黒い兎の子、の7
遥ローエングリンは三鷹駅へ避難する道を外れて、一人走り出していた。
「遥ッ!どこ行くんだよ。避難しろってさっき自衛隊の人が言ってただろ!」
トルーパーズと別れた直後いきなり方向を変えて走り出した遥に、寺門と浄然が鋭い声を上げていた。
「それは、わかってるんだけど。行かなきゃダメだって言ってるんだよ」
「なにがだよ!」
「僕にだって――わからない」体の中から湧き出てくる衝動を言葉にすることは難しい。ましてそれがなんであるのか、当の本人さえ理解できていないのだ。
ただ、行かなければ始まらないし、行かなければ終わらない、そんな抽象的な言葉だけが体中のありとあらゆる血管を巡って連呼し続けている。
門前は大通りへと疾駆する友人の背中をただ茫然と見送っていた。遥の姿は気がつけば声の届かないくらいに離れてしまっていて、豆粒ほどになってしまっている。
追いかければまだ間に合うかもしれない、そんなことも考えてはみたが、ようやく泣きやんで落ち着いた子供の怪我も気になったし、なにより浄然薫梨を置いてこの場を去るなんてことが彼にはできそうもなかった。背後ではこの状況を飲み込めないでいる浄然と少女がそれぞれ眉をひそめて立ちすくみ、門前をじっと見つめている。やり場のない怒りがせり上がってくる。
「ああ!なんなんだよあいつは!」
苛立ちを露わに門前は言葉を乱暴に吐き捨てた。しかし彼はそれ以上の言葉を紡がなかった。遥の身勝手な行動に対して肚に据えかねるものはあるし、遥を咎めるきつい台詞だって喉まで出かかっている。
それでも、
「あいつは――大丈夫だ」
心をぐっと抑え、水なしで苦い薬を飲み込んだような顔をして、門前はひきつった笑いを浮かべた。こんな異常な状況で、浄然と少女の不安そうな顔をこれ以上深くしたくないと思ったからだ。
見えない力に導かれるように遥が大通りに出ると、通りがかった車がクラクションを鳴らすやいなや目の前でつんのめるように急停止した。もう五十数年は経過しているであろう空色のミニクーパー。
そこから髭面の老人がひょいと顔を出す。
「ロウ。こんなところで何してんだ。円盤が出てみんな避難してるだろうが」
言葉の割に緊張感の欠片もない悠長な口調でその男――遥迅速は笑った。
遥は何も言わず助手席に体を滑りこませると「父さんこそ、こんなとこで何やってんだよ」真剣な顔で告げる。
「ちょっと天文台に用があったんだよ。おまえこそ、家とは逆の方じゃないか。逃げないのか?」
「――ちょうどいいや。悪いけどこのまま乗っけてってくれないかな」
「どこへ?」
遥は家とは真逆の、あきらかにこれから鬼門になるであろう方角を指さして見せた。
冗談だろ?
そんな表情を見せた迅速に、「どうしても、行かなきゃならない気がするんだ」と、ロウ――遥ローエングリンは答えた。




