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03 歪曲した怪物に出遭うこと

 しばらくの間、森を道なりに進んでいたが、分かったことが幾つかある。


 最も大きいのは、やはり、ここは都からはかなり遠く離れた場所で、自分たちの頼りない知識すらあまり役に立たなそうだということだ。


「見慣れない草木ばかりだ」

「困りましたね。木の実には手を付けないほうがよさそうです」


 辺りを見回しながら、シャオは手持ち無沙汰に腰に下げた瓶を爪弾いた。軽やかな返事が木漏れ日を乗せて返ってくる。


 この見知らぬ森を出られるまで何日かかるか分からない。

 拾った硝子瓶に一本、湖水を詰めてきたが、それだけが二人の命綱という訳だ。


 スヤンは傘を傾げて空を仰ぎつつ、ぽつりと言った。


「……帰れそうにないな」

「帰っても、もはやどうにもなりますまい」


 シャオはそう答えたが、その口ぶりはどちらかといえば前向きな、とうに割り切ったものに聞こえた。

 目下、せっかく拾った生を無駄にしないことのほうが重要なのは確かに間違いない。


 とはいえ、二人の不安はすぐに解消されることになった。

 数時間ほど歩いたところ、人の声が聞こえてきたからだ。

 何とかうまく呼び止めて、道案内でもしてもらおうと思ったところ、シャオは異変を感じて足を止めた。


「来るなッ、来るなァー!!」


 薮の向こうで数人が喚く声がして、ロバの興奮する鼻息、それから獣の喉音が混じりだした。

 明らかに事件が起きている。

 騒ぎは、段々こちらへ近づいてくるようだった。


「助けてくれー!」

「何でもするよォ!」


 スヤンとシャオは顔を見合わせた。


「どうしますか? 何かあったようですが」

「…………」


 スヤンは黙って考え込んだ。

 自分は人斬りだ。人助け、という言葉には常々縁が無い。今さら何をしたところで、地獄行には変わるまい。


 ただ、気にかかるのはシャオのことだ。

 こうして機会を得たのだから、彼女だけでもやり直せるならそうしたい。

 もし、これがそのきっかけになるとするならば、一考の余地はある。


 スヤンは傘を畳んで、羽織の裾を翻す。


「行って、それから考えよう」


***


 助けを求めていたのは商人の一行のようだった。

 顔立ちは奇妙だが、ロバを何頭も引き連れて、身なりも決して悪くない。それで野盗にでも囲まれたかと思ったが、どうも様子がおかしい。


 足を絡ませ、引き綱を絡ませ、何かから逃げるように走っている。

 彼らはスヤンたちの姿を認めると、口々に叫んだ。


「す、すまねえ、すまねえ、すまねえ!」


 喚く商人たちが這ってくるが、それも転んでいるのか縋っているのか分からないような有様で、あまりの異様さに流石のスヤンも気圧される。

 彼らはスヤンの足元にうずくまると、懇願するように見上げて言った。


「恨まないでくれ……!」


 その、商人の恐怖と後悔に満ちた表情を見て、スヤンはようやく理解した。


 彼らは許しを乞うているのだ。

 実のところ、彼らは本当に助けが来るなんて考えてもいなくて────自分の弱音が死体を増やしたことに耐えられそうにないのだと。


「頭目」


 刀の柄に手をかけながら、シャオが僅かに進み出る。

 スヤンは面を上げ、不気味な気配の正体を見た。


 それは、まるで宙にぽっかりと空いた歪な裂け目のようだった。

 しかし、荒い呼吸と、大きな一つ目と、頑強な四つの脚が、それが何がしかの生き物であると示唆している。くすんだ黒い毛並みがどんな光も吸い込んで、輪郭以外はまったくと言っていいほど区別がつかない。

 高さは三メートルと少しはあるだろう。並の獣とは思えなかった。


 狼、と仮称するのがいいだろうか。

 だが、それは決して群れに君臨する王などではなく、ただ彷徨える飢えた獣だった。


 商人のロバたちはすっかり怯えきって、互いを繋ぐ縄を千切らんばかりに暴れている。


 スヤンは狼から商人たちを庇うように割って入ると、正面からその一つ目をじっと見据えた。


 あらたな玩具の登場に、狼は息を激しくして、べろりと真っ赤な舌を垂らす。

 その骨ばった肩を怒らせる度に、爪はばきばきと音を立てて大鎌のごとく弧を描いて伸びた。


 獣の今にスヤンを八つ裂きにせんとばかりの興奮振りに、商人たちは声を上擦らせる。


歪み(・・)が増してるんだ! 殺されちまう!」


 そんな制止を意にも介さず、スヤンは傘を放り捨てると刀を抜く。

 木漏れ日を浴びて、直刃の紋は喜びに打ち震えるようにぬらりと燦めいた。


「シャオ、後ろを任せる」

「承知しました」


 簡素な返事と共に、シャオが商人の傍らに立つ。

 スヤンたちが逃げ出さないのを見て、商人たちは頭を抱えて地に泣き伏せる。


「そんなおんぼろの剣で、どうにかなる訳がない……!」


 獣の眼が、細く三日月のように笑った。

 遊ぼう、と爪牙の螺旋がじゃれつく。


 それは鋼鉄よりも硬質で、人間など容易く引き千切るように思われた。

 三秒後の不気味な粘着音を、商人たちは耳を押さえて聞くまいとする。

 しかし想像とは裏腹に、静寂を突き破ったのは冷たく透き通った反響だった。


「明天の良いところは」


 獣の爪はスヤンの鼻先で止められていた。

 あの絶対的な質量を剣の一本で耐えきって尚、彼の顔には汗一つない。

 浮かぶのは椿の花でも摘むかのような、憂いを帯びた表情ばかり。


「……俺が振るっても、折れないところだ」


 びきり、と刀を握る手に気迫が走る。

 行き場を失った暴力が、獣自身に跳ね返る。

 おぞましい未来を映した鏡が割れるように、爪は無数の欠片に変わって砕け散った。


 余波に吹き飛んだ獣の身体で古木の幹が軽く薙ぎ払われる。

 破片、粉塵、逃げる鳥。

 枝葉の群雲を失い、辺りには昼光が差し込んだ。


 土煙が晴れる頃、狼は目を白黒させてひっくり返っていた。

 スヤンは細く息を吐き、刀を納める。


 少しして、ようやく起き上がった狼は瞳孔を震わせ、二、三度足踏みをしたあと、尻尾を巻いて走り去った。

 残ったのは、傘を拾うスヤンと、薄気味悪いものを見たように唾を飲み込む人々だけだった。

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