06 行き先を定めること
商人たちとの約束の時間まではまだしばらくあった。
露店を離れたあと、商館からそう遠くないところに料亭を見つけたので、スヤンたちはそこで時間を潰すことにした。
少し古びた店内には通りに面した大窓からよく陽が差して、忙しいところは一つもない。老いた給仕がそっと置いていったグラスには、レモンの欠片がこじんまりと入っていた。
思えば、久しぶりのまともな食事だ。
粗食にも慣れているとはいえ、長らく温かい食べ物にありつけなければ精神が擦り減る。
周りの様子を伺っていると、米料理らしい皿を前に頬張る客がいたので、同じものをと給仕に頼んだ。
十数分もすれば、料理の盛り付けられた鉄板が届いた。炊き込み飯の仲間だろう。魚介混じりの米はよく色づいて香ばしい湯気を立てている。
その味わいには馴染みがないが、不味いという意味ではない。
しばらく黙々と食べ進み、あるときシャオが声を漏らした。
「……副頭のおにぎりが懐かしいです」
「ああ」
今はもういない、睡花会の一人を思い出す。
彼の作る握り飯はその手に似合ってとても大きく、多すぎると何度言ってもニコニコ笑うばかりで少しも小さくならなかった。剣はからきしだったが、面倒見がよく、仲間の食事や服のことはすべて彼に任せておけばよかったものだ。
ふと、机に立てかけたシャオの剣を見つめ、スヤンは長らく考えていたことについて言葉にした。
「シャオ、これからは剣を抜くな」
俺も抜かん、と付け足すと、シャオは食べかけていた匙を置く。彼女は険しい顔で尋ね返した。
「何故です」
「少し見て回っただけだが、ここで聞くのは神妙な話ばかりだ。少し剣を振れると知れただけで、何に巻き込まれるか分かったものではない」
周りに聞こえぬよう声を低くして答えると、シャオもそれは薄々感じていたのか、唇を食んでもどかしげにしている。とはいえ、やはり納得が行かなかったらしく、身を乗り出して食い下がってきた。
「しかし、それでも頭目ならば……」
「お前が弱い」
「…………っ」
都での過ちを繰り返す訳にはいかない。
また剣客としてどこぞに付いて暮らしていけば、食うに困ることはないだろうが、危険が多すぎる。
行き届かぬ自分では、どれだけ気を張ったとしても戦いながら彼女を庇護し続けることは不可能だ。
無論、自分に斬る以外の道があるとは思っていない。
ならば最善は、剣はひととき隠し、その間はこの異邦について学び、ゆくゆくはシャオと別れることだ。
「故に、抜刀は禁止する」
長いこと、シャオは俯いて何も言わなかった。
グラスに浮かんだ氷ばかりが木目の上にゆらゆらと燦めいて、シャオはようやく口を開いた。
「…………分かり、ました」
帰り際、給仕に材料の仕入れ先を聞いた。
米を作っているのはもっと南のほうらしい。
南に行こう、とスヤンは思った。
***
褐色の女商館長はスヤンとシャオを一瞥するまでもなく、書類を睨んだまま言った。
「観光客の相手は私の職掌にないぞ」
遡ることほんの数分、商人たちと合流したところ、何か渡したいものがあるらしく、スヤンたちはメルカードの商館長と面会していた。面会したが、もう終わりそうだった。
彼女は年季の入った指先で羽根ペンを摘んだまま、くるくると手を振って出て行かせようとする。それもそうかと出ていこうとするスヤンたちを必死に押さえ、商人たちは口々に慈悲を懇願した。
「恩人なんだよ、ボス! 一筆書いてやってくれ!」
それでようやく、小じわのついた目元が動いて、商館長はスヤンたちの顔をまともに見た。
彼女はそれ以上、分かったとも出ていけとも言わなかった。どうやらその沈黙は、詳しく話せという命令だったらしい。
たちまち三人の商人たちは真剣に事の次第を──それにしては芝居がかった調子で──彼女に語った。
歪曲災害に遭ったこと。
全滅の憂き目を、スヤンたちが助けてくれたこと。
そんな腕の立つスヤンたちが家族を失い、困っていること。
ついでに言うと荷物を落として三〇〇〇標準金貨分の損失が発生したこと。
スヤンとしては隠そうと決めたことを早速広められているのはあまり面白くなかったのだが、これも彼らの善意と思うと強く止めることができなかった。
損失について三十分に渡り商人たちを叱責したあと、商館長は革張りの椅子に身を預けて溜息を吐いた。
「はあ……しかし、まあ、そういうことなら便宜を図ってやらんでもない」
「ボスの署名があれば、イザリアの大概の商館で融通が利くぜ」
「ありがとう」
商館が利用できれば、持ち歩けない金を預けたり、宿が安価で提供されたりするらしい。
また、各地に領主が点在するイザリアでは、しばしば関所が設けられている。その通行に際し、一部の権力者から書状を預かっていれば、面倒な手続きが免除されるそうだ。
つくづく商売人というのは隙がないもので、その署名を悪用されたり、今後問題が起きて彼女の責任になったりしないように、スヤンたちは商館長の質問に幾つか答えなければならなかった。
書類に載っている情報とそれを持っている人間の特徴が異なれば、署名は効果を持たないということだ。
ある程度書き込んだあと、商館長は確認するようにわざとらしく書面を読み上げた。
「男が一人。女が一人。……犬一匹」
「犬?」
聞き返すと、商館長は怪訝そうな顔をしてスヤンの足元を指差した。
「変な犬だが、お前たちのペットじゃないのか」
「あれっ、着いてきちゃったんですか」
素っ頓狂な声を上げて、シャオが犬を抱き上げた。
それは、街に来る前、野宿をしていたときにやってきた小さな黒い犬だった。しきりに尾を振っては、黒豆みたいな鼻を自分でペロペロ舐めている。
以前見たときより少し大きくなったような気がするが、暗がりに紛れてよく見えなかっただけかもしれない。
「兄上が餌付けするからですよ」
「責任は取ろう……」
商館長は頷いて、次の項目に移る。
「武装はそれだけか」
「ああ。ただの護身用だ」
「魔術の所有は?」
「先刻これを買った。使い道が分からぬのだが……」
そう言ってスヤンが露店でしゃぼん玉のおまけに貰った瓶を見せると、商館長は目を細めてじっくり眺めていた。
「これは……略式か?」
「ですね。改装魔術だ。密室で開ければ……キッチンができる。やり直し不可、燃料は自力で」
商人の一人が瓶のラベルをつついて言う。
商館長は首を振って瓶を返してくれた。
「ああ、それなら登記の必要はない。書かなきゃならんのは二等級魔術の有無だ。持っていないか?」
スヤンは助けを求めてシャオを見るが、シャオもまた彼を見ていた。つまり顔を見合わせた。
「…………?」
「すみません、ボス。とんだ田舎から出てきたそうで」
「……説明したほうがよさそうだな」
曖昧な笑顔を浮かべる二人に向かって、商館長は呆れた顔で腕を組んだ。
魔術とは、大まかに言えば局所的な現実の改変技術である。
大別すると、三種類。
一つ目はスヤンたちが露店で買ったような、消耗品である三等級魔術。最も一般的で、誰でも使える。
二つ目は機械などに組み込まれ繰り返し動作する二等級魔術。こちらは所有者の記録が管理されており、重い税がかけられているため、数は少ない。
三つ目が一等級魔術──ごく僅かながら、上記の道具無しに魔術を行使する人間や生物を区別するための概念──であるらしい。
「イザリアは魔術規制が厳しい。協会に登録された魔術だけが使用を許可されているんだ。登録のない魔術の行使は協会の処罰の対象になるから気をつけなさい」
分かった、と頷くと、商館長は初めて微笑んだ。
何となく、商人たちが彼女を慕う理由が分かった気がした。
書状を受け取り、スヤンたちが部屋を出る前に、商館長は思い出したように声を上げた。
「これからどうするつもりだ?」
「南のほうに行きたいと思っている」
「……それならまずは街道を東に行って、ベレタ村を目指しなさい。小さな村だが、人はいいし宿も安い」
何か含みのある表情だったが、スヤンは微かに眉を動かしただけで、それ以上は気にしなかった。




