14 鏡の騎士と出会うこと
それから数日、スヤンはほとんど眠れない日が続いた。
頑丈だけが取り柄とはいえ、昼間の作業もまだまだ残っていて、これには流石に堪え始めた。擦り減らすという言葉が似合っていた。
ある満月の夜、スヤンは椅子に腰かけたまま、明かりも付けずにぼんやりと見えもしない天井を見上げていた。
そんな深夜の来客はかえって丁度よかったのかもしれない。
「すまない、今夜は月が明るくて。入れてもらってもいいかな」
女の声だった。
年はスヤンとそう変わらないように見えた。目の覚めるような深い青色の、薄く硬い生地の外套を羽織って、同じ色の鞘に包んだ大きな剣を二本も携えていた。
月に照らされて窺える、装備の少し埃っぽい気配は、彼女が長く旅をしてきたことの証拠だ。
スヤンは上着を抑えたまま顎を僅かに引いて、彼女を招き入れることにした。
「……どうぞ」
「助かったよ。夜明け前には出ていくから」
彼女は礼を述べて大きく一歩踏み込んだ。
スヤンの閉めた扉が一度大きく軋んだが、シャオは起きてこなかった。
客人は上着を脱ぐと、二本の剣を入口の横に立てかけた。
「私はディエゴ。あるいは……鏡の騎士と呼ばれているよ」
彼女の胸元には小さな丸い鏡のついた首飾りが掛かっていて、薄暗がりの中でも一番星のように輝いて見えた。スヤンが卓上のランプを灯すと鏡は炎を映して、一層明るく彼女の姿を照らした。
亜麻色の髪は胸の少し下まで伸びて、きっちりと分けられた前髪の下には凛とした緑色の瞳があって、大人びた女性らしさの中にもどこか少年めいたところのある中性的な雰囲気を纏う。
ディエゴは勧められるままに椅子へ座りながら、興味深そうに室内を見回した。
「もう休むところだったかな」
「構わない。寝つきが悪いのは元からだ」
茶の仕度をしながら、スヤンが答える。
湯が沸くと、スヤンは少し迷って、客人の向かいではなく机の角を挟んで座ることにした。茶器と共に席に戻ってきたスヤンの、澱んだ目元がランプに淡く照らされて、ディエゴは眉を上げて口を結んだ。
「確かに、あまり眠れていなさそうだ。ここはこんなに穏やかな場所なのにね」
外では時折風が吹いたが、それは二人の向かい合う空間には何の変化も与えないほどささやかなものだった。スヤンは沈黙によって彼女の言葉を肯定した。二人は、客と主人と言うには静かすぎた。
少しの静寂を経て、ディエゴは夜風で冷やした指先を淹れたてのカップで温めながら、肩を竦めて眼差しを向けた。
「ありきたりな言い方だけどね、悩みがあるなら相槌役くらいにはなれるよ。何より、このまま黙って過ごすのも退屈で、だからといって私を野放しにして寝るのも難しいだろう」
「それは……」
どちらもうまく否定することはできなかった。
スヤンが困ったような顔をするのを見て、ディエゴは小さく笑った。
「警戒するのも無理はないさ。でも、これっきり二度と会わないって相手のほうが、かえって話すのが気楽だってこともあるとは思わないかい」
それもまた、否定しがたい言葉だった。それとも、弱り切っていたのかもしれない。
スヤンは視線で同意を示すと、吐き出してみることにした。
かつて遠い都で、人を斬って暮らしていたこと。すべて失くして、手元に残ったのは一本の刀と娘だけだったこと。今はただ彼女を送り出すことを考えて、それでもまだ───形のない焦燥が消えないこと。
それは独り言のようで、また、明け方に見たおぼろげな夢を語るようでもあった。
ぽつりぽつりと言葉を探していると、不思議と、何もかも告白してしまっていいのだという弛緩した安堵さえ覚えた。それもまた、ディエゴの持つ奇妙な雰囲気のせいかもしれない。
「俺はただの悪党だから、今さら汚した手に慄くことはしないし、これにて贖おうという心算もない。だが……」
この地にあっては都の衛士も、自分を捕らえようと追っては来られず、誰もこの首を斬る理由を持たない。今や、スヤンの足首を掴もうとする過去は、スヤンにしか見えない亡霊のようなものだった。
「あの子がいると確かに暖かくて────だからこそ寒く感じるんだ」
恐ろしいのは気づくことだ。何から目を背けていたのか、かつては何が確かに在ったのか知ることだ。
あの子を、シャオを送り出すことに、義務以上の意味を見出してはいけない。
そうできなかったときに、空しい思いをするだけだから。
「何もかもささやかな気まぐれだったはずなのに、今はそれだけに縋ろうとしてしまっている気がする」
そう呟いてスヤンが茶に口を付けると、それまで頷くばかりで一言も発さなかったディエゴが、ようやく腕組みを解いた。
「……その寒さはきっと君を守っているんだろう。凍えていると痛みに鈍くなれるから。でも、陽だまりの暖かさが君を融かし始めているんだね。本当の罪に向き合い、乗り越えるために」
スヤンは椅子に背を投げ出すと、傾げた項をそのままに、目線ばかりを差し向けた。
「俺は、心の底で……許されたいとでも思っていると?」
「許されたいか、許されるかどうかっていうのは実は大した問題じゃない。大切なのは、常に考え、より良くあろうとすることだよ」
ディエゴは力強く答えた。
「それを理性と私は呼ぶ。そして、理性こそが君たちを人間にすると期待もしているんだ」
スヤンは長く口を開いた慣れない疲労と高揚の中で、ふと思いついたことを溢した。
「その話は……【すろうらいふ】に似ているな」
「スローライフ?」
「恩人が言っていた。……明日の自分を楽しみにすることだと。今のところ、あまり上手くできていないが」
それを聞いたディエゴはまたしばらく言葉を咀嚼するように考え込んでいたが、おもむろに立ち上がると言った。
「少し、おまじないをしてあげよう」
「え」
気が付くと、スヤンはディエゴに抱きしめられていた。
息が詰まるのは胸が締めつけられているからなのか、誰かにこれほど近づかれたのが久しぶりで、どうしたらいいか分からなかったからか、判断ができなかった。
血の気が引く感覚に、スヤンは椅子から立つことも忘れて視線を泳がせる。彼女の肩口が乾いた唇を押さえて、声が出なかった。
「う、あっ?」
「へへ、ドキドキしてるね?」
ディエゴはスヤンの頭を抱え込むようにしていたので、スヤンは彼女がどんな顔でそんなことを言っているのかは分からなかった。
彼女の手のひらから頭骨に伝わる温もりは、恐怖にも快楽にもよく似ている。動悸の苦しさに、自分にも心臓があったのかと他人事のように感心さえした。
言い聞かせるようにディエゴはスヤンのつむじの上で囁いた。
「君の翼を取り戻すにはね、心の中の鏡を覗き続けることだ。上手くできなくてもいい。巡礼のように、一歩ずつ」
普段なら疾うに押し退けているはずなのに、身体に力が入らない。
不思議な感覚だった。彼女が言葉を紡ぐ度、反響、鐘の音のような振動が、胸の奥の細波を打ち消して、残った水面は確かに一つの鏡に変わっていた。
「向かい合うんだ。一つ一つ、見つめて、捉え直す。明かりを灯して、道を探して」
鏡の中には自分によく似た男がいる。
よく似ているが、どうしても自分そのものだとは思えないのは、それが理想だからなのかもしれない。
ずっと鏡台の前に座り込んで、玩具のように眺めていると、近づきすぎて全体の形は分からなくなる。遠すぎると、鏡はまったく違う場所を写し出す。
だから丁度いいところを何度も探して、狭い部屋の中を歩き回る。
「それを繰り返すんだ。疲れても、くたびれても、答えだと思うものを見つけても、少し休んだら、もっと素敵な答えを求めて歩き続けて」
気がつくと、ディエゴはゆっくりとスヤンから身を離していた。
「おまじないはこれでおしまい。君が君の罪に向き合うとき、きっと役に立つ」
彼女を引き留めようとして、しかし、封を解かれたように溢れ出す眠気が、指先の一つも絡めとってしまって動かせない。
「また来るよ。いや、もう来ないかも」
ディエゴは寂し気に笑って部屋を出ていった。
「……真夜中に来る客は入れちゃ駄目だよ」
満月の光を扉が遮る。
寒さはもうどこにもありはしなかった。




