ちょっと他の女とエッチしたくらいで離婚なんてする訳ないじゃない、やぁねぇ 〜現代バージョン〜
「奥様、お話があります」
街を歩いていたら、いきなり見知らぬ女性に呼び止められた。思いつめたような顔で。
いったい何かしら。
「キャッチセールスなら間に合ってるわよ?」
「違いますっ!ご主人のカズタカ様のことでお話があります」
「私はないけど?」
面倒ごとの匂いしかしないわ。
でも私の夫の名前はカズタカだ。人違いではないのだろう。
「私はあるんです!」
引かなそうだし、仕方がない。
「じゃあ手短にどうぞ」
「ここではちょっと…」
すぐ脇の喫茶店をチラッと見られ、渋々頷いた。避けられない事なら手早く済ませるに限る。
奥まった席を彼女が希望したので、そこに案内してもらってコーヒーを注文する。飲む気はないけれど仕方がない。出てくるの早いし値段もたかが知れている。
私を呼び止めた女性は、メニューをじっくり眺めてから季節のデザートとオレンジジュースを頼んだ。
…深刻な話があるんじゃなかったのかしら?
店内にはそこそこ人が入っている。大通りに面しているしお昼も近い。早めに切り上げた方がお店の為にもいいだろう。
「それでお話ってなぁに?」
私のコーヒーが運ばれてきたタイミングで話を切り出した。彼女の注文はまだきてないけれど、お冷があるからいいわよね?
「私…その…ごめんなさい…あなたの旦那様と…」
いきなり俯いて震えだす彼女。じっくりメニューを選ぶふてぶてしさはどこ行った。演技かな?
彼女の声が聞こえたのか、隣の席の人がギョッとしたようにこちらを見た。ニコリと微笑むと慌てて目を逸らされる。
見てもいいけど、露骨には嫌だわ。
「うちの主人がどうしたの?車で跳ねた?それとも詐欺に引っかかって借金でも作ったのかしら?」
だからガン見は無しでってば、隣の席の人。一人でパソコン立ち上げてるから、周りの会話が耳に入っちゃうのはわかるけど。
さっきより強めに微笑むと、彼はグルンと首を正面に戻した。
私の正面では、件の女性が「違いますっ!」とかなんとか叫んでいる。ならもったいぶらずに、さっさと言えばいいのに。
「じゃあ、なぁに?」
綺麗に整えた爪でテーブルをコツコツと叩いてみせた。爪が傷むからあまりやりたくないのだけれど、こういう時には効果的だ。
「私っ!あなたの旦那様と一線を越えてしまって!」
彼女は結構な大声で叫んで顔を覆った。
うん、演技だわこれ。しかもかなり下手な部類の。
その大声は店内に流れる静かな音楽ではかき消せなかったようで、三席離れたテーブルの人が興味津々な視線を向けてきた。なので、にこやかに笑って手を振ってみせた。顔を引きつらせて慌てて同席している人との会話に戻ったけれど、まだこっちをチラチラ見てる。
気持ちはわかるけどやめて欲しいわー。
これって、いわゆる修羅場よね?
まぁ、なんだか彼女は目立ちたいみたいだし、ちょっと付き合ってあげようかしら。たまにはこういうのもいいわよね?
「あら…」
ショックを受けたような声で呟いて頬に手を当てると、彼女は顔を覆っていた両手を外してこちらを見た。その目は嬉しそうに輝いている。
もうちょっと演技頑張りなさいよ。
そう思いつつも、こちらはキチンと演技を続ける。
「そうだったのね…」
悲しそうに呟いて、両手をぎゅっと握ってテーブルの端に置く。そして所在なさげにコーヒーカップの縁を伏し目がちに見つめてみた。夫の裏切りを知り、打ちひしがれている妻に見えるように。
すると彼女は勝ち誇ったような声をあげた。
「そうなんです!一度じゃありませんよ?もう数ヶ月も続いてるんです!……ここ最近は来てくれてないけど………でもでも、彼はふらりと私の部屋に立ち寄ってはご飯を食べて、私の身体を求めて帰っていくんです。月に何度も!もうこれは、夫婦と言っても過言ではないと思います!」
……大いに過言だと思うわよ?
っていうかそれ、ご飯と身体目当てなんじゃ……
しかももう終わってるんじゃ……
聞き耳を立てている周囲のテーブルの人たちも、なんとも言えない表情だ。
……念のため、もう少し喋らせてみよう。
「知らなかったわ…」
これは本当。知らなかったわ。
更に俯いてみせると、彼女は勢いづいた。
「だから、あなたには旦那様と別れていただきたいんです!だって妻は二人もいらないですよね!」
それには同意するわ。
というか、法律上アウトだわそれ。
…あ、とりあえずこれは確認しておかないと。
「…それ…いつ頃からなのかしら…」
弱々しい声で聞いてみた。ふふん!と嬉しそうに胸を張る彼女。
本当、最初のしおらしい演技はどこ行った。
「7ヶ月前くらいからですね!もう新婚さん!って感じ?」
なるほど、やっぱりそういう事なのね。
後半はスルーした。
「彼ったら、休みの日にお出かけしようって何度誘っても「妻がいるから」って断るような、義理堅くて優しい人なんですよ!」
……えっと……ちょっとこんな時、どんな顔をしたらいいのかわからないわ。
笑えばいいのかしら?
「…そう」
弱々しく笑ってみた。
「それにそれに!「今夜は泊まっていって。私の誕生日なの!」…ってすがりついてお願いしても「僕には関係ない」って、とってもクールなんです!」
嬉しそうに言ってるけど、本当どんな顔すりゃいいのよこれ…
「そう……よかった…わね?」
「はい!そんな訳でラブラブな私たちのために奥様には旦那様と別れていただきたいんです!」
残念ながら、私には片方からのラブしか見当たらないのだけれど……
ちょっと返事に迷う。
ノーはノーなのだけれど、ここまで夫からの扱いがアレだとなんて言ったらいいのか悩むわ。流石に少しは手心を加えた方がーー
なんて迷っていた私に、救いの手が差し伸べられた。
当の本人から。
「ふふっ。奥様、私みたいな若くて可愛い子に旦那様を盗られてショックでしょうけれど、奥様だってそう捨てたものでもないわ?よかったら私の元カレ、紹介しましょうか?」
綺麗さっぱり躊躇いが消えた。
上等だ、この勘違い腐れビッチが。
徹底的に叩き潰す!
俯く私の形相を視界に入れてしまった店員が、ヒッと息を飲むのが聞こえた。
こんなリアル・リアリティーショーをチラ見してないで仕事なさいな。
ゆっくりと顔を上げる。
とびきりの笑顔を作って。
「あなたはご存じなかったかもしれないけれど」
さっきまでイキイキしていた彼女は、私の笑みに気圧されたように表情を強張らせた。
「私、妊娠してたの」
「妊娠…してた…?」
さっと彼女の顔から血の気が引く。
「ええ。妊娠中は随分主人に寂しい思いをさせてしまったのではと気に病んでいたのだけれど……でも、あなたが主人の世話をしてくれていたのね」
ニコリと微笑みかける。圧殺するように。
「おかげで具合が悪い日にご飯を作らなくてよかったし、妊娠中で辛いのに「ヤらせろ」なんて迫られることもなかったわ」
変なことでケンカせずに済んでよかったわ。
「主人があなたにいくら渡したかは知らないけれど、それは正当な報酬として受け取っておいてちょうだい」
この感じだと、渡していたとしても大した額ではないでしょうけれど。
「あなたみたいな一途なお嬢さんが相手なら、病気の心配もないから安心だわ」
青ざめたその顔に微笑みかけ
「私の妊娠中、夫の性欲処理を請け負ってくれてありがとう」
しっかりはっきり言い聞かせた。
隣の席の人が「うわぁ」って顔してるけど、ここはきっちりやらせてもらうわ。
「ご覧の通り身体は回復したから、あなたに主人の世話をお願いすることはもうないと思うけれど…」
二つ隣のテーブルのマダム、ニヤニヤしすぎよ?
「そのボランティア精神には感謝しているわ。お礼にここは私が持つわね?」
さっと伝票を引き抜いて席を立った。
今度は演技ではなく震えている様子の彼女を見下ろして優しく告げる。
「世の中には似たようなことでお困りの夫婦が大勢いるでしょうから、今度はその方たちを助けてあげてね」
ダメ押しにもう一度、呆然とする彼女に微笑みかけてその場を後にした。
今夜はちょっと主人と話し合いが必要みたいだから、スタミナをつけるためにすき焼きにでもしようかしら?
いつも悩んでしまう夕飯のメニューもあっさり決まって、良い気分で店を出る。
「ありがとうございましたー」
カラン、と入り口につけられたベルが軽快に鳴った。