04 道を顧み、決心すること
「いやあ、ありがとう! 強いな、あんた」
「ざまあみろってんだ、犬っころめ!」
商人たちは口々にそう叫ぶと、渇いた喉に水を流し込んだ。
歪んだ狼を追い返したあと商人の一行は、道案内をしてほしいというスヤンたちの頼みを快く聞いてくれた。
彼らは遠国での長い商売を終え、代わりに仕入れた商品を抱えて近くにある交易街へ戻るところだったらしい。
スヤンたちが初めて出会ったのが、様々な土地に慣れた交易商人だったのは幸運だった。明らかにこの辺りの人間でない顔立ちや恰好の二人を見ても、彼らはそれほど気にしなかった。
スヤンたちからすると、彼らの顔立ちは都にいた頃に何度か見かけた西方人のものに近く、まったく見慣れぬというほどでもない。
しかし、かつても彼らの言葉を学ぶことなどなかったのに、今や何の問題もなく語らえているというのは奇妙なことだ。
とはいえここでは驚くことばかりで、わざわざ驚いたと考えるのも馬鹿らしくなってきていた。
彼らに着いていくと、森の木立はまもなく途切れ、爽やかな春風の吹く丘に出た。
その道の途中にも、商人たちは繰り返し感謝を述べ、スヤンを称えた。
「あんな一瞬で伸しちまうなんて、旦那、もしかして名のある【遍歴騎士】じゃあないのかい」
「……? いや、そうではないが」
聞きなれない言葉にスヤンが首を傾げると、商人たちは一瞬だけ互いに目を合わせて、ぎこちない笑顔を浮かべた。
奇妙な偶然によって命を拾った商人たちの振る舞いはこの草原の日差しのようにいつでも陽気だったが、それは緊張の裏返しでもある。
「違うのか。それじゃあ、旦那とそこの嬢ちゃんはどういう関係なんだい? こんなところに二人でいるなんて、俺ぁ、てっきり騎士様とその従者かと」
疑われているな、とスヤンは直感的に察した。
命を助けられたからには道案内くらい喜んでするが、得体の知れない余所者をどこまで信用してよいものか図りかねているのだろう。
「俺たちは……」
スヤンはちらりとシャオを見てから、そつなく答えた。
「俺たちは兄妹だ。父が死んだから故郷を出て、働き口を探している」
「えっ?」
堂々とした虚偽申告に思わずシャオが怪訝そうな顔で振り向くが、商人たちは気づかず納得してくれたようだった。スヤンに尋ねた商人は、少しだけばつの悪そうな顔で長い鼻を掻いた。
「おお、そうだったのか。踏み込んだことを聞いちまったな」
「構わない」
素知らぬ顔で目を伏せるスヤンの袖を引いて、シャオが小声で話しかけた。
「頭目、頭目、何故そんな嘘をつくのですか」
「こいつらからもう少し情報が欲しい。家族と言ったほうが警戒されないはずだ」
シャオは少しだけ唸ったあと、上手い反論が思いつかなかったらしく、歯切れの悪い不満を漏らした。
「だからって……急に……もっとこう……ほかにあるじゃないですか……」
「だが親子はちょっと……無理があるだろう」
「もういいです、分かりましたよ兄上……」
シャオは何故か頬を膨らませて、渋々と言った様子で引き下がった。
ここまであまりに沢山のことがあった。そろそろ疲れも溜まっているのだろう。
休める場所を探してやらなくてはなるまいな、とスヤンは独りでに考えた。
そうしてスヤンは、自分たちは辺境の山奥にて細々と暮らしていた身の上だということにした。物を知らないのはその所為だから色々教えてほしいと言うと、商人たちはすっかり受け入れてくれた。
商人たちは日が暮れるまで歩きながら、この世界のことを教えてくれた。
ここはイザリアという土地で、それぞれの君主──支配者が治める領地が寄り集まって出来ているらしい。
これから向かう街、メルカードもそういった領地の一つで、とある騎士団の管轄にあるそうだ。
やはり商人たちの口から語られるのは、都では聞いたこともない言葉ばかりで、スヤンは途方もないところに来てしまったことを思い知らされる。
ほかにも魔術規制がどうの魔術協会がどうのと言われたが、残念ながらスヤンにはほとんど理解できなかった。最終的に、領主へ払わなければならない税金への愚痴が始まったところで、話を逸らすため【遍歴騎士】とは何かと商人へ尋ねることにした。
「遍歴騎士ってのは、このイザリアのあちこちを旅して、さっきの化け物みたいな奴らから俺たちを守ってくれるヒーローさ」
「ああいう生き物がほかにもいるんですか」
シャオがそう言うと、商人は驚いた風に顎を撫で擦った。
「【歪曲災害】も知らないのか。あんたら、随分と平和なところに住んでいたんだなあ」
商人の感嘆にチクリ、と胸が痛んだ気がしたが、スヤンは沈黙で応えた。
「人や獣がある日突然、薄気味悪い歪んだ姿の怪物になっちまう。それが歪曲災害だ」
歪曲災害。秩序と法則を捻じ曲げる成れ果ての怪物。
どうやら先ほどの獣も、そうやって生まれた脅威のひとつであるらしい。
そして、その災害に対応するのが遍歴騎士という人間で、彼らは庶民にとっての数少ない希望であるようだった。
「歪んだ奴らも並大抵の強さじゃないが、それでも遍歴騎士は勇敢に戦って倒すんだ!」
「彼らは自由と平等を愛している。偉そうな支配者の言うことは聞かないで、ちっぽけに暮らしてる人間のために旅をするのさ」
「そうだ、あんた、これからも騎士になるつもりがないならうちでしばらく雇われないか。謝礼も弾むよ」
商人が条件をさっと書きつけて差し出してくる。見てみろ、ということのようだ。
シャオが受け取り、しばらく目を通していたが、その内容は厳しい彼女のお眼鏡にも適ったらしい。
「これ悪くないですよ。それに、護衛として名を挙げれば仕官できるかもしれませんし……」
仕官、という響きに、スヤンは少しの不快感と、ついこの間に都で交わした問答を思い出した。
金が要るか、取り立てられたいか。
あのとき答えなかったのは、当然そんなものは自分の望みでなかったからだ。
だからといってほかに明確な答えがあった訳ではないが、少なくともそれらは一度も欲しいと思ったことがない。
しかし、あの老獪な議員はどうしてそれを聞いたのだろう。
時間稼ぎでもしたかったのか、はたまた、願いを叶えてやると言えば自分が釣れるとでも思ったのだろうか。
しかし、だとしたら、何故あのように憐れむ顔を向けるのか。
一度でもそれを追った人間だけが、その遠さと価値を知っている。
それは言外に、お前は試したことがあるのかと問うていた。
自分がやろうとしてもいないのに、その是非が分かるものかということだ。
不思議なことだ。あの晩は朧月のように靄がかっていた道理が、今となってはすっきりと頭に入ってくる。
まるで毒薬が抜けた気分だった。
(────理想を追う、か)
今、自分が欲しいものはなんだろう。スヤンは黙って考えた。
思いつかない。思いつかないが……失くしたくないものはひとつある。
ちらりと見た横顔は純粋な期待の表情に満ちていて、その頬は少女らしい桜色に染まっていた。
願わくは、その淡い色が、二度と錆血で塗り替えられることのないように。
例えそれが彼女自身のものでも、ほかの誰かのものでも。
傘の向こうに夕陽が落ちる。それでも、明日、また昇ってくる。
頑張ってみるのも悪くない、と思えた。
「……護衛はしない。誘いは嬉しいが」
スヤンがそう答えると、商人は拍子抜けした様子だったが、すぐに頭を掻いて頷いた。
「そうかい? まあ、妹さんもいるからな」
「ああ」
「待ってください、私は……」
何か言いたげなシャオを制して、スヤンは考えを伝えた。
「どこか、静かに暮らせる場所を探したい。次の街までは共に居させてくれ」
「ああ、分かった。それなら、街に着いたら助けてくれた礼をするよ」
スヤンは少しだけ微笑んで傘を傾げた。
これでいいのだ。どこか特別でない場所で、普通に生きられる方法を探そう。
たとえ、それが叶うのは彼女一人だけだとしても。




