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09 思い出を刻むこと

 イザリアに来て五日ほど経った。生活は落ち着きつつあった。

 エピたちの手伝いもあり、住まいの仕度も一段落、村の面々とも多少馴染みはできた。

 異邦人らしい身なりをした二人でも、エピの紹介とあれば皆よくしてくれるのは、流石の人徳ということだろう。


 その朝、シャオが水車小屋からパンを買って帰ってくると、じょうろを持ったスヤンが玄関の脇に水を撒いていた。

 その傍で尾を振っていたレイユンは、シャオの足音に気づいて行儀よく座り込む。


「何をしているのですか?」

「ルセロに庭仕事をしたことがないと言ったら、まずは花の世話から始めたらよかろうと種をくれたのだ」


 そう答えるスヤンの顔はいつもより一段と明るく、うきうきしているのが見て取れた。

 ────以前ならば、シャオがそう言うと副頭や仲間たちが「そうか……?」と首を傾げたものだったのだが。


 シャオが近寄ると、スヤンは誇らしげに手のひらの上の種を見せてくれた。

 ルセロが分けてくれたのはいくつかの香草の種で、育てば料理や虫よけに使えるものだそうだった。


「三日もすれば芽が出るそうだ。ふふ、楽しみだな」


 そう呟くスヤンの足元、黒ずんだ地面の上では泥水が泡を浮かべて回っている。レイユンが小さな白い口元を近づけては、ふすんと鼻を鳴らして顔をしかめた。

 咳ばらいをして、シャオはおずおずと口を開く。


「兄上、残念ですが土は耕さねば根づきませぬよ」


 それから四半刻、スヤンはうずくまって水溜まりから種を拾い続けた。


 目で見える分は集め終えたあと、スヤンは低く唸って立ち上がる。その頃にはレイユンは庭仕事にすっかり興味を失い、日向に転がって耳を掻いていた。


「草木とは土と水と風があれば育つのではないのか」

「ここは土が固まっていますから、花にしろ菜にしろ、一度耕さなければなりません。畑を作るにしたってそうですよ」


 それを聞くとスヤンはゆっくりと振り返って庭を見て、それから、もう一度振り返って言った。


「広すぎる」

「よいことではありませんか」


 まずは鍬か何か、道具を借りようというシャオの言葉に従い、スヤンは再びルセロのもとを訪れることにした。


 小屋の近くの放牧地で、ルセロは木杖を片手に岩に腰掛け、のんびりと羊の群れを見ていた。

 今年生まれの子羊が何頭も、彼の服の裾を引っ張って遊んでいたが、スヤンたちがやってくると蜘蛛の子を散らすように逃げていった。


 二人に気づいて会釈するルセロに、スヤンは事の次第を語り、伝手はないかと尋ねてみた。

 すると、彼はいいことを思いついたとでもいう風に頷いて答えた。


「おお、そのことなのだが、相談があってな。馬を買うつもりはあるまいか? 悪い馬ではないのだが、訳あって騎士団から返されてしまったのだ」


 その訳が訳で余所へすぐには売れないが、かといってただ飯食らいを置いておく余裕もない。それなら顔見知りにやって、問題を解決する時間を作るのが一番いい。

 三か月経ったらそのまま連れて行くのでも、売って旅費の足しにするのでも構わないという。


 スヤンは黙って思案した。

 馬がいれば、人の手で耕すよりもずっと早く済む。

 それに、色々と便宜を図ってくれるルセロが困っているというなら、頼みを聞くのはやぶさかでない。


 そう告げると、ルセロは肩の荷が下りたような様子で喜び、スヤンたちをその馬のところに案内した。


「コラソンと言う。今年で三歳になる牝だ。頑丈であるし、賢さもなかなかのものよ」


 農耕馬らしく体格の良い栗毛の若駒は、自分が褒められているのが分かっているのか、立派な首を上げて鼻を鳴らした。

 豊かな白い飾り毛の生えた足で、しきりに地面を掻いてねだるのを見るに、食欲も旺盛で人懐こいようだ。


「良馬だな。問題があるとは思えないが」


 スヤンは素直に感想を述べる。

 すると、ルセロは眉尻を下げて溜息を吐いて言葉を続けた。


「だが、賢すぎるのも考えものであることよ。コラソンはとても散歩が好きなのだ。どんなにきつく繋いでおいても、目を離した隙にするりと抜け出してしまう」


 一人でに抜け出しては、村を一周すると満足して勝手に帰ってくる。

 暮らす場所が変わればそんな癖も鳴りを潜めるかと思いきや、賑やかな騎士団の駐屯地は彼女の好奇心をより掻き立ててしまったらしい。


「出来がいいから騎士団が持っていったが、これでは仕事にならないと今朝になって突っ返されてしまった。たまに村を好きに歩かせてやる分には悪いこともないだろうから、よければ面倒を見てやってくれ」


 旅が似合う子であるし、置いていくとしても厩の仕度をする時間は取れる。

 ルセロの言葉にスヤンは頷き、この栗毛の馬を買うことにした。


 元が家畜小屋というだけあって、コラソンを迎え入れる準備はすぐに済んだ。

 スヤンが寝ている個室の反対側にある馬房をそのまま割り当て、無駄かもしれないが馬柵棒(ませぼう)をかけておく。


 これからしばらくは、二人と一匹と一頭が同じ屋根の下で眠ることになる。

 見慣れない大きな生き物に興奮するレイユンは、尻を高く上げながら、右に左に跳ねていた。


「女の子同士、仲良くなれるといいですね!」

「お前、雌だったのか……」


 レイユンを持ち上げてしげしげと眺めるスヤンに、犬のくしゃみがかかった。


***


 考え通り、コラソンは畑の開墾によく働いた。

 腕力に困ったことのないスヤンでも運ぶのに疲れるような重い機具を軽々と牽いて、耕された土の上で自慢げに嘶く。


 スヤンたちはその後ろから、掘り起こされた石や瓦礫を弾いて、灰や油かすを撒いていく。それの繰り返しだが、手作業でやるよりもずっといい。いかにも田舎らしい、穏やかな時間が流れつつあった。


「お疲れさまです〜」


 柵越しにエピが間延びした声を投げかけてきた。

 見れば、可愛らしい柄の包みを掲げてこちらに手を振っている。


「うちで枇杷の砂糖漬けを作ったのでお裾分けに来ました! 休憩がてら、いかがですか?」

「そうしよう」

「では、お茶を淹れます」


 木箱を椅子と机にして、三人で茶器を囲む。

 

 包みの上、砂糖で漬けてから丁寧に干された、目の覚めるような黄色の実が、午後の日差しを受けてつやつや光っている。

 しつこいところのない甘さが、淹れたての茶の熱にはよく合っていた。

 もちもちと頬張ってから、スヤンは手元に残った枇杷の種を畑の隅に持っていく。


 ここ数日の頑張りで、この土地も随分とよくなった。枝が伸び、再び実るころに自分たちはここにいないだろうが、苦労の思い出を残していくのも悪くない。


「花が咲くのが楽しみだ」

「兄上、その種は死んでおりますので生えませぬ」


 スヤンはしょんぼりとうずくまって種を掘り返した。

 その遠い背中を眺めながら、エピは楽しげに呟いた。

「いい人ですね。ちょっと変ですけど」


 その言葉にシャオも微笑み、彼を見やる。


「そう思ってくれますか」

「ええ。それでもなかなか隙は見せてくれないですが」


 彼の拗ねたような声色にシャオは苦く笑い、肩を竦める。

 それから、膝を伸ばして、記憶にあるより遠くなった自分の爪先を見下ろした。


「私も小さいときは少しだけ、怖いと思っていました。でも……」


 本当のことを言えば、ここに来るまでシャオはスヤンと言葉を交わすことなどほとんどなかった。睡花会に拾われたばかり、幼い頃はあまり近寄らないよう言い聞かせられていたし、そもそも昼間は部屋から出てこないので、顔を合わせることも少なかった。


 シャオにとってのスヤンの思い出は長らく、真夜中、返り血を浴びたまま、殺気立って帰ってくる瞬間の澱んだ目だけだった。


 それが変わったのは、ある春の日のことだった。

 シャオが縁側で一人、あやとりをしていると、後ろの障子が開いてスヤンが出てきた。どうも副頭にたまには陽を浴びろと追い出されたらしく、シャオの姿を見ると、困ったような顔で僅かに間を空けて座った。


 幼いシャオは自分が頭目を護衛しているような気持ちになって、隣でしゃんと背筋を伸ばしながら、小さな手であやとりを続けていた。

 しかし、しばらく遊んでいると、とうとう続きのやり方が分からなくなって、手が止まってしまった。すると、


『こうやるんだ』


 隣から大きな手が伸びてきて、赤い糸をシャオの小指に懸けた。

 慎重に続きの糸を取ってから顔を上げると、そこにはもう誰もいなくて、空になった湯呑と手付かずの菓子だけが残されていた。


「不器用なだけなんだって分かったんです」


 エピには半分も言えない、今となっては二人だけの思い出に、シャオは小さくはにかんで言った。


「何だか、かわいいじゃないですか。だから支えてあげたいなって」


 シャオの言葉に、エピはきょとんとしていたが、しばらくして合点が行ったという顔で笑い、両手を握って励ますように掲げて見せた。


「シャオさんがスヤンさんを大切にする気持ち、きっと伝わってますよ!」

「はい、そうだと嬉しいです」


 シャオはそう言うと、いつまでも自分の小指を撫でていた。

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