recycle bin
一口、一口、ゆっくり炭酸水の吐いたペットボトルを空けてゆく。溜息をついて、眼下に広がるゴミのように小さな町並みを、どこを見るでもなく眺める。所々で車が太陽光を反射してギラギラと脳裏を刺激し、そしてさらに高い所へと私を上らせる。あの空気からは逃げられても、光からは無理だとしても。
「あまり高い所には行きたくないのに」
ふっ、といつの間にやらすぐ近くに同じくらいの見た目の女が中腰になっていた。今さっき上った時からいた先客だろうか、世の中同じ所で同じ事をする人間というのはこうも似た雰囲気を持つものかと、違う方向で少し驚きを感じる。
「すみません、お邪魔してしまって」
「ああ、いや」
女はどっちつかずの体勢をどうするか僅か考える素振りをしたのち、その場に座り込んだ。なぜこんな所に、と問うまでもない、最初の独り言で目的は一緒なのだろう。そしてそこから話が広がるでもなく、無言の女二人が並んで縁に座り込んでいる風景画しばらく続いた。普通は気まずくなりそうなシチュエーションの上位に入るであろうこの空間も、時に感情の揺らぎもなく、淡々と過ぎてゆく。ちっとも変わらない外科医に向けるマガ、少しぶれにくくなったくらいだ。
「あたしは誰かが隣にいても、こうして話す期間が出来ても、もう変わりようが無いみたいだね」
「……私も似たようなものですよ、こんな所まで逃げた所で何も変わらないのに、まだ高い場所へ遠ざかろうとしています」
「それって、あたしからもって事ね」
「全部から、ですから。そうなってしまう」
女は少し面白そうに歯を見せて笑った。そしてすっくと立ち上がると一歩後ずさり、そのまま勢いを付けて目の前の崖へと消えて行った。数秒もしない内に小さく岩肌に擦れる音が何度か空気を鳴らした。
これだともう、下は見ない方が良いだろうが、目的は同じだと言い合った手前、本当にそうだっただろうかと今になって疑問になり始めてしまった。少なくとも、ここからは落ちたくはなくなった。
私は警察に通報すると、そのまま山を下り、見慣れた自宅の部屋へと帰った。
街ゆく中に露出狂染みた女を見た。レースクイーンか、あわよくば女子プロレスか、そんな色彩や体にぴっちりとフィットしたスーツにひらひらとフリルが過多に付属したスカート。肌の露出が高い割りに、顔は陶器を被ったかのような、覆面染みた白い化粧。異様だ。もちろん私はそんな人物に声掛けけるような事はしないし、そもそも車道を挟んだ向こう側の事だ。かといってこちら側に居たとしても反応はそう変わらないだろう、通り過ぎるだけ。私はただ通学しているだけなのだから。例え空から宇宙が降って来ようとも、通学する者の前には幻だ。
今日も私の席がある、所定の位置だ。
席について鞄を脇に掛けても私に声を掛ける者はいない。友達が居ないという訳ではないが、それが友達かどうかを確かめてみたことは無い。という話で、たまに遊んでみたり、弁当を食べてみたりはするが、それだけだ。私には“友達”という区切りがどこにあるのか理解出来ないだけ、とも言える。
少し離れた席からは、昨日またあの山から自殺者が出たという話がひそひそと聞こえて来ている。その自殺者の名前が同じクラスの人間と同姓同名だったのなら、きっとまた違う反応をするのだろうなと空想すると少し楽しくなる。
お行儀はこの際良くなくても誰も構いやしないだろう、聞き耳を立てて全部を聞く事にしよう。話の内容は、なんでも全身がすり傷だらけで、関節があらぬ方向を向いていて、直接の死因は低体温症による凍死で、手首には真新しい傷があったとか、顔の方はどこにでも居そうな感じだとか、随分とニュースを見て来た口ぶりだ。完璧に他人事として話されているこの話題が、昨日私の隣に居て話した相手である非現実感と、無かったはずの今日という朝の身代わりにしたような軽い罪悪感を与える。
「宮菜、昨日の岩飛山ってよく行ってる所じゃない? 大丈夫だったの?」
すでに登校済みであちこちで話をして回っていたのであろうこの子が、私の弁当友人、常若。少し色の薄い高身長で、遠くに居ても頭一つ出ていてすぐに解る。
「うん、このとおり。下山した後にあったみたいだね」
嘘を言った事を察知した訳ではないだろうけれど、常若はいつも少し心配そうな目で私を見てくる。もちろん、あの山はただの景勝地ではなく、こうしてしばしば飛び降りの舞台となる事を知っているでしょう? という意味でのそれが含まれている。
「……健脚だねえ、来年うちの部来いよー」
「この足は帰宅部で鍛えた賜ですので」
「一人登山部め」
にやあっ、と水分多めの笑顔を作って軽く手を振り、またどこかへ歩き去っていった。これくらいの軽い付き合いをしてくれるのが常若の好きな所だ。だが彼女の居るバレー部に入る事は、私が清水の舞台に立たされても無いだろう。
意外でもないが、朝会では山の話は全く出なかったし、昼にはいつもと微塵も変わらない空気に戻っている有様でもあった。ただ、常若は何かの用だかで私とお弁当を共にする事は無かった。
時間はあっという間に過ぎていく。数分や数時間という単位ではなく、今という歴史の中ですらあっという間だ。昨日や明日という単位ですら。心配事や不安を感じるに事書かない今日であっても、それはどうしようもなく一瞬で過ぎる。
だから、翌朝常若が死んだと聞いても、私にはどうしようもなかった。
常若は昨日、遅くまで部活の練習をした帰りに電車に轢かれて死んだという。目撃者の証言では自分から飛び込んだ訳では無く、立ち眩みを起こしたようにふらっと倒れ、運悪くホームに侵入してきた通過列車に上半身を撥ねられたのだと。ホームに設置された監視カメラでも確認が取れた為、事故だと確定している。そうだろう、昨日自分を部活に誘ったような人だ。部活に打ち込み、毎日が輝いている人だった。私のように死にたがったなど、ありえない。
その日は皆、さすがに暗く沈んでいた。
自分と関係無い人ならば、どうでもいいくせに。
私はまた岩飛山に出向いた。今日はこの崖から落ちてみる気にはなれない。あの人が即死せず日が暮れてから凍死に至ったからとか、登る途中に命を大切に、みたいな意味の書かれた看板が新しく設置されていたからとか、そんなせいではない。自分と話した人間が連続で先に死んでしまった。理由としてはそれだけだったはずだ。
人の心というのは面白い物で、どれだけ悲しかったり死にたかったりしても、すぐ近くに自分以上に弱い人間がいたらその感情を引っ込めてしまう。自殺にしろ、事故にしろ、それは私があの時死んでいたら知るよしも無かった現実だ。恨めしいと共に、なんだかんだまだ生きてしまっている自分の歯切れ悪さに反吐の一つも吐きたくなる。
常若の通夜は明後日になった。
会場の寺は学校の生徒でごった返していた。クラスメイトは勿論、部活の面々、試合で一緒になった事がある他校生徒、中学以前の知り合い、先生、親戚、見知った地域の方。私も今まで何度かお葬式に出席した事はあるが、こんなに人が来ているのは初めて見る。後から聞いた話では五百人以上来ていたらしい。
そんな中で、窓の閉じられた棺の脇で目を真っ赤に泣き腫らしたご両親と、弟さんの姿が見えた。参列者一人一人に一言二言、お別れに来てくれたお礼を言っているようだ。悲しみを酷く押し込め、それでも薄く笑顔を讃えたその顔に思わず息が詰まった。
私は居心地の悪さを感じ、香典を渡す時に出来るだけ早く切り上げて帰ろうと思ってしまった。「よく来てくれたわね、常若も喜びます、ありがとうね」そんな事を言われた時に返す言葉を持って居なかった。ちらと弟さんに目をやると、やはり目を赤くしているが視線を下に落とし、香典の管理を淡々としていた。確かまだ中学一年だったはずの彼には、その気持ちを無理にも捌けないのだろう。
私は何だか、彼女の家族以上に悲しむ事は無いのだ、という現実を突きつけられた気分になって遺影もろくに見ないまま逃げるように家へ帰った。
肩に掛けられた塩が、とても虚しく感じられた。
家に入ると焼香の臭いの染みついた制服をすぐに脱ぎ捨て、私は勢いのまま風呂に直行した。少し肌寒いのは気候のせいだけではない。それでも出たての水を浴びたい気分だった。シャワーは一瞬びくっとする程の冷水の後、じわじわと湯に変わって行く。髪から垂れる水滴が床タイルに向かってピントを合わせて落下していく。跳ねた飛沫がびしゃびしゃと耳障りな音に変わり、私に耳鳴りをもたらす。
「人の死を羨ましいと思うなんて」
詰まった息から、自分でも聞き取れない程の声が残響に掻き消える。
そうだ、私は二度も、近しい死人に憧れた。
本気で死にたいとも思っていない癖に、その素振りだけは人に見せて、しかも他人が死んだら羨ましがる。
「浅ましいよ」
呪いの声が自分から自分に言われる。
でも、だからこそこんな奴は死んでしまえと、そう何度も思った来たから、でもそれがこの結果になっているのだから。
また私は、風呂の脇にある剃刀から目を逸らした。そういう「奴」なんだ。清めの塩なんかじゃ、私の死への欲求は落とせない。だから私は、ゆっくり暖かい湯に浸かる事にも罪悪感を持ったりはしないんだ。だから明日も、何食わぬ顔でただの“クラスメイト”として教室のフレスコ画になってやるんだ。
週末ともなる教室は、重い曇り空のせいで灰色の陰鬱な空気が色濃く漂っていた。常若の空の机を遠巻きにして、しかし視線はちらちらと注がれている。イメージとしてはこういう時机に白い花が飾られている物だが、それはどうやらフィクションの世界のお話だったみたいだ。そういえば常若の好きな花は何だっただろう。花の話なんて普通はしないものだ、でももしかしたら、意外と繊細な感じの……淡いピンクの花とかが好きだったのかもしれないな。
私の元へ喋りに来る人間はもう居ない。物言わぬとはよく言うが、それって自分が見て関心を持てたかっていう主観的なお話で、実際に居なくなってしまった人間と、風景として塗り込められている私と、どこまで違いがあるのかなんて解らない。別にこれは、私という一人称でなくたっていい。隣を見れば読書に勤しむ子だって居る。心の中ではそわそわとしているかもしれないし、特別には関係の無い事だから努めて普段通りに過ごして居るのかも知れない。どれだけ関わっていたとしても、その心の内なんて解るには長い時間が掛かるはずだ。それとも、一生解らないかもしれない。解らないが、こうして唇が冷えるような痺れは、少なくとも私だけの悲しみだ。
今日は山ではなく、駅に行こう。そう至ったのは昼食時だった。一応お母さんに帰りが遅れる事を知らせておく。仕事の帰りはそこまで早くもないから送らなくても問題はないだろうけれど、帰宅ラッシュに巻き込まれて遅くなる事も考えておかないといけない。
常若の死んだ駅に。当たり前だが、とっくに元通りのゴミ一つ落ちていないホームは、数日前に伊藤常若という名の人間が上半身を失った場所だとはとても思えなかった。電光掲示板には「まもなく列車が通過します」の文字が流れている。この早さに常若は轢き殺されたんだ、なんて思った所で当事者達はどちらもその時死と向き合う事など考えていなかっただろう。列車は軽めの風圧を残して通り過ぎていった。そして二分もしない内に私を乗せる電車が到着した。行き先は決めていない。何駅か乗ってみて、何となく気になった所で降りて、そこで少し時間を潰してから同じルートで戻りいつも通りに帰る予定だ。
人のまばらな座席はどの位置も座り放題といった感じで、先頭車両には運転手や前方の景色を見ている小学生が二人程いる程度だ。私も小さい時は先頭に張り付いていたな、と思い出しながら適当な場所に腰掛ける。窓がちらほら開いていて空気の篭もった感じがなく気分が良い。窓の外の方は緑が八割を占める中に、豆腐がそびえるが如く工場が白い煙を吐いている、田舎のよくある光景だ。次第に速度を上げ景色が流れ始めると、緑が九割に増え、時々名前も分からない黄色やピンクの花が過ぎ去っていく。時に竹、崖、どう見ても人が住んで居なさそうな古い家。線路は規則正しくタタン、タタン、と真っ直ぐ進んでいく。知らない風景ばかりが伸びて行く。
数駅を乗り過ごし、川を越えた所で駅前が野原という、商売っ気の全く無い場所に着いた。ここで降りよう。
駅は一応北口と南口があるが、それは踏切が遠いという理由でありそうな感じで、改札を出ればそこには舗装の怪しい一車線と民家、そして用途のない原野と言った感じだ。民家は生け垣で壁を作っていて、疎外感やら孤独感を感じるには最適な雰囲気だ。
「降りたは良いけど、ここでどうやって時間潰そう……」
計画は敢えて立てずに来たけれど、あまりにも何も無いとぶらぶら歩いて終了になる。仕方ない、ここでスマホという文明の利器を解禁だ。地図を開いて近くに何があるかを軽く調べると、一件だけ喫茶店があるようだ。そこへ行ってみよう、あまり多くは無いが少し遅いおやつの時間くらいには出来る。少し見ただけだが店の評価も悪くは無かった。
駅からは直線距離で六〇〇メートル程、少し歩くけれども道は真っ直ぐ、迷いようはない。ただ少し日差しがきつく、店に着く頃には汗ばんで息が上がってしまっていた。
ポツンと山間に佇む一件だけの喫茶店は、ドアを開けると程良い涼しさに包まれていた。店内には他に客はいない。
「いらっしゃいませー、お好きな席へどうぞ」
私は窓際の隅っこに座ると、脇にあるメニューに目を通す。地図には喫茶店と出ていたが、看板には軽食と出ていたように、ケーキ類は一つも無く、何やらボリュームのありそうな主食達の文字が躍っている。ここで夕飯を済ませる気はないし、と少し考え込んで出てきた答えはこれだ。
「クリームソーダをお願いします」
「はぁい、ちょっと待っててね」
単品。
しかも小さい時に飲んでそれっきり、着色料がどうとかで神経質に矢面に立たされて、あまり見る事も無くなった思い出の一品だ。コチニールがどうとかも聞いた覚えがある。しかしここはちょっと背伸びをして、ブラックコーヒーとかを頼んでみるものではなかったかな、と後から旅先の羽伸ばしを体現してしまっている自分に気付いて恥ずかしくなった。
目の前の通りはあまり車も通らず、人の往来がそもそも少なそうだけれども、どうしてこんな所に店を構えたのだろうと不思議に思っていると、厨房からイメージ通りの緑色の飲料が運ばれてきた。
「お待たせしました、クリームソーダです」
「ありがとうございます」
ドーム型に盛られたバニラアイス、真っ赤に染められたサクランボ、氷は白く不透明でどう見ても冷蔵庫製だが、欲しかったのはこういうものだ。スプーンで軽く混ぜると、しゅわしゅわと炭酸が弾ける。懐かしさのままにストライプ模様のストローから吸い込めば、強めの炭酸とメロンの香料が鼻から抜けていく。
「ところでその制服ってこの辺のじゃないわよね、どっから来たの?」
客入りがそこまででないから予想はしていたが、やはりこの店主のおばさんは話し好きなタイプみたいだ。
「ん、あはい。片切から来ました」
「ああ、あっちの方ね。この辺何にもないけど、何かあったの?」
店主はあっちの方、を指さしながら確認している。何も無いわけではないだろうが、確かに余所から人が来るような要素はあまりない町に見える。もしかして迷子なり何なりで心配でもされているのだろうか。
「何も無かった……という事ではないんですけど、少し気分転換で普段行かない所に行ってみようかな、って駅を降りてみたんです」
店主はうんうんと相槌を打ちながら聞いている。若い時ってそういう事もあるわよねぇ、と口以上に顔から出ている。
「なるほどねぇ、まぁ見てのとおりおばちゃん結構暇してるから、お話くらい聞くわよ? 大丈夫、こう見えて結構口が堅いから」
これは広められるかどうかは運次第な感じの言い方だ。本当に口が堅い時と、言いふらしたい時、どちらもこの台詞が出る。私は再び迷った末、話してみる事にした。
「でしたら……、つい最近片切駅で人身事故が起きたのは知っていますか?」
店主は眉をひそめ、「ええ」と続きを促す。
「その子が、私の友達だったんです。私、友達って呼べる子が居なくて、その子も友達って呼んで良いのか解らないんですけど、そんな唯一の子が死んでしまって」
そこまで話して、溶けない内にアイス部分を平らげる。ついでに残りのソーダも半分程を一気に飲み込む。アイスの溶けたソーダの甘みが優しい。
「そうなの……でもその子、あなたの事嫌いじゃ無いから一緒に居たんだと思うのよ。これはおばちゃんの経験則だけどね、友達とかって括りじゃ無くても、近くに居る人が落ち込んでたら気になってしょうがなくて、一緒に居たがる人ってのも居るものよ。友達、っていう権利みたいな物に拘っちゃうとね、ちょっとそういうのが解んなくなっちゃうかもしれないけど」
いつの間にやら自分用に緑茶を淹れている店主が、カウンター席に座って話をしている。だがこういった人は、厄介と思うよりも今の時代ありがたい人種なのかもなとも思った。しかしこの語り口には疑問がある。普通なら私は友人が死んだ事により落ち込んだ、と読むはずだが、今の言い分だと友人が死ぬ前から落ち込んでいたと知っていたような口ぶりでは無かったか?
「あの、もしかして常若の事をご存じなんですか?」
「――あら。あらあらごめんね、おばちゃんね、常若のおばあちゃんなのよ。ちょっと若作りしちゃったわね」
ほほほと笑う店主に、私はびっくりするしかなかった。そんな確率あるものなのかと。確かに常若は電車に乗って通学していたけれど、確かここの駅ではなかったはず、となると親が近くに家を構えたから違う駅だったのだろう。
「あの、でしたらここに常若も来てた、んですよね」
「ええ、丁度その席によく居たわよ。あの子、運動部でよく食べるからね。しょっちゅう体重が増えたー、とか言いながらミートソーススパゲティなんかぺろっと食べちゃってたわ」
にこやかに話してはいるが、目の端には涙が滲んでいる。私はあの通夜と同じ感覚が蘇って来たけれど、あの時より幾分心が落ち着いて居る。
「じゃあ、その時に私の事もここで話していたりしたんですよね、何か暗い子が居るって」
「だいたいそんな感じではあったけどね、悪口とかじゃ無いから安心して。ただ心配だったのよ、毎日つまならさそうな顔した大人しい子が居るって」
「はぁ……」
実際その通りだけれども、面と向かって言われると恥ずかしい。どうにも明るく振る舞うとか、笑顔でいるというのは難しいのだ。少しでも顔を冷やしたくて、残ったソーダを全て飲み干してしまった。ストローがからからと音を立てる。
「すぐにいきなり変わるっていうのは、それだけ大きな変化があるって事だからね、それに合わせるのは大変だからちょっとずつで良いのよ。今回は常若が居なくなってしまったけれどね、それもこれからの長い人生の一部で、いつか自分の糧になる経験なんだって受け止められたら、きっと良い方向に変わってくれるわよ」
「本当に全部常若から聞いたんですか? ちょっと……私の事を知りすぎでは?」
店主はいたずらっぽく笑う。ああ、間違い無い、この人は間違い無く常若のおばあちゃんだと確信するに充分に、水分多めの笑顔だった。
最後に、私はクリームソーダのとっておき、サクランボを口に放り込んだ。シロップにしっかり浸かった、甘い甘い味だった。
「では、何だかとてもお世話になってしまって。お会計お願いします」
「気が向いたらまた来てね、お粗末様。はい、五五〇円でぴったり。ありがとうございました。帰り、暗くなってるから気をつけてね、この辺カエル凄いから」
「はい、重ね重ねありがとうございます。また、来ます」
ドアを閉める帰り際、軽くお辞儀をすると店主はひらひらと笑顔で手を振る。何だか帰るのが勿体ないと思えるくらいに、充足している。帰り道が言われたとおりにカエルまみれだったのが一瞬で解ったのもあるけれども。
「常若、あんなおばあちゃんが居たからああいう性格だったんだろうな」
まるで無い物ねだりのような独り言を吐いても、誰にも聞こえない。そもそもそれ以上にカエルの鳴き声にかき消されていく方が数段早い。これくらいの大声を出してもダメなものだよね、なんて。いやでも自分が居るのは井の中だよね。そろそろ出ないといけないな、せめて穴からは。とか自分をカエルの仲間に入れてみたりする道のりは、ここに来た時よりも軽い。
帰宅ラッシュを心配した帰り道ではあったけれど、この駅にその心配は無かったようだ。既に山から下りて来ている湿気で僅かに湿ったホームに人は無く、時刻表を今更確認するとこれが終電一本手前だった。そこまで遅い時刻でもないのだけれども、乗る人も降りる人も少ないとなると次第に通過駅にされてしまうのだろう。帰りの車内からはもう薄暗くて、線路のすぐ脇に生えている長い草しか見えなくなっていた。
「ただいま」
家の鍵を開けても私を迎える声は無い。電気を付けて、鍵をかけ直して、着替えて、まずお風呂を沸かす。それからお母さんの作り置きの料理に私の作る分を足して一食分にする。いつものルーティンだ。先週までならこの何も変わらない毎日に陰鬱として、早くこんな人生は終わりたいと思っていただろう。だけれども今は少し違ってきている。確かに身近な人が死んでしまったというのは、強いショックでしかない。だけれどもそれを自分の生きる糧にしてしまえば良いというお話は、少なくない程に私の人生観を変えうる言葉になった。
けれどこれからは、この気持ちをどうやって良い方向に変えていけば良いのか考えなければならない。言われたようにすぐには無理だ。昨日塞いで居た物が翌日笑顔で明るく振る舞っていたら、近場の病院を紹介されても文句が言えない。そう、だから。まずはあのお店にたまに顔を出す事にしよう。それで足りなければ、岩飛山とは違う山にも挑戦してみればいい。そこで得る知識や経験は、きっと今後にも生きるだろうし、続かなかったとしてもこの健脚の維持には一役買うだろう。
多分、きっと、一歩前に進む事からなんだ。
「いただきます」
今日の晩ご飯は、ちゃんとおいしかった。
これを書いたときは、そっくりそのまま私自身が落ち込んでいた時期で
「何か書かないとどうにもならん」
……みたいな心情でキーを打ち込んでいました。
本当にそのまんまですね、ここまで読んでいただき大変ありがとうございました。