サッカーボール
ポン、ポン・・・。
快晴の空の下、田んぼに囲まれた細い道を、小学生の男の子が、サッカーボールを蹴りながら歩いていた。彼の名前は香川蹴介。現在2年生。時折リフティングをしながら、彼はのんびり、のんびり、道を進んでいた。時刻は昼の3時。田んぼは昨日まで降り続いた雨のおかげで、程よく潤っている。彼はここに間も無く植え付けられる稲から、毎日食べるご飯ができるのだということを、つい最近知った。
彼はボールに夢中で気付かなかった。彼の後方から、軽トラックが近づいていることに。道幅は、ギリギリ軽自動車同士がすれ違える程度。決して広くはなく、軽トラックが彼の横を通り過ぎた時、彼は驚いて、ボールをあらぬ方向に飛ばしてしまった。白と黒の特徴的なカラーリングのサッカーボールは、宙を舞い、田んぼにバシャンと飛び込んだ。運の悪いことに、ちょうど真ん中あたり。彼は泥にまみれたそれを、取りに行くこともできず、口をあんぐりとあけて、ただ呆然と眺めていた。
どれくらいそうしていただろう。不意に声がかけられた。
「ヨッ。シュウちゃん。どしたと?」
彼が声のする方を振り向くと、そこに彼の隣の家に住む、チハルが立っていた。ショートヘアをそのままに、化粧っ気もなく、いつも体の何処かにバンソウコウを貼っている。服も何の変哲もないもので、Tシャツにデニムのショートパンツ、スニーカー。彼と同い年の、男勝りな女の子である。誕生日も近く、彼が生まれた時から、ずっと一緒に遊んできた仲だ。
「あ、あの、ボール、飛ばしちゃって・・・」
「どけに?」
「あそこ」
彼が指差す方を見て、チハルは笑った。
「あはは、なあんであんなとこに。もう、下手やなシュウちゃん」
「・・・ごめん」
「いいよ。チハルがとってきたげる」
「あ、あり、がと」
「そんかわり、明日の給食のプリン、分けてね?」
「え?う、うん、わかった・・・」
「やた。じゃ、ちゃっちゃと行こうかな」
蹴介の家はサラリーマン家庭で、農業に縁はなく、今まで田んぼに囲まれた家に住んでいるが、田んぼに入ったことは一度もなかった。もっぱらインドア派で、チハルと遊ぶ時はいつもおままごとだった。対してチハルの家は農家で、米を作っている。チハルも時々手伝うそうで、彼もその様子を見たことはあるが、稲に触れようとはしなかった。彼は虫が嫌いだった。
チハルはおもむろにスニーカーを脱ぎ、両足ともにスニーカーソックスだけの格好になった。
「・・・靴下は?」
「ん?ああ、田んぼってね、意外とハダシじゃ危ないとよ。やけん、長靴履くのがいいんやけど、普通長靴ってないやろ?やけん、その代わりってことで、靴下」
「いいの?それ、汚れちゃう」
「いいといいと。ママに洗ってもらうけん」
チハルはにっこりと彼に笑みを向け、白いスニーカーソックスに包まれた足を田んぼに入れた。チハルの足首の上まで、泥に入った。
「ウー冷た!でもいい気持ち。えーと・・・、あ、あれね」
「うん」
チハルはよいしょよいしょと言いながら、足を泥まみれにして進み、ついにボールを手に取った。高くそれを頭上に掲げ、
「とったどー!」
と叫んだ。田んぼから上がったチハルは、ふくらはぎまで泥まみれ。
「はい、ボール。もう落としちゃいかんよ?」
チハルはボールを彼に手渡すと、彼の頭をポンポンと撫でた。身長はチハルの方が10センチ程大きい。
「うん、あ、ありがとう」
「どーいたしまして。ねね、ちょっとうち、よっていかん?泥おとさないかんやろ?チハルも、足洗わんと」
「うん、じゃあ、そうする」
「よっしゃ、じゃ、いこっ」
チハルは蹴介の手をとり、片手にスニーカーを下げ、裸足のまま歩き出した。しばらくして彼が振り返ると、チハルの足跡が後ろにずっと続いていた。彼は手に持っていたボールを地面に置き、コロコロと転がし始めた。今度は田んぼに落とさないよう、慎重に。
「シュウちゃん、ほんとにサッカー好きやね」
彼はこくりと頷き、また後ろを振り向いた。チハルの小さな足跡と、彼のボールの転がった跡が、並んでずっと続いていた。
おわり




