黒い兎の子、の12
遥ローエングリンは巨大獣に近づくにつれ大きくなる自身の鼓動に不安を禁じえなかった。
息をするたびに口の中に異物が滑りこんでくる。
しかしその異物の一つひとつが肺に到達すればするほど、自身の身体がさらに熱くなってくる。こころなしか神経が冴えわたり、足が羽のように軽く感じる。
真っ先に薬物反応を疑った。空気に混じってまき散らされたウイルス性のものかもしれない。
瞳孔が開くのがわかった。視界が異常に広くなり、走っている自分を中心に目に映る全てのものの動きが予測できた。自衛隊のロボットが行き掛けに雨粒のようにばらまいていったマシンガンの薬莢の中でさえ躊躇なく飛び込んで進んでいく。
怯むとか立ち止まるといった選択肢は欠片もない。もとよりそんな言葉が存在しないのだと言わんばかりだ。
気分が悪くなる兆候はまだない。興奮剤のようなものか?
異物は、巨大獣と呼称される黒く大きな影の方からまっすぐにこちらに向けて流れてきていた。中心に近づくほどにそれが黒い霧状の粒子であるのだとわかる。
そしてそれが身体に流れこめば流れこむほどに、遥の膂力はより強靭なものへと変貌していく――そんな気がした。
不思議と悪い気分ではない。それどころか、なぜだか遥はこの正体不明の黒い粒子を見知っているような錯覚さえ覚えていた。
これは、薬のせいなんかじゃない。
もともとあったものが戻ってきた――失った半身が急に現れた――そんな感じだ。
破裂音がどこかでで鳴ったのが耳に入る。巨大獣の一部がはじけて、黒い霧が周囲に拡散する。
目に見えて遥に向かってくる黒い霧状の粒子の数が増えていく。
中空を風に乗って飛ぶその姿は農作物を集団で荒らす飛蝗を想起させた。黒い塊と化した粒子がいっせいに遥を襲う。最初は口から呼吸に紛れて侵入してきたものが、今では耳や鼻、しまいには両眼からも容赦なく飛び込んできていた。その様子はまるで獲物に群がる虫そのものだ。
彼らは――身体に入りこんできたそれらをそう呼んでいいのかどうか定かではなかったが――遥に何ごとかを語りかけてきた。
蠢くものであること以外、正直どう形容していいかわからない。それらは遥の中に入りこむや大音量のラジオでも流しているかのようにとりとめのないことを口々に叫びながら、遥の体の隅々を何度も駆け巡っていった。
もちろんそれらについて遥は知る由もない。自分の思惟とはあきらかに無関係の何者か等は声色を変え、しきりに遥をなだめたりすかしたりを繰り返している。
やがてそれでもどうも反応しない遥に業を煮やしたのか口々に呻き始めた。
先へ進め、その力を以てこれまでの鬱屈したものを吐き出せ、特別な力はもうお前の手の中に戻ってきたのだ――暴れろ、未来はお前の手の中だ。この星を、今こそ手中に治めるのだ――。
真っ赤に紅潮した顔面から鼻血が噴き出した。両眼からも涙とは違う液体が滲んで、走る道すがら後方へと流れて消える。頭の中に去来する言葉の渦に呼応して、身体の中で太いゴムをぐるぐると巻いたみたいな力が漲ってくる。服がはじけ飛んでしまうのではないかと思うほどだ。
目が充血しているのが鏡を見なくてもわかった。
ぶしつけにも僕の身体に入りこんできた彼らのことはまったくわからない。
ただ、彼らの言葉を鵜呑みにするのなら、僕は宇宙人ということになるのか?
ではなぜ僕は地球にいる。まだ、ピースが足りない。
だが、ようやく自分の謎の端っこをつかんだぞ。
噛みしめるようにもう一度、今の言葉を心の中で咀嚼する。
身体の中で変わらず暴れ続ける力がなんであるかはわからない。けれど同時に、遥はこの力が必ずしも悪いものではないと肌で感じ取っていた。
解かなければならない。自分自身の、本当のことを。
黒い粒子が向かい風のように叩きつけてくる中を走り続け、ようやく広い場所に出たことに気づく。
東京にしては少し広めの小学校の校庭に、遥は立っていた。変わらず黒い風が容赦なく吹き続けてはいたものの、遥はこの場所が自分のファーストステージだと直感していた。




