転機の、13
ヤックの切っ先がこちらの鼻先をかすめなかったのにはいくつか理由があったが、運よく回避できたことに違いはない。全身の毛穴からドバっと汗が吹き出し、ロウは一瞬だけ自分が恐慌状態に陥ったのだと理解した。
ミンケイランサーが思ったより長く、先端がなにかのきっかけで縦向きになっていたことが幸いした。幅広の穂先がヤックの喉元めがけて突き出されたことで、本来ミンケイボディー本体に向けられるべき大薙刀の軌道が槍先に変わったのだ。
これはロウにとって僥倖であったし、また、転機でもあった。
攻撃、防御、ともに隙がないと感じていたヤックが見せた動き。これまでとはあきらかに違う自己防御の行動。
ロウは自身にピンチがいまだ去らずにとどまっていることも忘れて、ふっ、と小さく息を吐いた。それは傍目から見れば嘲りの笑みにも感じられただろう。だがコクピットには一人、遥ローエングリンがいるのみだ。
汗が止まらないことに変わりはない。寸でのところで躱した薙刀の怜悧な切っ先が起こした恐怖の感情も、変わらずロウの背中に張りついて離れる気配がない。
空気はいまだひりついていて、瞬きひとつすることでさえ躊躇いがあった。
次のアクションをこちらから起こした時、「生か、はたまた死か」の選択肢を目の前に突きつけられることだろう。ロウが息を吐いたのは、それらの未来が見えた上であえて前に進もうと決めたからだ。
「右京!左京!もう一度突貫を仕掛ける。援護を――頼む」
ミンケイバーは、神宮司博士が普段から吹聴気味に騙る言葉を鵜呑みにするならば――核の直撃さえ一度は防ぐ装甲を持っている――らしい。確かに直撃を避けているものの、ヤックから幾許かの斬撃を受けたミンケイボディーが故障なく立ち回れているのも、博士の誇る頑強さの裏付けがあってのことかもしれない。
と、なれば、ヤックの一撃がどれだけ凄まじいものであったとしても、核攻撃のそれに勝るものとは考えにくい。
「――信じますよ、博士」
受験前の学生が神社仏閣を詣でて合格祈願をする――そんな調子ではあったがロウはあえてそう口にすることで恐怖を噛み砕こうと試みた。
ロウは――遥ローエングリンは、今も、これまでも、なにかを信奉して生きてきたわけでもなく、なにかを妄信して過ごそうと考えているわけでもなかった。死んだらそこで全部終わることも知っているし、世の中がつまらないリスクをそこかしこに用意しているという現実も理解していた。
だからここでこうして自分が命を懸けて頑張ってみたところで、世間がこれを機会に自分を認知してくれたり、広い意味で平和の素晴らしさを実感してくれることがないことも十二分に承知していた。
なんのことはない。単にこの場のノリと雰囲気に自分が乗せられてしまっているだけのことなのだ。だから吐いた息も自嘲を含んでいる。
自分の行動に大義はないし、鮮やかな未来志向だって存在しない。
ふっ、と、また息を吐く。
「――突貫する。ミンケイ――ッ!ランサァぁ――ッ!」
ミンケイボディーが声紋認識で再び技を発動した。距離はおよそ五十メートル。右京と左京が、ロウの理想とした絶妙なタイミングで牽制攻撃に入ったのが見えた。汗で冷たかったはずの背中はすっかり気にならなくなっていた。