尊敬しています。そして今は、一人の女性として、あなたが好きです」


 彼は私の前に膝をついた。


「これからも、あなたの隣を歩かせてください。私と結婚してくれませんか」


 私は、古い魔法の靴と新しい靴を見比べた。

 どちらを履くか、今は私が決められる。


「はい。よろしくお願いします、カイラス様」

「カイラスと呼んでください」

「それは、もう少し慣れてから」


 彼は少し残念そうにしたあと、すぐに笑った。


 私たちはその半年後に結婚した。


 結婚しても、私は民政補佐官の仕事を続けている。給金はもちろん私のものだし、欲しいものは自分で買える。


 ただ、一つだけ困っていることがある。


「エリナ、北の村へ行くなら、こちらの靴の方が温かい」

「カイラス。また靴を買ったの?」

「贈ってもいいだろうか」

「靴箱がいっぱいです」

「では、靴箱を増やそう」


 雨の日用、雪の日用、巡回用、舞踏会用。


 私に靴一足買わせなかった前の夫とは正反対に、今の夫は何かと理由をつけて靴を贈りたがる。


 しかも必ず、受け取ってもいいかと私に聞くのだ。


 大事にしてきた魔法の靴は、新しい靴の隣に置いてある。


 靴一足も買わせてもらえなかった私が、今では辺境伯の溺愛で増え続ける靴の置き場所に悩んでいる。

週2〜3回ほど、このような短編を更新していく予定です。

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