7 闇に溶ける境界線
阿久津の配下と高木たちの衝突から一夜明け、紅蓮の森は静寂に包まれていた。しかしその静寂は平和ではなく、互いが互いを敵として疑い合う、疑心暗鬼の冷気によるものだった。
森の中層部。
戦闘能力の低い佐野と三木の二人は震えながら茂みに身を潜めていた。佐野は線の細い神経質そうな眼鏡の少年。三木は小柄で恐怖に大きく見開かれた瞳とそばかすが特徴的な少女だ。
佐野の能力は【植物操作】――名前の通り植物を自在に操れる。三木の能力は【感覚共有】――離れている者とも五感を共有することができる。二人は三木の能力で視覚を共有し、佐野が周囲の茨を操って、周辺に幾重もの罠を張り巡らせていた。
「なにかが来る」
佐野が告げた。三木が息を呑む。共有された視界の端に猛スピードでこちらへ向かってくる毛むくじゃらの巨大な影が映った。
「魔物? こっちに来る、佐野くんやって!」
「ああ、死んでたまるか!」
極限の恐怖に突き動かされた佐野が地面に手を突く。能力によって地中の根が巨大な槍のように隆起し、茂みを突き破ってその影を貫いた。さらに三木が罠として仕掛けていた落とし穴が開き、鋭い木の杭が影の全身を串刺しにする。
「……やったか?」
二人が恐る恐る近寄ると、そこには血まみれで横たわる怪物がいた。しかしその怪物の姿が――ゆっくりと人の形へ戻っていく。
「ぐ……あ……がはっ!」
それはクラスメイトの林陸だった。逆立った短髪に野性味のある鋭い顔立ち。本来ならクラスでもムードメーカーだったはずのその顔が今は苦悶に歪んでいる。能力は【獣化】――身体能力を爆発的に高めることができるが、発動中は獣のような姿になり理性が薄れる欠点があった。彼はただ魔物から逃げるために全力で森を駆けていただけだったのだ。
「林……くん……大丈夫?」
三木の声が震える。
「違う、魔物だと思ったんだ! 身を守ろうとしただけで! 殺す気なんてなかったんだ!」
佐野が必死に止血しようとするが、林の胸を貫いた根は肺を無残に破壊していた。
瀕死の林の脳裏に一瞬だけ放課後のグラウンドが映る。サッカー部だった彼は泥だらけで部室へ向かう途中、自販機で買った炭酸飲料をクラスメイトに回し飲みさせて笑っていた。
「次の大会、絶対勝とうぜ」という誓い。その喉を今は冷たい木の根が貫いている。林はなにかを伝えようと血の混じった泡を吐き出し――そのまま動かなくなった。
【生存人数:39名】
「うああああああああああっ!」
殺人者になってしまった現実――その絶望が森に響き渡った。その悲鳴を少し離れた巨木の上で聞き届けている生徒がいた。岡田誠治。クラスでも目立たず学業成績も運動も平均を維持している生徒だ。中肉中背で少し長めの前髪が両目を隠しがちな、容姿でも目立たない部類の少年だった。どこか感情の抜け落ちた冷めた瞳をしている。
岡田は手首の腕輪に表示された最後の一人には元の世界を書き換える権利を与えるという記述を文字通りに信じていた。この異常な世界を創造できるような主催者なら、それくらいのことは簡単に叶えてくれるだろう。
(ルールは単純だ。僕以外の41人がいなくなればいい。魔物が殺そうが自滅しようが殺し合おうが、最後に僕が立っていれば僕の勝ちだ)
岡田の能力は【死角への一撃】――標的の意識の外、すなわち周辺視野に入っている間だけ存在を認識させないという暗殺に特化した能力だった。
岡田は林の死に混乱する佐野と三木に目を向けたが、すぐに興味を失い別の標的へと視線を移した。狙いは近くで様子を伺っていた守屋という生徒だった。
がっしりとした体格に角刈りに近い短髪。運動部のジャージを羽織った、いかにも頼れる盾役といった風貌である。守屋の能力は【鋼鉄の盾】――防御に自信がある彼は周囲の異変にいち早く気づき盾を展開して警戒していた。
(盾を張っていても、そこに僕がいると認識できなければ意味がない)
岡田は守屋の視界の隅、意識が向いていない角度を維持しながら音もなく近づく。
「誰だ! 誰かいるのか!」
守屋は正面を警戒しているが岡田はすでに彼の真横――10数センチの距離にいた。
「ルールに従うだけだよ、守屋くん」
岡田の声が耳元で聞こえた瞬間、守屋の首筋に鋭いナイフが突き立てられた。盾の効果を発動させる暇もなく、守屋は喉から噴き出す鮮血に驚愕し、岡田の顔を一度も見ることなく絶命した。
【生存人数:38名】
岡田は返り血を拭うこともせず淡々とナイフを鞘に収めた。
「あと38人か?」
彼は再び森の闇へと同化するように消えていった。
その日の午後。
蓮と白河は林と守屋、二人の遺体を発見する。一つは悲惨な誤認による罠の跡。もう一つは冷酷なまでに正確な暗殺の跡である。もちろん腕輪からの情報で二人の死亡は知らされていた。しかし現場で得られる知識はまるで違う。
「魔物じゃない……人間がやったんだ」
蓮は守屋の傷口を見て戦慄した。阿久津のような支配でもなく、高木のような効率でもない。ただ純粋に殺し合いのルールを完遂しようとしている狂気が――この森に放たれたことを悟った。
白河は遺体の前で祈ることもできず、ただただ震える膝を押さえていた。昨日まで生徒たちを縛っていた道徳という鎖が、一つまた一つと断ち切られていく。
「佐藤くん……私たち本当にみんなで帰れるの?」
白河の問いに蓮はなにも答えることができなかった。彼ができるのは消えゆく道徳の記憶を必死に繋ぎ止めることだけだった。




