05 魔術なるものを知ること
目的地であるメルカードまでは、明日の午前中には着くようだ。
日没、ロバから荷を下ろすと、スヤンとシャオは商人たちと小さな焚き火を囲んだ。
代わる代わる商人たちが陽気に楽器を鳴らし、薪が弾けて拍手を贈る。水と干し肉のささやかな晩餐は、歩き通しの空腹によく染みた。
「干し肉だけで悪いな、荷物を幾らか落としちまって」
「分けてもらえるだけでもありがたいです」
敷物の上で膝を抱えて、シャオは笑って礼を述べる。ぺろりと唇を舐めると名残惜しい脂と塩気の味がした。
一息ついて、シャオはふとスヤンの様子を横目に見た。
スヤンは火が嫌なのか、少し離れたところで分け前をもらっていたが、その手に握られた小さな肉の欠片はいつまで経っても減っているようには見えなかった。
「とぅ……兄上、いつまで齧ってるんですか」
声をかけると、スヤンは顎を微かに動かしながら困った顔で返事をした。
「噛み切れない」
「普段からちゃんとご飯食べないからですよ」
この調子では、まだしばらく骨のように齧っているだろう。シャオは溜息をついた。
月も随分高くなった。
スヤンにとっては初めて見る、新しい夜景だ。
すると突然、近くの木苺の茂みが揺れ出した。夜風ではない。何かが潜んでいるようだ。
枝打ち用の鉈を手に、商人が声を上げる。
「おい、何の音だ?」
張り詰めた緊張の中、商人の一人が松明を手に茂みへ近寄る。息を飲み、灯りをかざした。
途端、夜の闇、黒ぐろと揺らめく葉の隙間から、小さな影が飛び出した。
銃口のように明かりを差し向け、少し間をおいて商人は息を吐く。
「野良犬だ」
それはちっぽけな犬だった。
その黒さ、小ささときたら、瞬きすればすぐに暗がりへ紛れてしまいそうだ。
ただ一点、口の周りだけ楕円に白い毛を生やしていて、中央に浮かぶつやつやとした鼻が、まるで一つの目のようにも見えた。
干し肉に釣られたのか、犬はしきりに尾を振ってこちらを見ている。
商人は呆れたように鼻を掻いた。
「なんだ、さっきの歪みが追いかけて来たのかと思ったよ。ほら、あっち行け!」
しっしと手を振って追い返そうとするが、犬は付かず離れずの距離をずっとうろついている。
シャオは独り言のように呟いた。
「腹を空かせているみたいですね」
スヤンは犬をじっと見たあと、自分の干し肉に目を落とした。それから、齧っていたのとは反対の端を指で千切る。
「少しだけだぞ」
スヤンは声を潜めて念を押した。
きょろきょろと辺りを伺ってから、草むらの向こうに欠片を放り投げる。
「隠れて食え」
言葉が通じたのか、はたまた用が済んだのか、犬は欠片を咥えて再び闇の中へ走り去っていった。
「兄上……」
シャオは優しく眉を下げてスヤンの隣に腰を下ろした。
「素手で千切れるなら、最初からそうやって食べればよかったのでは?」
「うむ……」
***
メルカードの街はイザリアの北の国境沿いにある大きな商業都市の一つだった。さらに上へ向かえば険しい山脈が構えているため、イザリアへ来た客人はメルカードで山越えの疲れを癒し、また国境を目指す旅人はここで支度を整える。
街の中央には大きな商館があり、それこそがスヤンたちを案内してくれた商人たちの目的地だった。
ひとまずの金を渡され、手続きを済ませるまで飯でも食べて待っていてくれ、と言われたスヤンとシャオは、商館の近くをぶらぶらと歩き回ることにした。
煉瓦造りの街並みは、スヤンたちの故郷の工場街を思わせた。もっとも、辺りに満ちた空気、活気は正反対で、そこかしこに煩雑な露店が広げられ、女子どもが楽しげに行き交っている。
先を歩いていたシャオがある露店の前で足を止めた。彼女が興味深げに覗き込んでいたのは色とりどりの小瓶が並んだ簡易店舗の棚だった。
「奇麗な瓶ですね」
振り返ったシャオの言葉に、スヤンも僅かに頷いた。
春の日差しに当てられて、鮮やかな光の破片がびいどろ遊びをしたようにあちこち散らばっている。
そんな物珍しげな二人の様子を見て、店主がにこやかに身を乗り出してきた。
「これは【略式魔術】の新作だよ」
「略式……魔術?」
「試して驚け! ……と言いたいところだが、この工房のは使い切り型でね。見たけりゃ買ってくれ」
「そうですか……」
気にはなるが仕方ないという風に、しょんもりとシャオが肩を落とす。
スヤンは先ほど貰った謝礼の包みを取り出し、中を覗いて言った。
「幾らだ」
「おお旦那、気前がいいねえ。銀貨で一枚。銅貨なら三十枚だよ」
なるほど、とスヤンは袋を指で掻き回したあと、眉をひそめて呟いた。
「……金貨しかない」
「まじか! ええと、じゃあ、こっちの瓶をつけるのはどうだ? すまんが釣りを出せねえんだ」
「構わない」
瓶を二つ受け取り、片方をシャオに渡す。
「いいのですか?」
おろおろとしてこちらの顔を伺ってくるが、スヤンが重ねて頷いてやると、決心したように瓶の蓋を開けた。
「わーっ!!」
歓声を上げるシャオの目に、きらきらと虹色が映り込む。
それは無数のしゃぼん玉だった。
泡は花束のように瓶から吹き出し、それからゆっくりと市場の空に旅立っていった。のどかな午前の空を、通りすがりの子どもたちが嬉しそうに指を差して仰いでいた。
「へへ、いいよなあ、かわいこちゃんの笑顔ってのは」
作業台に肘をついて、店主が髭を弄って言う。
しゃぼん玉を見送っていたシャオは、声を一段高くして振り返った。
「これが魔術なんですか?」
「まあ、確かに魔術って言ったら便利な道具や強い兵器って感じだが……遊び心ってのも忘れちゃいけねえよな」
役に立たないものがあるっていうのは、素敵なことだよ。店主は穏やかに呟いたあと、頭を振って椅子にもたれかかった。
「まったく、歪曲災害なんてもんがなければ、面倒くさい規制もなくて、もっと面白い魔術が出てくるだろうに」
歪曲災害。
ここでもその名前が出てくるとは、イザリアでは余程差し迫った問題であるということだろう。
スヤンは少し考え込んでいたが、ふと店主の視線が通りの騒ぎに向いていることに気づき、自分もそちらに目をやった。
雑踏を掻き分け、剣と鎧を身に着けた集団が、みすぼらしい男を追い立てている。男は縄をかけられ、罪人として連行されているようだが、しきりに何か大声で叫んでいた。
初めは無実を訴えているのかと思ったが、よく聞けば少し違うようだ。
星の光を見るなとか、夜中の客を招き入れるなとか、何やら胡乱なことを喚いているだけらしい。
しかし、ただ妄想の過ぎた男が捕まっただけにしては辺りの雰囲気が妙だった。
「あれは?」
店主に尋ねると、短い返事が返ってきた。
「ああ、【星の使者】を捕まえたんだな」
「あれが使者?」
「いや、そういう狂人どもがいるって話だよ。魔術協会の連中は、星の使者が歪曲災害の原因だって考えてる」
店主の軽く顎で示した先には、手配書らしい紙がびっしりと貼られた路地があった。
星の使者と呼ばれる人々は、各地を巡っては何か恐ろしい────異神の存在を執拗く説いているらしく、住民には不気味がられているようだ。
その出現に伴い歪曲災害の報告が増えたため、両者を関連づけて考える人も少なくないという。
「あんまり気味が悪いもんで、あちこちで取り締まられてるって話だがね、とうとうこの辺りでも出てきたらしい。騎士団が躍起になって探しているよ」
確かに、商人たちも赤蹄騎士団なる集団がメルカードやその周辺を治めていると言っていた。
どうも世辞にも上品とは言えない集団のようで、そんな騎士たちの気が立っていることには街の人々も迷惑しているらしい。
「あんたらも他所から来たんなら、騎士団には目をつけられないようにしなさいよ」
店主の忠告に頷いてから、スヤンたちはまだ騒がしさの残る大通りをそっと離れることにした。




