髪を擦る、の3
「――ロウ!遥ローエングリン!起きなさい!」
我にかえった――というよりか、引き戻された感じで、ロウは意識を取り戻した。どれくらいの時間を消費したのか知れなかったが、巨人の姿で突き出した拳がそのままであった以上そう時間は経過していないのかもしれない。ただ、日頃それほど大きく声を張らない佐藤左京の声がはっきりと胸にまで届いたのだ。外から見て自分の状況がかなり危うく見えているのに違いない。
剥離されかけた緊張感を強い意志でもって繋ぐ。
状況を把握すべく五感を研ぎ澄ませると、周囲にさほどの変化が訪れていないことに気がつかされる。
ではどうして左京の声がああも逼迫していたのか――!?
そんな思いを馳せた刹那、これか、とわかる。伸ばした拳の色が金色から黒に変化していて、かろうじてまだ黒く染まっていない部位がもとの金色と混じってぐにゃっとしたマーブル模様のようになっていた。それは一見すると黒色の侵攻に対して金色が抵抗しているようにも見える。だとすれば今しがた見た幻影――というよりか鳳輦の記憶は、体内に取り込んだ黒色の霧がみせたものだとでもいうのだろうか。
さっき見せられた鳳輦の記憶をロウはまだはっきり覚えている。あんな非日常を疑問もなく受け止めている以上、彼らと自分が完全に無関係という訳ではないのだという確信さえ覚えるほどに。
そしてそれは記憶の中に出てきたあの女性――月采女迦具夜と自分の間に何らかの接点が存在することの証明でもあった。
もう一度彼女に会わなきゃならない。
ロウは唇をキュッと結わえて奥歯を噛みしめた。
拳の先にはまだタガメが発していた黒い霧がまとわりついていた。吹き飛ばしたタガメの上半身は丸く削られていて、制御を失った下半身が壊れたゼンマイ仕掛けの玩具のようにその場で震えている。
そうだ。あの人はどうした――!?
タガメからは遥迅速の声がしていた。意識せずに撃ち抜いた拳がタガメの上半身を跡形もなく吹き飛ばしたはずだ。
「――父さん!」
彼がもうそれとは違うのだと頭では理解できていた。しかし口をついて出た言葉は言い慣れたその言葉だった。
答えは返って来ない。
もはや今となっては遥迅速という男が本当はいったい何者で自分にとってどんな存在であったのか――知る術は失われてしまった。それも、まさに自分の手によってそのきっかけを潰したのだ。
拳が当たった瞬間なんとなく遥迅速が消えていくのを感じていた。それは光の巨人が自分に伝えてくれた――そう思えなくもなかった。
途端、感情が昂ったマーブル模様のロウは、その場で崩れるように膝をついた。胸が苦しくなって、呼吸ができない。ひゅうひゅうと隙間風みたいな音が体内から出てくる。出ていくばかりで空気はとりこめない。苦しさで涙がぼろぼろとこぼれてきて、間を置かず、金色と黒色の混在した巨体は初めて巨人になったときと同様に、盛大に、吐きちらかしていた。右手を大地につき左手で喉を押さえる。
四つん這いのままどうすることもできず、ロウはひたすら吐き続けた。吐くことでなにかが楽になっていく不思議な感覚があった。
混じりけのない金色の液体はしばらくの間地面に流れ続けた。しかしそのことで巨人の身体がそれ以上黒くなることはなかった。ただ咆哮のような嘔吐の音が周囲の音を完全に支配していただけだ。




