ライトスタッフ・ミスキャスティング、の5
シャボン玉のようにゆっくりと浮いて、ノーシェイプは八丈島へと飛んでいく。
その様子を陶然と見送る柊陸曹の脇腹を、久能1士が苛立ち紛れに小突いた。
ぼうっとしていたことを自覚したのか、柊がハッと我にかえる。
「まさか叶わぬ恋に思いを馳せてたりしないんでしょうね?」と、久能。
「……未来がどうなるかなんて、わかんねえだろ?」一瞬の間を置いて、柊がこぼす。
ああ、また始まった。
久能は信じられないといった風に首を軽く二、三度振った。
なんて言うんだろう、直感?シチュエーション?
久能は、すぐ近くにいた田辺2士の肩を半ば強引に引き寄せ、柊から少し離れた場所へ連れていくと、「陸曹の悪いクセさ、また始まったみたいなんだけど、男ってみんな――いや、さすがに全員とは言わないけれどああなるのは普通なわけ?」と耳打ちした。
久能の細面が存外に近づいたことで、田辺は動揺のあまり覚えず不自然に、距離をあけた。
「い、いや。全員がそうと言うわけじゃあありませんが、柊陸曹は、まあ、ことのほか、他の人よりかは、惚れっぽい、というか……」口ごもる。田辺とて齢23にしてまだ彼女どころか女性と付き合った経験も乏しかったから、これは男子の正常な反応といって障りはない。ただ、いつもの妙な言い回しは、今回口からは飛び出さなかった。顔に緋が奔る。
取り繕おうと思案するが、出てきた答えに目を伏せた。
自衛官は女っ気皆無ですからね、とは流石に久能の前では言い出せない。
それにこれは田辺の勝手な憶測でしかなかったが、久能は柊を憎からず思っているのでは、と感じていた。だからなおさら、冷やかしや、それこそ揶揄もしづらいんだよな、と。田辺は平生、このことについてだけは行動や言動についても徹底して気をつけてきていた。
もちろんそこには「巻き込まれるのは御免だ」という頑なな意思も介在している。
田辺から見ても、久能1士は相当の「やきもち焼き」だという認識があった。
元来の面倒くさい性格に加え、毒舌でやきもち焼きとくれば、多少外見が好かろうが現在を生きる大抵の若人は即座に敬遠する。多数派を占める草食系男子に、肉食女子などは言語道断なのだ。「襲われる前にデコイを使うのが良策」と、田辺の信奉している恋愛マスター、『タイの星』も言っている。
「あ、青い鳥は意外に近くにいたりしますけど、主人公たちがそのことに気づくのは本当に最後の最後でしたよね」田辺はうわずる声を隠せず、三文芝居のような語り口になっている。わかってはいるが、慎重に事を運ぼうとするほど危険度が増していく。気のせいだろうが、目の前の久能から黒い霧のようなものが滲み出ている気さえしてくる。
「メーテルリンクの『青い鳥』よね?あれって最後チルチルとミチルがお互いに青い鳥を取り合って――ふふ、ダジャレみたいになってしまったけど――結局鳥籠から逃がしてしまう話じゃなかった?」久能の抑揚のない台詞がとつとつと田辺に刺さっていく。チルチル&ミチルが妙な漢字変換される錯覚さえ覚える。
雰囲気に耐えきれず次第に硬直していく田辺の眼前に、釈迦か阿弥陀の御業か、か細くも垂れてくる一縷の蜘蛛の糸が降りてきた。
天啓の言葉。
「あ、そうだ!あの女は実は男なんだって教えてあげればいいじゃないですか。陸曹はノーマルだから、きっと上手くいきますって」
「きっと?」久能の動きがはたと止まる。
「いえ、絶対、です……ね」多分、を呑み込む。
これ以上どう言えばいいのかわからず、田辺も動きを止めた。このうえ余計なことを一端でも紡ごうものなら、狩られる――そう覚悟した。
久能は田辺からすいっと体を離すと「そう、そうよね」と自身納得した様子で柊の方へと歩み寄っていく。田辺はほっと息をついた。全身から力という力が抜けていく。
「なんだ久能。また何か用事でもあったか?」先刻よりかやや落ち着きを取り戻した柊が、久能を見やる。
「陸曹、あいつだけはやめときな。あいつは相当の守銭奴だ」
久能の言葉にやや思案する柊。しかし口元には笑みがこぼれる。
「金銭感覚がしっかりしてるってことだろ?口が悪いのは今まで頼れる男がまわりにいなかっただけさ」
久能はポカンと呆けた表情になる。おまえ、さっきまで彼女に対してずいぶんと喧嘩腰だったはずじゃないか。
トルーパーとノーシェイプの一連のやりとりを久能も聞いていた。トルーパー同士の通信は意外と筒抜けなのだ。
どこで認識が変わった?しかし一度鞘から抜いた剣は最後に振り下ろすしかない。
久能は覚悟を決めた。言わずにすめばそれに越したことはないと思っていたが、ここまで来たら言わざるを得ない。
「あのな、あいつは、男だぞ?だから土台、お前の相手としては――」
久能の言葉を――おいおい、と柊が遮った。
「お前みたいなゴリラならともかく、あの彼女がそんなはずあるわけないだろ」
「――は!?」久能京華の体のどこかで、ブチン、と太い綱が切れた――そんな音がした。
死んどけ――!鋭い右フックが柊陸曹の顔面を襲った。吹っ飛ぶ柊。
こわッ!女、怖ぁッ!顛末を終始傍観していた田辺は、自身のふぐりが一気に縮こまるのを感じた。
文字通り、デコイが破壊された瞬間だった。




