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黒い兎の子、の1

 東京都三鷹市。


 (はるか)は高校から自宅へと戻る道すがら、吉祥寺との境にある井の頭公園の芝生の上で寝転び、大きく体を伸ばして、深呼吸を二度した。競技場とテニスコートの跡地にはしばらく人の管理を離れた木々がめいめいに枝葉を伸ばしており、遥の長く細い四肢もそのうちの一つの若枝のごとく空へ、大地へと広がっていく。

 東京広しといえど、ここ三鷹市周辺だけはマスク不着用であっても肺が汚れない唯一の市とされていた。理由は詳しくは知らない。ただ、父が言うには「三鷹には国立天文台があるからだ」とは聞いている。かといって市民全員がマスクをつけていないかというとそんなことはなく、正直、道行く人を見る限り、着用割合は半々であると思えた。


 遠くで電車が通る音が聞こえた。 

 かつて東京をぐるりと巡っていた山手線は今では本数をぐっと制限していて、通りがかる車両を見ることができたなら今日は幸運な一日だといわれるほどになっていた。

 人々が分刻みに都内を移動し、道行く車で道路がごった返した時代はもう何十年も昔の話らしい。


 昔は色々と便利だったのだがな――と、時折父は遠い目をすることがあった。


 まあもっとも自分が生まれたときにはとっくに不便になってしまっていたというのだから、父が言う満員電車やラッシュアワーといったよくわからない言葉は、正直ピンともこないものだった。


 しかしこれまで遥は自分の生活を不便だと思ったことは一度としてなかった。

 自転車が一台あればこの街で自分の用を足すには充分だったからだ。今日も夕飯の買い物をするべく商店街を通って家路につく。

 狭い路地を抜けると、こんなところに?と疑いたくなるような通りに商店街の並びが現れる。

 地球侵略軍が主に東京に出没していることで、採算の不透明さと物理的危険性を感じた大手企業の経営するスーパーマーケットは早々に街から撤退していた。

 皮肉なことに、そのおかげで活気を失いつつあった昔ながらの小さな商店街には客足が戻り、今では日々の糧をどうにかするほどには回復していた。逆にスーパーマーケット誘致のために市が様々な反対を押し切って拡張した広めの車歩道は、今や人通りの少ない裏道と化している。


 夕方の商店街からはかぐわしい惣菜の香りが風に乗って流れていた。

 威勢のいい商店主の賑やいだ声も響く。

 

 遥じゃん――そう声をかけられて振り向くと浄然薫梨(じょうぜんかおり)寺門防主(てらかどぼうず)が立っていた。二人の手には揚げたてらしいコロッケがあり、浄然の一口かじられたコロッケからはなんともいえぬ芳醇で温かな香りが湯気とともに立ちのぼっている。


 「言っとくけどあげないからね?遥が先に帰っちゃうのが悪いんだから」

 

 そういえば一緒に下校する約束をしたような、していないような気がする。下校時刻になって、ついふらりとそのまま帰途についてしまっていた。

 

 「寺門が君が先に帰ったことを教えてくんなかったら、しばらく待ちぼうけしていたところだ」

 「それは――ごめん」

 本当に悪気がなかったので謝罪の言葉はすぐに口をついて出ていた。


 「まあでもこうして結局?一緒に帰れるんだから、よかったじゃん」坊主頭の寺門がニッと笑う。

 寺門は別に防主という名前が由来で坊主頭なわけではない。彼の実家がこのあたりでは結構有名なお寺さんなのだ。体が小柄で、女性では平均身長の浄然よりかやや低い寺門は、まさに見た目が『門前の小僧』を地で行っているように思えた。

 遥が一度そのことを彼に伝えると「俺は本当に僧職についてるからそのへんの小僧と一緒にされちゃ困る」と息を巻いた。

 「なに言ってんのか全然わかんない」破顔一笑する僕と浄然を見て「俺はもう得度してんだよ」と、さらに不可解な言動を寺門が真顔で返してきたことを思い出す。


 まだ浅い付き合いではあったが、遥はこの二人とは特段馬が合った。


 それは単純に、過去の記憶がまったく無かった自分を一度も揶揄することなく受け入れてくれたことが嬉しかったからなのかもしれなかった。


 

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