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2 紅蓮の森の牙

 円形競技場を飛び出し、どれほど走っただろうか? 背後に広がる殺戮の殿堂は、今や紅い色の木々に遮られて見えない。空を覆う巨大なシダ植物のような葉が、どろりと濁った赤い陽光を遮り、森の中は不気味な薄暗さに包まれていた。


「はぁ……はぁ……佐藤くん……待って」


 白河が膝を突き激しく肩で息を吐く。制服は泥と木の葉に汚れ――白い頬には先ほど目の前で弾け飛んだ安藤の返り血が乾いた赤黒い染みとなり残っていた。


 蓮は立ち止まり、周囲の気配を探る。


「……少し休もう。今のところ追ってきている奴はいないみたいだ」


 蓮の声は自分でも驚くほど冷淡に響いた。本当は今すぐにでも叫び出し夢だと言って笑い飛ばしたい。しかし左手首に食い込む鈍色の腕輪が、逃れようのない現実であることを冷酷に告げていた。


「ねえ、佐藤くん……安藤くんは……本当に?」


 白河が震える声で問いかけた。


「ああ。死んだよ」

「そんな……あんなの、酷過ぎる。ルールだなんて……殺し合いだなんて……そんなの絶対におかしいよ」


 白河は顔を覆い声を押し殺して泣き始めた。無意識に展開された【再生の聖域】の淡い光が揺れている。その光はあまりに頼りなく、この悪意に満ちた世界では消えかけの蝋燭のように見えた。


 蓮はかける言葉が見つからず自身の左手を見つめた。腕輪の紋章が微かに脈打っている。脳裏には先ほど模倣した安藤の【硬質化】の感触が残っていた。


(なんだ……これは?)


 意識を集中すると安藤の最期の瞬間――全身の細胞が岩へと変質し、内圧に耐えかねて爆発する直前の絶望と激痛が、濁流となって蓮の精神に流れ込んできた。


「ぐっ……あ……ああ!」


 蓮は頭を押さえ、その場にうずくまる。これが【模倣者の目】の代償――模倣した能力の持ち主が抱いていた苦痛を共有しなければならない。安藤の死は蓮の意識の中で何度も繰り返され精神をじりじりと削っていく。


 その時だった。


 がさりと前方にある巨大なキノコの影で、乾いた葉を踏みつけるような音がした。


「誰だ……不意打ちするつもりなら無駄だぞ?」


 蓮は激痛に耐えながら顔を上げる。だが、そこにいたのは人間ではなかった。


 太い四肢と全身を覆う針金のような銀色の毛。顔には目がなく代わりに巨大な三つの口が縦に並んでいる。体長は二メートル近い。軽く聞き流していた説明の中に登場した異世界の魔物――【鋼鉄の餓狼アイアン・ウルフ】だ。


「くそっ……白河、後ろに下がれ!」


 餓狼が低く唸り声を上げる。三つの口から粘り気のある涎が滴り落ちた。魔物は飢えているのだろう。目の前の獲物を食い千切るため、強靭な後ろ脚に力を込める。


「嫌……来ないで!」


 白河が悲鳴を上げる。餓狼が弾け飛ぶような速さで跳躍した。その鋭い爪が白河の喉元に迫る――


「動け……動けよ、俺の身体!」


 蓮は思考を加速させる。模倣したばかりの能力を、死んだ安藤の記憶を、無理やりねじ伏せて引き擦り出した。


 能力発動――【硬質化】


 蓮は白河の前に割り込み左腕を突き出した。一瞬にして腕の皮膚が灰色に変色し岩のような質感へと変貌する。


 キィィィィィン!


 金属と岩がぶつかり合うような不快な音が森に響いた。餓狼の爪は蓮の硬化した腕に阻まれ火花を散らす。


「が、あああああっ!」


 腕が折れるような衝撃。硬質化していても加わる圧力すべてを殺せるわけではない。骨を軋ませながら蓮は必死に魔物を押し返した。


 だが、餓狼は一匹ではなかった。左右の藪から――さらに二匹の影が飛び出す。


「しまっ……た!」


 蓮は腕を固定されて身動きが取れない。白河は恐怖で腰が抜けている。絶体絶命。横から迫る餓狼の顎が蓮の脇腹を食い破ろうとした刹那――


 シュバッ、シュバッ、シュバッ!


 風を切る鋭い音が三度――重なった。


 蓮の視界を青白い閃光が横切る。次の瞬間、空中で蓮に襲いかかろうとしていた二匹の餓狼が、見えない刃に切り刻まれたようにバラバラの肉塊となって地面に転がった。


「無様ね……死ぬのを待っているの?」


 冷徹な鈴を鳴らすような声が聞こえる。木々の中からゆっくりと姿を現したのは、返り血一つ浴びていない一ノ瀬凛だった。手にはいつの間にか抜き放たれた日本刀――いや、それは刀の形をした空気の歪みである。


「一ノ瀬……さん?」


 白河が震える声で名前を呼ぶ。一ノ瀬は彼女を一瞥もせず蓮の腕を噛もうとしていた最後の一匹に視線を向けた。


「離れなさい。汚らわしい」


 彼女が指先で空を薙ぐ。見えない斬撃――【不可視の刃】が空気を割り、残された餓狼の首を一瞬で跳ね飛ばした。


 静寂が戻る。残されたのは不気味な魔物の死骸と、激しく息を乱す蓮、静かに佇む白河と一ノ瀬だけだった。


「助かった……のか?」


 蓮は腕の硬質化を解いた。感覚が戻ると同時に安藤の苦痛の残滓と、今しがた腕に受けた衝撃が重なり吐き気がこみ上げる。白河は胸を撫で下ろしながら礼を述べた。


「ありがとう、一ノ瀬さん」

「勘違いしないで。助けたわけじゃない」


 一ノ瀬は冷たく言い放ち、手首の腕輪を見せた。


「管理者が言っていたでしょう? 価値を上げなければ処刑される。私はただ、効率よくポイントを稼げる標的を見つけたから斬っただけよ」


 彼女の瞳に宿っているのは他者を拒絶する深い孤独と、生き残ることへの異常なまでの執着だった。だが、その指先は微かに震えている。彼女もこの異常な状況に耐え、自分自身を律しているに過ぎないことを蓮は見逃さなかった。


「それでも……ありがとう。一ノ瀬がいなきゃ死んでたよ」

「お礼ならいらない。次、私の前に立つなら――次はあなたたちを斬るわ」


 一ノ瀬は翻り森の奥へと消えようとする。その瞬間――森の木々あるいは虚空からアービターの嘲笑うような声が響き渡った。


『おやおや、素晴らしい。最初の魔物討伐おめでとう、佐藤蓮くん、一ノ瀬凛くん。君たちにはボーナスとして、5ポイントを付与しよう』


 全員の腕輪がピピッと電子音を鳴らす。蓮が画面を見ると――そこには無機質な文字が並んでいた。


【現在のレベル:2】

【次の処刑まで:21時間15分】

【生存人数:41名】


「もう……始まってるんだな。本当にさ」


 蓮は呟いた。魔物を倒してレベルを上げるか、あるいはクラスメイトを殺すしかない。なにもしなければ処刑される。この世界のシステムは善人であり続けることを許さない。


 時を遡る。一ノ瀬が【不可視の刃】を振るい、魔物の首が宙を舞ったその瞬間。蓮の左目に焼けるような熱さが走った。


(またか!)


 脳裏に強烈な視覚情報が流れ込む。目に見えない空気の断層、それを鋭利な刃へと変える一ノ瀬の能力、そして彼女が剣を振るう際の独特な呼吸法。蓮の【模倣者の目】が獲物を捕らえた肉食獣のようにそのすべてを飲み込んでいく。


 模倣完了:【不可視の刃】

『現在保持している【硬質化】を上書きしますか?』


 脳内の無機質な問いかけに蓮は意識の中でYESを叩きつけた。その直後、凄まじい反動が蓮を襲う。


「がはっ!」


 視界が歪む。安藤の死の痛みとは違う、もっと冷たく、鋭いなにかが胸を突き刺した。それは一ノ瀬凛という少女がその身に纏っている、凍てつくような拒絶の感情だった。誰にも触れさせない誰の助けもいらないという絶対的な孤独。その精神的な重圧が模倣の代償として蓮の心に圧しかかる。


「佐藤くん! 大丈夫?」

「あ、ああ……大丈夫だ」


 心配する白河に無事を伝える。

 蓮が顔を上げると一ノ瀬は僅かに眉を顰め蓮の左目を見つめていた。能力が模倣されたことに気づいたのか、それとも瞳に宿る異様な光を警戒したのか?


「気持ち悪い瞳ね」


 彼女は吐き捨てるようにそう言うと、そのまま一度も振り返ることなく森の闇へと消えていった。


「佐藤くん……私……怖いよ」


 白河が蓮のシャツの裾を掴む。蓮は遠くで聞こえる別の魔物の遠吠え、そして誰かの悲鳴に耳を澄ませた。


「行こう、白河。どこか夜を越せる場所を探さないと危険だ」


 二人は魔物の血が染み込んだ赤い土を踏み締め深い森の奥へと歩き出した。生き残るため――この狂ったゲームを終わらせる力を手に入れるためだ。


【生存人数:41名】

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