私の生き方
※注意!!
この小説には、靴下のひどい汚れ、素足の描写が登場します。お読みの際はお気をつけください。
「きおつけ、れい!」
「さようなら!」
「じゃあ、また明日。やすむなよ~。」
高校2年のナオはあいさつを終えるとしばらくして鞄を持たずに教室を後にした。向かう先は旧校舎の教室。今は使われておらず、鍵がかけられている。ナオはその窓の1つが開いていることに気づき、たまにそこから侵入している。
短くしたスカートをひらひらさせて廊下を走る。3階の教室から1階まで下り、そこから長いカーブした廊下を突き当りまで進む。突き当りには靴箱があるが、その手前で左に曲がり、外に出ると目の前に旧校舎はある。渡り廊下などなく、今生徒たちが使用している新校舎と旧校舎の間の10数Mは砂の地面。躊躇なく校舎をそのまま出て旧校舎へ向かう。裏手に回ると後ろは崖。じめじめした苔の生すコンクリートを進むと、古びたいすが置いてある。その上の窓が、ナオがいつも侵入するものだ。椅子に乗り、窓を開けて桟に足をかける。太ももがあらわになる。下着が見えているかもしれないが、誰もいないから気にしない。そのままもう片方の足を上げて、校舎内に飛び降りる。古い木の板の床。所々穴が開いている。暗く、じめじめした校舎内。埃やすすが床にたまっている。蜘蛛の巣もあちこち張っている。そんな廊下を進み、ある教室に入る。ドアはない。
「来てたのね。」
「あの・・・、岡田さん・・・。もうやめよう・・・?」
「何度も言うでしょ?あなたは一生、私にもてあそばれるの。だまっていうことを聞きなさい。」
「だって・・・。」
「うるさいわね!私に何言ってもだめなのよ。さ、今日も付き合ってくれるわね?」
「わかったよ・・・。」
その教室の椅子に座っていたのは、制服をきちんと来た、真面目そうな小さい男の子。ナオと同じクラス。毎週何日か、ナオが彼をここに呼び出すのだ。あることをするために・・・。
「さ、そこにひざまずいて。私を椅子に座らせてよ。いい加減、足が疲れてきたわ。」
「うん・・・。」
男の子は床にひざまずき、ナオは彼が座っていたいすに腰掛ける。大げさに足を組む。たぶん彼には下着が丸見えだろう。
「うっわ~、今日も汚れたなあ。ほら、汚いよお~。」
そういって、ナオは今まで校舎内や砂の上や苔の上を歩いてきた、埃、砂、土、さらには虫の死骸もこびりついた元々白かった靴下の足の裏を彼に向けた・・・。
僕には幼馴染みの女の子がいる。名前は、ナオ。彼女とは幼稚園から高校まで、同じ道を歩んできた。親同士も仲がよく、まるで家族のようにお互い接していた。僕も彼女も一人っ子だったせいもあるかもしれない。
たまたま志望が同じ高校になり、一緒に勉強をひたすら頑張って、2人とも入学できた。それから1、2年生ともに同じクラス。彼女のおかげで女の子の友達も増えた。男の子の友達より多いかもしれない。1年生の冬、ある事件が僕を襲った。
私には幼馴染みの男の子がいる。幼稚園からずっと一緒で、小学校、中学校と同じ学校。クラスはずっと一緒ということはなかったけれど、行き帰りはよく一緒になった。親しげに話してくる彼は正直、うざかった。いつからこんなふうに思うようになったのだろう。小学校ではこんなこと思ったことはなかったはず。楽しく一緒に遊んでいたはずなのに。
高校まで一緒になるとは思わなかった。私の第一志望の高校は、学力もそこそこ高く、家から近かった。部活も盛んで、軽音部に入りたかった。私の住む県内ではその高校にしか軽音部はない。幼馴染みの名前は、まあいいだろう。彼は見た目はおとなしく真面目そうだが、勉強の方は苦手な方だった。中学校のテストではいつも真ん中より下にいた。私の目指す高校は、少なくとも全体の4分の1には入らないといけない。私でもぎりぎりだった。
彼が合格したという知らせを本人から聞いたとき、私は驚きの色を隠せなかった。同時に、また一緒なのかという落胆も襲った。にこやかに合格を知らせる彼の前で、私はどんな顔をしていたのだろう。怒り狂った顔だったか?憎しみのこもった顔だったか?少なくとも、彼は私の本心など、いっこうに気にしていない。さらに同じクラスだと聞いたとき、私は崩れ落ちそうになった。私のストレスは溜まっていく一方だった。彼がうざい。いつも付きまとってくる。私と友達の会話に無理矢理入ってくる。表面上は彼に笑顔を見せている私の友達も、彼のことはよく思っていないらしい。いつかトイレで彼の悪口を言っているのを聞いた。無性にすっきりした。
2年生まで同じクラスだと知ったとき、私は言い様のない重たいものにのし掛かられたように感じた。なんでずっと一緒なの…?なんであんなやつと…。相変わらずにこやかに私の席の真ん前でぺらぺらとしゃべる彼を、私はにらんでいた。自分でもわかる。周りの友達も、励ましの言葉をかけてくれる。家で一人で小説を読むのが、当時大好きだった。
2年生が始まって1ヶ月が経った頃、部活の集まりでいつもより1時間ほど早く登校したところ、私の靴箱の前で彼がなにやらごそごそしていた。何してるの?物陰からこっそり覗いていると、案の定私の靴箱の蓋を開けた。そこから私の上履きを取り出す。そしてそれを鼻の前に持っていき、すーはーと深く息をした。臭いを嗅いでいるのだろう。そのあと、彼は自分の靴を脱ぎ、私の上履きを履いて靴箱の周りを歩き回った。やけに手慣れている。大胆な行動も気にかかる。時刻は7時を少し過ぎた頃。こんな朝早く学校にくる人はいない。先生だって、一番早い化学の先生が来るのが7時30分。なんどもおんなじことをしてきたのだろう。おそらく、ずっと前から…。私は急に足がむず痒くなった。確か彼は水虫を持っているはず。そんな人が履いて歩き回った上履きを、私は履いていたんだ。少なくとも、今彼が履いているのは、2年の始めから洗っていない。毎日臭いをかがれ、履かれていたのだと考えると、鳥肌がたつ。もうあんなの履けるはずがない。もう我慢ならない。いい加減にしなさいよ、あのやろう…。彼が上履きを戻しに来たところで、私は勢いよく彼の前に躍り出た。
いつからだろう、小学校1年生のとき、隣の席の子が、夏場靴下を履かずに登校し、学校では上靴を素足で履いていた。放課後、偶然にも僕の隣の棚にあるその子の上靴に鼻を向けてみた。強烈な、酸っぱい臭いが鼻をついた。それでいて、不快には思わなかった。それから何度も嗅いでいるうち、それが癖になった。女の子の上靴の臭いが、いや、女の子の足の臭いがすっかり好きになってしまった。これが異常なことなんだと気づいたのは、あのときだった。幼馴染み、家族同然。ずっとそう思ってきたナオによって、僕は自分のしてきたことが間違っていたと、思い知らされた。
「なにしてるの?」
ゆっくり、大きな声で彼の背中に語りかける。ぴくっと肩が跳ねる。そして彼はゆっくり振り向く。その顔に怯えの色が浮かんでいた。
「あ、や、これは…。」
「私の上履きに、何した?」
「な、なんにもしてないよ。僕はただ…」
「うそつくな!私はちゃんとこの目で見たんだよ!お前のやったことを!言い逃れは出来ないぞ!」
「ご、ごめんなさい…。どうか、見逃して…。」
「誰が見逃すもんか。おかげで、上履きが履けなくなっちゃったじゃん。」
「じゃあ、あの、新しいものを…。」
「そんなありきたりなことしてもなんにもならないっつうの。うんとね、そうだ、あんた、足の臭いが好きなんでしょ?」
「う、うん…。」
「だったらいいや。毎日放課後、あたしの足、嗅がせてやる。」
「え?」
「ただし、あたしは、上履きがないんだから、足は相当汚れてるわよ?」
「うん…。」
「さ、毎日私の汚れた足を嗅ぐか、それか、あんたのしたことを全校にばらまくか、どっちか決めなさい。一応あたし、放送部には顔が利くの。」
彼は思考にふけりだした。考えることもないと思うけど。でもなんで私、あんな条件だしたんだろう。もともとSの性格はあったらしいけど…。足を汚すなんて、小学校以来?懐かしくなったのだろうか?
「決めた。毎日、放課後、指示通りにします。」
思った通りの答え。私は満足げな顔をして、頷いて彼の前を離れた。少し離れたところから手招きする。私が使っている、秘密の部屋に案内する。
そこは私の入学するずっと前に授業が行われていたという、校舎の教室。もちろん、今では使われておらず、しっかり施錠されている。建前だけは。実際は、私がその封鎖を解いた。1箇所、1階の教室の窓で、がたつくものがあった。ちょいと揺らしてみると、掛かっていた古いネジ式の鍵はあっけなく抜けた。その窓を開け、中に入った。高1の夏のことだ。課外授業の帰り、ふと気になって、中に入ってみたくなった。その当時から、私は真面目な子ではなかった。
上履きがないので、靴下のまま廊下を進み、校舎の端のドアから外に出る。砂の地面を歩き、旧校舎の裏手へ回る。苔の生えた、古いコンクリートの地面。靴下がじめじめとしてくる。それでも構わず進み、問題の窓の下へ。
「ここが入り口。さ、入って。なによ、あんたが先に入りなさいよ。逃げられちゃたまんないからね。さ、私でも入れるんだから。」
彼は小さな体を細い腕でやっと持ち上げ、窓の向こうに消えた。ドタンと彼が落ちる音の後に、ガラガラと小物が落ちる音がする。私が中に入ると、彼は埃まみれの上、頭から段ボール箱を被っていた。辺りには授業用品が散乱している。私は思わず吹き出した。彼も、段ボール箱を脱ぐと笑顔を向けた。
通常はローファーを履いて歩く旧校舎、その中をいまは靴下だけで歩く。気持ちの良いことではない。歩く度に何かしら踏んでしまう。
私が使う教室のドアを開ける。ここが一番片付いていて、人の目につかない。私はいつもこの中の窓際の一番後ろの席に座って物思いに耽る。ある時はテストのこと、またある時は友達のこと。でもはっきりと結論は出ないことが多い。気づくと既に暗くなっていて、慌てて帰宅する。
私がここを靴下で歩いたのは、初めてではない。以前は、高1の冬だった。雪の降る、寒い夜だった。
私は当時、勉強が嫌いだった。今でもだけど、当時はもっと。その日は、テストの結果を持って帰宅していた。旧校舎には寄らなかった。結果は散々だった。両親になど、とても見せられたものじゃない。私は帰宅すると速攻自室にこもり、両親とは顔を合わせなかった。机の椅子に座り、両手にテストの個表を持って、暗い部屋でそれを眺めていると、だんだん瞼が重くなってきた。いけない、寝ては…、と思ったが、私の瞼は、自身でその重さを支え切れなかった。気づくと私は眩しい光の中、肩を揺さぶられていた。
「ちょっとナオ、起きて。ご飯よ。お父さんも待ってるわよ。」
「え?ああ、ごめん、いまいく。」
私が起き上がると、お母さんは机の上にあった紙切れを取り上げた。寝起きの私には、それがなにか、一瞬わからなかった。お母さんがみるみるうちに顔を険しくしていくのを見るうちに、私はとんでもない焦りを抱き始めた。もう、遅かった。お母さんはそのまま私のブレザーに包まれた腕をつかむと、無理やり階段を引き連れ、食卓テーブルに座らせた。部屋で脱いでいたスリッパを履く暇もなく、着替えてもおらず、制服のまま、お父さんと顔を合わせた。元々厳しい父親だった。お母さんが紙切れを見せると、お父さんは黙って目を閉じた。そして目を見開き、テーブルに拳を下ろした。水の入った私のコップが倒れ、テーブルに広がった水がそこから落ち、私のスカートを濡らした。床に落ちた水を踏み、白い靴下も濡らした。お父さんは私を睨み、私は目を逸らした。お父さんの怒号が家を揺らした。入学当初からガクンと成績は落ちていた。両親にはいつも、大丈夫、と言っていた―。
私は耳を塞いだ。その手をずらし、お父さんの平手がとんだ。小さい頃から何度も受けてきた。生きてきて、一番痛かった。私の目は赤くなった。熱くなった。右頬はじんじんしている。出ていけ、お父さんは叫んだ。お母さんは何も言わない。私はもう一度お父さんを睨むと、玄関に走った。その時にはもう、涙は溢れていた。靴も履かず、私は家を飛び出した。外は凍えるほど寒く、雪が降っていた。地面は濡れて、靴下だけの足元はすぐに感覚を失った。途中、家路を急ぐ男の人と何人もすれ違った。誰もが下を向いて、私には気づかない。通りすぎた後には、気づいたかな。
私は走った。叫びながら走った。どうすればいいんだろう。このころ、私は学校でもうまくいかず、親しい友達とケンカしていた。私はそのまま学校に到着し、門を乗り越え旧校舎へ向かった。新校舎にはセコムがついていて、深夜にドアが開くとセコムが飛んでくる。けれど、旧校舎にはついていない。既に調査済みだった。いつものように窓を開け、中に入る。靴下のまま。初めてだったが、気にならなかった。そのまま埃まみれの廊下を駆け、いつもの教室に入る。机に着くと、私は突っ伏して泣いた。いつまでも、いつまでも、泣いた。赤ん坊の時以上に、泣いた。
呼吸が収まると、私は顔を上げた。教室に月明かりが射し込んでいる。雪は止んでいた。黒板の前に誰か立っているのが見えた。目を擦って、もう一度見る。もう何もなかった。なんだろう。気のせいかな。ひどく体が冷えていた。震えが止まらない。私は椅子に掛かっていた毛布を羽織った。…ん?毛布なんて、あったっけ?あったよね。そして、靴も履かず出てきたことに驚いた。今まで気づかなかった。足は震えていた。
私は席を立ち、歩き出した。木の柔らかさを、靴下ごしに感じる。今この靴下、チョー汚いだろうな、などと考え、可笑しくなる。校舎を出ると、私は立ちすくんだ。靴なしで家まで帰らなくちゃいけない。大丈夫かな?まあ、来れたから、いいか。雪がうっすら積もった中庭を抜け、門を乗り越え、アスファルトの道路を歩く。足の感覚はやはりなくなる。ブレザーまでしか来ていないので、恐ろしく寒い。早く帰ろう。足が早まる。その足が自然に自宅に向いているのを、私はなんとも思っていなかった。
途中、鼻水が垂れそうになり、上を向いた。空には星が一面輝いていた。こんなに見えたのは初めてだ。私は言葉を失った。彼方の空を一筋、流星が落ちた。靴下のままで、ボロボロになった姿で、私はそれを見つめていた。私はまた、涙を流していた。
その日、久しぶりに旧校舎を靴下のまま歩いて、こんな過去を思い出していた。彼は椅子に座り、神妙な顔でこちらを見つめている。
「なによ?」
「あ、いえ、何でもない、です…。」
「とにかく、私が指示したら、ここに今度から集合ね。分かった?」
「はい…。あの、上履きは…?」
「いいって、言ってるでしょ?あんたにあげるわよ、あんなの。私は今度から、はだし。」
「いいんですか?」
「仕方ないでしょ?その代わり、罰はたっぷり受けてもらうわよ。」
「はい…。」
その日はそれで彼と別れた。私は靴下のまま靴箱を目指し、埃まみれの靴下を軽くはたいて、帰宅した。私の、お爺ちゃん、お婆ちゃんの家に。あの日、帰宅したのは自宅ではなくこの家だった。両親と顔を合わせられそうもなく、割合近かったこの家に行ったのだ。2人は温かく迎えてくれた。両親にも話して、しばらくの間おいてもらえることになった。それから早1年が経とうとしている。
翌日、私は早速彼に通達した。登校すると、聞いていた彼の番号の靴箱に、知らせを書いた紙を入れる。既に彼は来ていた。帰り際、この知らせを読むだろう。それから私はローファーを脱いで、自分の靴箱に入れ、靴下のまま校内へ進んだ。上履きを履いてない生徒は、ざらにいる。決して私一人ではない。私のクラスにも、一人いる。ヤンキー風の女の子。私は度々突っかかられた。白いハイソックスを弛ませて、軽いルーズソックスのようにし、上履きなしで歩いている。入学当初からそうだったという。靴下は毎日汚れていた。というより、彼女の持ち物は全て、どこか不潔だった。私には真似したくなかった。だから靴下はしっかり伸ばしておく。
私が教室に入ると、彼女のバカみたいに大きな笑い声が響いた。つるむ仲間と、雑談しているようである。よく見ると、仲間の何人かも、今日は白い靴下だけ。3人の靴下族ができている。私もその一人になってしまうのだろうか、いや、なりたくない。誓ったはずだ。もう堕ちてはいけないと。
私は今、先生には優等生として立ち振る舞っている。成績も上の下と言うところ。あれから私は頑張った。もう2度と、こんな事態は起こさない。精一杯の努力をする。地道に私はそれを守ってきた。この日は、移動教室が多かった。おかげで靴下族や私の靴下はすっかり汚れていた。彼女たちは靴下スケートするんだから、やはりそれなりに私の以上だった。
終令を終え、私はすぐに秘密の教室へ向かった。誰も着いてきていないのを確認し、靴下のまま中へ入る。机に座って単語帳を見ていると、ダンと廊下に物音が。少しして、彼は姿を表した。しっかりスニーカーを履いている。制服の着こなしも、きっちりしている。
「きたわね。えらい。」
「逃げても、ムダだしね。さ、何でもしますよ。」
「実は私も初めてなのよ、こんなことするの。さ、そこに座って。」
彼が椅子に座ると、私は机の上に腰かける。彼の顔は下に見える。ゆっくりと、彼の顔の前に、ドロドロの靴下に包まれた足を持っていく。彼は仰け反った。そして、むせた。
「なによ、そんなに?」
「ええ、こんなに。ゴホ、ゴホ…。」
「わー、すごい、こんなに汚れてる。見てよ、ほらあ。」
再び、今度は足の裏を向けて、彼の顔の前へ。一旦話したとこで止め、少し置いてから一気に彼の顔に押し付ける。フグッと魚の名前を呼び、フンフン言っている。面白かった。今日はそれくらいにしといたが、だんだん彼に足を向ける時間は延びていった…。
そして今日に至る。これまで、1週間に一度は彼とこんなことをしていた。不思議と、誰にもばれていない。これがいじめに入るのか、私にもわからない。けれど、彼はどこか喜んでいる風である。
「フガッうう…、うーん…。」
「どう?うれしい?臭い?」
「ああー、いいですよ、臭いですよ。フンフン…。」
最近は彼を床に直接正座させて、私の足をぐいと押し付ける。いよいよ拷問みたいになっている。それでも彼はこのことを誰にも言わない。自分にも引け目があるからだろうか、それだけではない気がする…。 校内を靴下で歩くことにはもうすっかり慣れていた。どんなところでも、今では靴下のまま歩ける。トイレの中でも。だが素足だとやはり嫌悪感がある。なにが違うのかと聞かれたら、上手く答えられないが、心持ちが違うのだろう。それに、より汚れた靴下を、彼の顔に持っていきたいという願望もある。彼もすっかり靴下の虜だ。
ある日、私がいつもより早く帰宅すると、家の中に人の気配がなかった。お爺ちゃんは友人とゲートボール、お婆ちゃんは家にいるはず。私専用のスリッパをはいて、中に入る。お婆ちゃんを呼んでみるが、返事はない。おかしい。玄関の鍵は開いていた。だったら誰か中にいるはずだ。居間、庭、寝室、2階の部屋。どこを探してもいない。トイレ、後は、浴室。脱衣所のドアを開けると、私は立ちすくんだ。洗面台の蛇口から水が出続けている。その下に…、お婆ちゃんはいた。倒れていた。全く動かない。私はすぐに駆け寄り、必死でお婆ちゃんの上半身を抱えた。軽い、小さな体だった。返事はない。幸い、脈はある。急いで携帯電話で119に連絡、3分後に救急車はやって来た。ストレッチャーにのせられるとき、お婆ちゃんの手から何かが落ちた。ハイソックスだった。足の裏がどす黒く汚れた、私の靴下。よく見ると、今だ水が流れ続けている洗面台の中にも、片方の靴下があった。こちらの汚れは大分落ちている。けれど足裏は灰色だ。私は気づいた。いつも靴下は家に帰ると脱いで、制服と一緒に洗濯籠に放り込んでいた。そして私が履くのは、白い靴下―。誰がしてくれていたのか、今まで考えたこともなかった。こんなに汚れた靴下、あれほどまで白くするのは、相当な労力が必要になるはずだ。その仕事を、私はお婆ちゃんにさせていた。あの痩せた体で、お婆ちゃんは毎日靴下を擦ってくれていた。洗面台にある、銀のたわしで―。救急隊員から着いてくるよう言われたときには、私は泣き出していた。歩くのもやっとで、体を支えてもらった。お婆ちゃん、助かって。お婆ちゃん―!ごめんね、自分じゃ何にもしないで、みんなお婆ちゃんにさせていた。部屋の掃除も、ご飯の支度も。全部、全部。私は最悪だ。お婆ちゃんが死んじゃったら、私のせいだ。私の。私はただ泣き続けた。お爺ちゃんが来てくれても、お母さん、お父さんが来てくれても、泣き続けた。わんわん、わんわん…。
手術が終わったのは、日が沈みかけた頃だった。お婆ちゃんは助かった。元々心臓の病気を持っていて、急な発作が起きたらしい。だがまた暫くは大丈夫だと、いうことだった。病室に入ると、体からたくさんの管を出した、小さなお婆ちゃんがベッドに寝ていた。静かな寝息をたてている。手を握って、私は小さな声で謝った。温かい手だった。どんなに謝っても、償いきれない。私はまた泣き出した。その晩は、ずっと、静かに泣き続けた。
翌日は学校がお休みだった。私は一旦家に帰り、お風呂に入るとすぐに病室に向かった。お婆ちゃんは目を覚ましていた。私が入ると、にっこり微笑んで。おはよう、心配かけたね、ごめんね、と優しく語りかけた。私はまた泣き出しそうになった。でも、もう泣かないと決めていた。お婆ちゃんに心配をかけさせたくない。出来ることはなんでもしよう、もう人に頼ってばかりはいられない。
お婆ちゃんは1週間で退院した。自宅に戻ったお婆ちゃんは、嬉しそうだった。私はもう靴下を汚したくなかった。その週の月曜日から、前日に購入していた新品の上履きを履いていた。これまで一緒に靴下生活していた友達、あの男の子、みんな不思議がっていた。けれど私はもう靴下で校内を歩きたくない。お婆ちゃんに負担をかけたくなかった。あの日から、私はご飯を作ったり、洗濯を手伝ったりしている。今まで全くしていなかったことで、手際は悪かったが、お婆ちゃんか優しく教えてくれた。
靴下生活から脱出して2週間、私はとうとう我慢ならなくなった。どうしても、上履きが煩わしい。でも、靴下を汚したくない。どうしよう。このままでは授業に集中できない。いまの私はそれほど困っていた。元々、あの時すぐに上履きを買えば済んだんだ。などと後悔しても遅い。そんなことを考えて翌日も、仕方なく私は上履きを履いていた。席についていると、昨日まで靴下生活をしていた子達3人が、今日は何も履いていない―裸足。靴下も履かず、素足で教室に入ってきたのだ。彼女たちは私に挨拶して、自分達の席に着いた。これならいいのではないか。私は考えた。靴下は汚さないし、上履きも履かなくていい。残された道はこれだった。だが私には素足で校内を歩くことへの嫌悪はある。汚くないかな…。でも靴下も同じことではないか。どうせあの時も、素足の足裏は真っ黒に汚れていた。こうなったら、やりたいようにやろう。私はその場で上履きと靴下を脱ぎ捨てた。談笑していた裸足族は、嬉しそうに私にピースサインを向けてくる。私もそれに答える。これでいい。汚れた足は、帰り際に雑巾で拭けばすぐ終わる。何より、靴下が汚れない。
私はその日から、素足の虜になっていた。だんだん気温が高くなっており、冷たい床が気持ちいい。最初は嫌だったトイレも。裸足族の彼女たちと一緒なら入れた。湿っぽかったが、それほど苦にはならなかった。その後は一人でも堂々と裸足トイレも実行している。すっかり彼を忘れていた。最近は全く彼とコンタクトをとっていない。久しぶりに呼び出してみようかな…。
翌日、一日の授業が終わると、私はすぐに教室を出た。いつものルートで旧校舎に入る。裸足で歩くと、湿った苔が気持ち悪かったが我慢して進み、旧校舎の廊下を進む。やはり直に埃や砂のザラザラを感じるのは若干の気持ち悪さがある。しかし、これもちょっとのことで、いつもの椅子に座った彼を見つけると、そんな沈んだ感情は吹っ飛んだ。それからはいつもと一緒。床に正座した彼の顔に、素足を直接押し付ける。彼は鼻を鳴らす。柔らかくて、きれいですね、彼はいつもより嬉しそうだった。靴下より素足の方が好きなのだろうか?でも、素足も真っ黒ですね、彼に言われて初めて足裏を見た。靴下を履いていた時と変わらない、黒く染まった足の裏がそこにある。でも違うのは、この汚れは一拭きでとれるということ。彼と別れ、靴をはく前に濡らした雑巾で足を拭く。ごしごし擦ると、なんとか元通り。それからきれいな靴下を履き、靴を履いて帰宅する。家に着くと、洗濯籠に脱いでいれる。残念ながら、洗濯は学校があって手伝えないが、お婆ちゃんは、最近汚れが減ったね、楽になった、と喜んでいた。畳んでしまうのは、私の役目である。
そんな裸足生活が続き、夏休みに入る。私は久しぶりに両親の元を訪ねた。あの日と比べ、成績は上がっていた。入学当初の成績も越えるほどであった。お父さんもお母さんも、お婆ちゃんからの話も聞いているのか、全くピリピリしていなかった。戻ってこないか、お父さんが言う。けれど私は断った。お婆ちゃんの手助けがしたかった。最近は元気もよく、ゲームでもよく一緒に遊ぶ。お父さんもお母さんも残念そうだったが。頑張れ、と言ってくれた。2人とも優しい顔をしていた。窓の外には、庭に植えられた向日葵が大輪の花を咲かせている。毎年その顔を見せてくれる、我が家の夏の風物詩である。
旧校舎は夏休み中に取り壊されていた。後にはただ広い土地が残されていた。彼との秘密の遊びはもうできない。だが私はその後もできるとこまで裸足生活を貫いた。10月末くらいまでだったろうか、皆驚いていた。お婆ちゃんは12月、寒い朝に亡くなった。前日までの様子からは考えられなかったが、安らかな死だった。私は間もなく進級する。また暖かくなったら、裸足生活を初めてみようかな、などと考えている。
おわり