転機の、2
ほぼ深夜に家の玄関のチャイムが鳴って、風呂上がりのホットミルクを口にしかけた佐藤左京の手が止まった。神宮寺は家に戻ってきてすぐにミンケイバーの格納庫に籠ったきりだ。仮に戻ってきたとしても玄関のカギはまだ開いているはずだから、チャイムを押すなんてまどろっこしいことをするはずはなかった。
こんな時間の来客を左京は経験したことがなかった。右京に声をかけようと思い立ったが彼女は自分と入れ替わりで入浴中だ。
こうなると玄関が施錠されていないというのは恐怖だ。ホットミルクで満ちた白いマグカップをテーブルに置くとなるべく足音を立てないように玄関へと向かう。
「――はい?どなたでしょうか」
いつもよりさらにか細い声を絞り出す。インターフォンなどといった気の利いた設備はこの家にはない。左京はこの時早急な設備設置を願った。相手がもし暴漢であったなら自分に対抗できる力はない。恃みの右京をまさか裸のまま対応させるわけにもいかない。そう考えると自分が声を出したことがすでに失策であったようにも思うのだ。もうすぐ日付の変わろうというタイミングだ。普通に考えてまともな来客であろうはずはない。
玄関の外に居る人影が細長い摺りガラス越しに見えた。存在を感知して屋外灯が点いたのだ。
「ああ、夜分にすみません。僕です――月影。月影アラタです」
「――アラタ君!?」玄関に駆け寄りおもむろに扉を開けるとそこにはずいぶんと疲弊した姿の月影アラタが立ち竦んでいた。
「こんな遅くに、本当すみません。博士――所長はいらっしゃいませんか?」
リビングに通されたアラタは、今朝がた朝食を振る舞われた場所と同じ席に案内された。木の椅子を引くと床と擦れてぞぞっという音が鳴る。思った以上に音が響いて、アラタが申し訳なさそうな顔をする。
「家、古いから、気にしないで?」対面に座った左京が先刻飲みそびれたホットミルクを口に含んだ。それほど時間は経っていなかったがカップの表面には牛乳の膜が出来上がっていた。カップに目を落とした後膜を含んで飲み下した左京とアラタの視線がぱちりと合う。
「ごめんなさい。私ばっかり飲んじゃった。ホットミルクだけど、アラタ君も飲む?それともお酒の方がいい?」
「――いやお酒は。ああ、じゃあせっかくなので同じもの、いただけますか?」
「同じものいただけますか――って。洒落たバーでしか言わない台詞」屈託なく左京は笑った。
普段仕事場でもそうそう会話をすることのない二人だっただけにお互いどこか遠慮の色があった。ぎこちなさからいつもどんな口調で話していたのかさえ思い出せない。
妙に緊張感のある空気が満ちる。
「お、お爺ちゃんに用だった?」口を開いたのは左京だ。小鍋に牛乳を入れて煮たてている。言葉とは逆に台所での彼女の手つきは慣れたもので、動きに澱みがない。
「――相談したいことがあって」沈んだ声が背後でした。いつものアラタらしからぬ低い声が左京の想像を否応なくかきたててくる。
まさか仕事辞めようとか思ってる――とか?
そうかもしれない。思い当たる節がないとは言い切れない。ロボットに乗るような危険な仕事だし、休みは不定期だし、ロボットに乗らないときは何気に力を使う外仕事多いし。給料だってそんなに高くはないし、私だってお爺ちゃんの手伝いって考えなければやってないと思うし。
思い当たることが多すぎて思考をぐるぐる回していると、気がつけば手元で牛乳が沸騰を合図していた。
「――でも。やめなくてもいいと思うよ?」
左京のマグカップと色違いの黒い器に牛乳を注ぐと、湯気が細いゆらめきを描きながら天井までいっきに立ちのぼっていく。
どうしてこんなことを口にしたのか自分でもわからなかった。台所で手もとだけを照らす朧な白光が影を作ってくれたせいでアラタには見えなかったが、風呂上がりの紅潮とは違う赤味が左京の首から上を染めていた。
そこにタイミングよく現れたのは、風呂から上がったばかりの右京と無事にマシンメンテナンスを終えた神宮寺時宗だった。
近所の公園で満開になった桜を見ながら花曇りの下で一杯傾けていると、子供がわちゃわちゃ現れてこちらを指さし「昼からお酒飲んでるー」と笑いながら叫んでくるのは、私が悪いのか花見の風習を教えない子供の親が悪いのか。花見しながらお酒を呑んではいけませんって書いてあるわけじゃないんだからいいじゃないさ、と開き直っていると子供が遠くから膨らませたシャボン玉が風に乗って飛んできた。ああ、どうでもいいことで神経吊り上げる必要なんかないんだなぁと思いましたね。堂々としていればいいんですよねw




