せのはち
昔から安芸と備後の国境辺りは急峻な地形で切り分けられていた。
国単位として境を区分をするにはとてもわかり易い良い方法ではある。
しかし、鉄道にとって高低差は大きな障害になることがある。
急勾配が続く、瀬野駅から八本松駅までは「せのはち」と呼ばれている。
機関車なら重連といって機関車を追加して動力をパワーアップしていた。
具体的にはD51を瀬野駅に待機させておく。
勾配を上るために不足した動力を補うために、それを広島方向からやって来る列車に連結させ、急勾配を上がっていったのである。
それでも、秋は落ち葉、冬は雪、梅雨は雨で急勾配は更に難所になってしまうのではあるが。
小名気は、国鉄時代は機関車の火夫であった。
小柄でずんぐりした朴訥な男である。
火夫というのは助手ともいい、機関車の釜に炭を入れる係であった。
それは非常に過酷な労働である。
不定期に左右に大きく揺れる走行中に、大股に脚を広げ安定姿勢をとり、床に一粒たりと炭をこぼすことなく、シャベルで放り込む。
特に補機としてのパワーを求められる瀬野八の機関車では炭を入れるのが遅くては話にならない。
シャベル1杯1キロで、3分20秒で100キロ。一秒に1回のペースでの投炭を一日中何度も行う。
若く体力のある小名気ではあるが、いつまでも若いわけではない。
だから彼は、火夫を通過点に余り体力が必要でない運転士を目指している。
瀬野駅は山の中にある。月のない夜になると真っ暗闇で駅舎の電灯を消すと前が全く見えない。
機関車は夜間に停まっているときでも窯の火を落とす事ができないので、火を絶やさないように番をしている。
ある夜、窯の火に炭を足そうと小名気が機関車へと歩いていると
「もし...」
と、若い女性の声が聞こえた、気がした。
冬の近い谷山の中、こんな漆黒の時間に女の人が出て歩く土地柄ではない。
小名気は空耳か聞き間違いだと思って立ち止まる事もなく歩もうとしたが
「もし・・・」
今度は聞き間違えではない、最初より明確に聴こえた。
声の方向に目をやると、保守用に幾つかしか点けていない電灯の暗がりの中にたしかに女性がいる。
年の頃は小名気に近いか。小柄で華奢な女性であった。
「何でしょう?」小名気が歩みを止め応えた。
「明日一番、三原行き汽車は出ますか?」
「今の予定では6時12分に始発が参ります。」
「...明日、お乗りで?」
「あ、いえ...」女性が小声で答えた。
夜の帳の中で娘の表情が動いて、頬が少し赤らんだように見えた。
その反応を見て、小名気は何か余計な事を喋ったかと、時刻だけを伝えるべきだったかと、バツが悪くなり頭を掻いた。
娘はぺこりと一回お辞儀をし、「あっ、ありがとうございました。」と言い残し暗がりの中、小さく遠ざかって行った。
小名気は少しの間娘を見送った。
その後、機関車に向かい歩き出しながら今の会話を点検していた。
しまった。職域を超えてしまった気がする。
だけど、久しぶりに柔らかい会話を交わしたなぁ。
職場特有の確認系の発語、点呼がほぼ全ての生活に少し潤いが齎された事を喜んだ。
しかしそのすぐ後、小名気はだからとは言え無意識下に赤の他人様の潤い欲しさに行動してしまったのではないかと、胸が傷んだ。
翌朝は予報よりかなり気温が下がり霜が降りた。
瀬野に入線した上り列車の先頭に機関車を連結しながら、機関車の運転席で操縦手が難しい顔をしている。
「今朝は滑るぞ。炭を入れればいいというものでもなく、かといって炭が足らねば停まってしまう。ボイラー圧計を丁寧に見てくれ。」
「分かりました。」小名気は答えた。
今朝は二重連での登板である。
ホームに十数人の乗客が列車の到着を待っていた。しかし、そこにはあの娘の姿はない。
ならばこの中の一人はあの娘の身内だろうかと、昨晩の邂逅を思い出していた。
定刻通り瀬野駅を発車。
左に街道、右に瀬野川を見ながら線路は右に左にカーブを描きながら登っていく。
まだこの辺りは良いのだがと思いながら、席に座りボイラー圧計の様子を見る。
高くなりすぎたらバルブを回して圧を抜く。下がってきたら炭を窯に入れる。
滑り止めの砂を線路に撒くための機構も昨夜、点検保全してある。
「キッ!」
2つ目のトンネルを通り過ぎた時、動輪が高い金属音の嫌な音を上げた。
空転の前兆の音である。
小名気は砂蒔きコックに手を掛けた。
砂を撒けば動輪と線路の間の摩擦を上げ空転を防げるはずであったが、残念ながら右動輪がスリップを始めた。
「キッ!」「キッ!」「キッ!」
少し進んでは空転し少し進んでは空転し、このまま急勾配で停止してしまったら一巻の終わり。
この位置では後進して相当下がらないと、もう一度速度を出せる平場が無い。
操縦手が声を上げる「砂蒔きコック開け!」
小名気は復唱する「砂蒔きコック開け!」。
しかし収まるはずの空転が収まらない。
小名気は身を乗り出して動輪と噴射器の具合を見た。
確かに動輪に向かって砂が噴射されているのだが。
「砂が足らないのか?」小名気は砂箱に入っている砂をバケツですくって機関車の側面の保守用の歩き板、手すりも付いている床が設置してあるのだが、そこを歩いて機関車の前側までたどり着いた。
操縦手が右窓まで来て「大丈夫か」と叫んでいる。
小名気は目で返事をして、歩き板に這いつくばり、革手袋を外した。
「走ってくれ!」心でそう念じながら素手で砂を動輪に向けて撒く。
最後のトンネルに入った。
ここを抜けたら峠は終わり。もう後少しだ。
トンネルの中は漆黒の闇で、何も見えない。
機関車の蒸気音が聞こえるだけ、のはずが声が聴こえてくる。
「もし...」昨夜の声だ。
緊張のあまりおかしくなった。小名気はそうだと思った。しかし、
「砂は私が撒きます。あなた様は⋯」
幻聴ではなかった。明瞭に聞こえるばかりかそこに娘の姿がある。
「あなた様は力を漲らせなさい。踏ん張りなさい。」
何を言っているのかと小名気は一瞬思ったが、不思議と違和感を感じない。
素直に小名気は全身に力を込めた。
すると、動輪が線路に噛んで空転が止まった。
同時に機関車が少し右に斜めに下がっている。
顔を上げると娘は指先からまるで水鉄砲のように砂を撒いていた。
「ああ、踏ん張りすぎです。今度は横転してしまいます。」
娘ははにかんだような笑みで伝えてきた。
不思議な光景である。
もう何がなんだか分からなくなっていたが確かに空転は止まった。
小名気は少し体の緊張を緩めた。。
「今日は来るのが遅くなってしまった。」
娘は砂を撒いている動輪から目を離さず、独り言のように呟いた。
そして
「昨夜あなた様と逢うために力を使いすぎたから。」
そう言いながら娘は満面の笑みでこちらを見た。
列車は空転が止まりトンネルを抜けた。
しかしそこにはもう娘の姿はなかった。
それから50年経ったある秋の夕暮れ。
瀬野八の線路のそばの畑で爺さんと婆さんが野良仕事をしている。
貨物列車がゆっくりゆっくりやって来る。
「爺さん、来たで。」
「おお、婆さん。」
爺さんは軽く膝を曲げたかと思うとすごい高さまで跳び、先頭の青い機関車の屋根にふわりと胡座をかいた。
すると機関車は少し前傾になり、婆さんは少し離れた位置にも関わらず指先からまるでビームのように砂を線路に撒いている。
今は真新しい銀と赤の塗装の客車は補機なしで瀬野八を颯爽と駆け上がっていく。
しかし、
瀬野八は今でも、貨物列車は補機が必要な区間なのである。
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