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黒い兎の子、の17

 指先でつかんだ『薪をかつぐ老父』は、巨大化した遥にとって決して堅固な感触ではなかった。黒光りの光沢で覆われた外皮は、表面上いかにもな硬質さを保ってみせているが、いったん指に力を込めると、遥の指はみるみる巨大獣の身体にめり込んでいく。


 パキパキ――ぺキッ、装甲表皮が剥がれていく軽快な音が、響く。

 それはかつて遥迅速と行ったイタリアンレストランのクレームブリュレに――スプーンを入れた感じに似ていた。

 巨大化の影響で力が強くなっているのか、あるいは()()()()()()()()()()()――。

 遥の身体にはまだ絶え間なく黒い霧が流れ込んできている。自衛隊機が攻撃を仕掛けるたび、巨大獣の崩れていく装甲から漏れる粒子が寄せる波のように体中の穴という穴から滑りこんでくる。

 その都度、食べ合わせの悪い食材を口に放り込まれた気分にさいなまれる。

 

 気分は最悪だった。


 カビまじりの()()()匂いを放つ生暖かい粥を有無を言わさず喉奥に流し続けられる感覚が、巨大獣の外皮の割れる心地のいい音と妙な具合に交じり合って、遥の平衡感覚と正常な認識を狂わせてくる。足が地面についているのか疑いたくなる。

 

 ぐ、げえ……ふ――。


 再び吐き戻す。


 巨大化しているのに黒い霧がかかわっているのはあきらかだった。霧状の粒子が流れ込んでくるほどに遥の身体は活性化しているのだから今さら疑いようもない。

 ただ、その恩寵を赦されているにもかかわらず、遥の身体が溢れてくる力に完全に順応しない理由がわからなかった。それが遥にはひどくこたえた。

 

 僕は選ばれたんじゃないのかよ――。


 地球のピンチに格好よく現れて、突然巨大化してみせて、宇宙怪獣やっつけて――。そういう未来選択肢が自分の目の前に付されたわけではなかったのか?


 このままだと『吉祥寺にゲロを吐く光の巨人現る!正体は三鷹に住む少年A』というタイトルにあわせて明日のニュース特番でコールされてしまわないだろうか。


 格好悪すぎる!


 心労から、三度、吐く。しかし今度の吐瀉物は透明感のある金色だった先ほどまでのものとは違い、黒い粒子がチョコチップのようにところどころ混じっていた。

 金色の巨人がぐううううぅと苦しげに呻く。


 「おい少年!吐いてる場合じゃない!しっかりしろ」叫ぶ柊陸曹が吐瀉物回避のため上空を仰いだ。

 「陸曹!巨人、縮んでますよ!」左サイドに回りこんだ久能機から通信が入る。

 「――確かに、さっきより光の巨人があきらかに小さくなっています」と、右サイド田辺。


 「まさか消化不良起こしてません?彼」

 久能の言葉に柊機が光の巨人の真下からポジションをずらす。確かにさっきまでの吐瀉物とは内容物が異なるようだ。色もずいぶん褪せた金色の、ゲロだ。


 「じゃあなにか?少年の巨大化の理由は巨大獣のこぼす黒い霧を吸い込んだためで、食い過ぎて具合が悪くなったって――そう言うのか!?」

 「――ちょお!オープン通信なんだから聞こえちゃうって!」

 「陸曹!彼、食い過ぎとかじゃありません。黒い霧を吸い込んで巨大化はしたものの、成分が体に適合しなかったんですよ。だからこうして吐いてる。今だって黒い粒まじりのゲロでしょ?もう限界なんですよ、消化だけじゃなく、()()()()()――!」


 この戦場において最も客観的かつ対外的なことをも視野に入れていち早く状況を理解したのはキャノントルーパーを駆る田辺保(たなべたもつ)2士だった。

 戦争を知らない世代の十五、六歳の少年が突然こんな状況に巻き込まれたなら。


 そりゃ誰だって厨二に転生しなおしますって!

 で、初陣格好よく決めようと思ったらまさかの「人前で盛大に吐いちゃった劇場」でしょ?

 そりゃ心中激凹みでしょうよ――。


 「くーっ!」田辺は自分のにやけ顔をどう矯正してやろうかなどの些事を考えることなく、どんな馬鹿(柊陸曹)でも理解できるようなわかりやすいアドバイスをオープン通信で放った。


 「誰でも最初の戦いは初陣です。歴史に名を残したこれまでの英雄でさえ、一敗も地に塗れることなく過ごしたものなどいないんです。時には負けて逃げおおせても恥を忍んで、最後は自分の信じた力で、勝つんです。最初から勝者なんて人はいないんですよ。戦いましょう地球の未来のために!」


 小学校に避難していた人たちからであろう、力強い歓声が上がったのをキャノントルーパーのマイクが拾う。これで光の巨人のゲロネタはこの状況からかなり希薄になった確信があった。事実、田辺のオープン通信は遥か含め通信が耳に届いたほぼ全員に希望を与え、あらためて巨大獣退治へと視点を戻すことができていた。

 

 「後は頼みましたよ、柊陸曹!」満を持してバトンを、柊へと渡す。

 

 「よくやってくれた田辺2士。あとは任せろ」モニターのむこうで柊が薄い笑みを浮かべた。


 「少年、聞いた通りだ。戦場でゲロ吐くぐらい誰だってやる。俺には経験はないが、そうだな――たとえば、今あそこで大見得をきったうちの部隊の田辺なんかは模擬戦でうんこ洩らしたこともあるんだぞ。実戦じゃなく、模擬戦で――だ。それに比べればゲロなんてなんだ。お前のとこの親父さんだって二日酔いの次の日にはぎっちり吐いてるのを見たことはないか?――そうか、ないか。むむ、まあじゃあ話を戻すが、実戦帰りならさほど話題にもならないんだが模擬戦での脱糞はだな、さすがに話題騒然というか――」

 「――うわああ!馬鹿かアンタ!人がきれいにまとめようとした話題をどうしておかしな方向にもってこうとするんだよ!」


 柊の突然の暴露話に焦った田辺がはずみで放った半ば暴発気味のロケットランチャーが、どうにも偶然、巨大獣『薪をかつぐ老父』の急所を捉えたらしく、吉祥寺上空を広く覆っていた影は前回と同じように、()()雲散霧消した。


 振り返ってみれば今回の戦いは謎ばかりが増えた戦いであった。しかし、ただの一人の死傷者も怪我人(物理的な)も出なかったある意味奇跡的な一戦とも言えた。

 

 後に、歴史に名を残す好事家がこの戦いに粋な名前を付けることになるのだが、それはまた別の場所で語ることになる。


 いずれにせよこの日は地球にとって重要なターニングポイントのひとつとなったのである。

 

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