髪を擦る、の1
「何なんだ、あんたはッ!」
ロウの口をついて出た言葉は、そんな怒号だった。
タガメを覆う漆黒の鎧は金色の巨人と化したロウの両眼にはすでにガラクタのようにしか映っていない。甲高く軋ませながらもこちらに向かってくるその黒い塊からは、すでに勝ちを捨て、情に訴えかける見苦しさしか感じない。
なぜ、こちらに向かってくるのか――ロウは自分の理解が追いつかないでいた。
加減なく今一度拳を強く振れば、搭乗している遥迅速ごと悲惨な現状を視認することなくこの世界から抹消することも適う。その力を――残念ながら今のロウは持ち合わせている。
見ることさえしなければ。
後悔でさえ、薄く紙を漉くように目の前の黒い異物をもまったいらに整えることができるかもしれない。
「なにが――したいんんだよ、あんたは………ッ!」
しかし、その拳を振るうことがロウにはどうしてもできない。肩口まで上げた右手が、固まったまま行き場を失っていた。
これまで互いに何度も行き違いはあった。数多く喧嘩もしたし、ずっと黙ってきた文句だって積もるほどある。髪を長く伸ばして後ろに縛っている姿を子供の頃からずっとずっと彼の後ろで見てきたのだ。適当に生きて、いつも何かに挫折しているはずの人生だったはずなのに、それでも落ち込んでいる姿を決して自分には見せてこなかった。
泥だらけのブーツを外で洗いもせず家の中に入ってきて、冷蔵庫からおもむろにビールを取り出してグラスに開ける事もなく缶に直接口をつけて飲み干した時の顔を覚えている。そのまま床にひっくり返って高いびきをするみっともない姿も、知っている。その時ももしかするとこの男はずっと自分を欲にまみれた目で見ていたのかもしれなかった。自分をいざというときの金づるくらいにしか考えていなかったのかもしれない。
ロウの拳が――巨人となったままの金色の腕が、小刻みに震えて、どうしてもそれをとめることができなかった。
――それでも。言葉が出ない。しかし今は絞り出さなければならない。ひどく醜く、不格好な声が、滲む。
「――それでも、あんたは、僕にとっては――親だったんだ」涙が伝った。
「そう思うんなら、少しでも恩義に感じているって言うんなら!このまま俺と来い!それでお前は救われるし、俺はそれで報われる。親だと思うのなら、孝行のひとつもしてみせろッ」
もはや目の前のタガメはガラクタ同然のぎこちない動きしかできないようであった。ひとたび強い風が吹けば攻撃されるされないにかかわらず倒れ込んでしまう――そんな儚さを醸しだしている。
ついっと、拳が軽くなるのをロウは、感じていた。見えない鎖かなにかでがんじがらめにされていた煩わしさが解けて、軽くなっている。
十分に膂力を溜めこんだ拳が、津波のような勢いでもって前に、出た。
次の瞬間、金色の巨人の神々しくさえある光を纏った拳が、タガメの頭部を完璧に撃ち抜いていた。
止める、とか、抑えるとか、そういったものでは計れないなんらかの力――それはその場に充満した交じり合った感傷がそうさせたとしか思えないほどに自然に――振り抜かれた一閃だった。
「――それでいい」
そんな声が聞こえた。幻聴ではない。拳が当たったタイミングで消えていくなにかの狭間から間違いなく捉えることのできた「人間の言葉」だった。
「うわああああぁぁァぁァぁァぁァぁァッ!」
身体の中に容赦なく入り込んでくる感情に自分の意識がすり替えられていく感覚があって、ロウは耐えられず叫んでいた。
初めて光の巨人になったときに吐いた、それとはまったく違うものが巨人化したロウの身体を支配しようとしていた。
「――ロウが!黒くなっていく!」
ミンケイバーから戦いの一部始終を観戦していた左京が真っ先にロウの異変に気づいて声を上げた。
撃ち抜いた拳の先から金色の光が失われていく。それはみるみるうちに胴体を覆い、足に至り、そしてやがて頭部をも包み込んでいく。




