07話 メイドの朝
生前、私は朝が苦手だった。
今だから何の気もなく振り返ることができるが、有り体にいえば私は学校でいじめを受けていたのだ。
理由は何だったのか、よく分からない。
ただ、鬱屈とした毎日を過ごしていく中で、一日の始まりである朝を、繰り返す度に嫌いになっていった事は確かだ。
だから、大学受験に失敗したことはただのきっかけに過ぎず、きっとそんな事が無くても近い内に命を断っていただろうと思う。
なにせ、父は大学病院の外科部長で、母は美容クリニックの院長、四つ上の姉は有名医大に通うエリートだ。
出来の悪い自分はいつも針のむしろで、家族にとってのストレスにしかなってなかった。
そして私も、愛すべきはずの家族達の存在が、ストレスでしかなかった。
「……久々に、昔の夢を見たなぁ」
ベッドの中で独りごちる。
日差しは既に少し昇っていて、いつもより三十分は寝過ごしている。
あの人は、いつものようにとっくに活動を開始している頃だろう。
そう思うと、胸のあたりがそわそわしてしまった。
身だしなみを整えて、いつものメイド服に袖を通す。
すっかり見慣れた長い廊下を歩き、初めはその豪華さに面食らった三階吹き抜けの大広間を通って玄関へ。
道中ですれ違うのはルーチンワークを組まれた自動人形ばかりで、同僚の悪魔メイド達はどこにも見当たらない。
大半の仕事が自動人形任せの隣獄では、メイドの仕事も自主裁量だ。
毎朝決まった時間に起きる頭の固い悪魔は、自分以外に一人もいない。そもそも、大半はメイドの格好をしているだけの、ごっこ遊びの悪魔なのだが。
正面玄関を出ると、お嬢様自慢の美しい庭園が目の前に広がった。
名前はよく間違えるが、お嬢様はとても植物に詳しい。城の図書室には、お嬢様のサインが入った地獄の植物に関する書が多く所蔵してあり、二つ名である賢能の一端を伺うことができる。
……現在はフワッとし過ぎていて、その面影はあまり感じられないけれど。
そんな庭園の外周を、機械のようにぶれない姿勢で走り続ける人影がある。
人影は玄関の開閉に気付いていたのか、進路を変えてこちらへ向かってきてくれた。
「おはようございます、ハリーさん」
先にお辞儀をして、彼を出迎える。
「ああ、おはよう。楓」
首に掛けたタオルで汗を拭いながら、彼――ハリーが挨拶を返した。
アメリカ人の血が入っているらしいハリーの髪の色は、むらのない金髪だった。東京の街角でよく見かけた、染髪による紛い物とはまるで違う。
それが、煉獄の日差しを浴びてキラキラと輝いているのだ。
鍛え上げられた筋肉と相まって、思わず目を奪われてしまう。
……駄目だ、駄目だ。
彼はお嬢様の大事な客人であり、悪魔となった私とは既に住む世界が違う存在なのだ。
「今日は少し遅かったな。何か仕事でも?」
ここ一週間ほど、私は毎朝彼の訓練風景を見学していた。
兵士の身体の鍛え方に興味がある――そうハリーに話してみたら、快く受け入れてくれた。
本当は、数十年ぶりに共通の話題を持てる人間と話したかったというのが、本音なのだけれど。
「力仕事なら手伝うぞ。もっとも、君からすれば、子供程度の助力かもしれないが」
「あ、いえ――今日はその、気分です。何となくというか」
「そうか。君にもそういう日があるんだな」
ハリーは会話を続けながら、その場で腕立て伏せを始めた。相変わらず、人間にしては恐ろしく早い。
「君はな。うちの、副隊長に、少し似てるんだ」
「副隊長、ですか?」
「そうだ。リーザという、女兵士でなっ。優れた才能を、持っていた」
会話が難しかったのか、そこで言葉は遮られた。
百回をワンセットとして、腹筋、背筋、スクワットを次々とこなしていく。
一通りの筋肉トレーニングを済ませると、彼は私と同じ階段に腰掛けた。
用意しておいた水筒を手渡すと、気持ちの良い飲みっぷりで、水を飲み干した。
「……さっきの続きだが。リーザは優秀だが、少し実直過ぎる節があった。それは兵士にとって必要なことだが、時に敵に行動を読まれやすいという欠点を生む事もある。もし俺が戦場で相手取るとすれば、アピィのようにぶっ飛んだ指揮官が一番困る」
「そうなのですか?」
「ああ。アピィとは絶対に戦いたくない。あいつは目茶苦茶だ」
ハリーは日頃ほとんど表情を変えないが、ほんの少しだけ目元が緩む時がある。
それがきっと、彼にとっての微笑みなのだろう。
「……話を戻そう。君はリーザと似たところがある。一つは真面目な点。もう一つは、嘘をつくのが苦手という点だ」
「私、嘘なんてついては……」
「リーザが早朝のブリーフィングに遅れる時は、決まって悪夢にうなされた時だった。命のやり取りが多い兵士にはよくある話でな。そんな日は、分かりやすく目の下に隈をこさえていた。君も中々、心配になる顔をしている」
「えっ!?」
慌てて手で顔を覆う。
そういえば、鏡を見たときに少し顔色が良くないような気がしていた。
まさか、そんなに酷い顔だったなんて!
「今日はオフにしておいた方がいい。アピィには俺から伝えておく。魔法の鍛錬も、安全な相手にしておけとな」
「いえっ、ですが――」
ハリーはこの一週間、毎日お嬢様と魔法の練習を行っている。
失敗することはほぼ無いらしいので、魔法行使の際の消耗に慣れることが目的らしいのだが――実際は、お嬢様の遊びに巻き込まれているのが半分といったところか。
初めての時のように凶暴な悪魔に変貌することもある為、以降は護衛として私も付き添っていた。
「良い兵士は、自身のコンディションを保つ術に長けているものだ。いざという時、ベストのパフォーマンスを発揮する為にな。君はアピィの役に立てるような、立派な悪魔になりたいんだろう?」
「うっ……分かりました」
自分が変遷途中の半悪魔であり、修行中の身であることを説明して以来、ハリーは随分と私の事を気に掛けてくれるようになった。
新人兵士の教導役をこなしていた時期があったそうで、重なって見えるのだそうだ。
彼が教えてくれるものは、心構えや鍛錬方法の他に、CQCと呼ばれる軍隊式の近接格闘技がある。万が一、刀を失った状況でも戦えるように、との彼なりの配慮だった。
またそんな真面目なことをして、とお嬢様には窘められたが、私は彼の授業を受けるのが好きだった。
それはきっと、苦痛に思っていた学力を伸ばす為の授業とは、真逆に位置するものだからなのだろう。
「さて、俺はまだ訓練を続けるとする。君はしっかり休めよ」
「あ、ハリーさ……」
そう言い残して、彼はまた機械のようなフォームでランニングに戻っていった。
忙しない人だ。多分、今の隣獄で一番に。
「……もうっ」
こちらの気持ちなど、まるでお構いなしだ。嫌な夢を見たのだから、もう少し誰かと話していたい気分だったというのに。
これでは彼の部下であるリーザという女性も、さぞ苦労している事だろう。
結局その後、昼食時まで寝付くことができず、私はもやもやした時間を過ごすことになった。