53話 契約完了
『……ちっ、だが分かった』
ばつが悪そうに舌打ちすると、へリルメルクが落ち着いたトーンで続ける。
『契約は契約だ。ここから先はお前達の指示にきっちり従ってやる。ただし、敗北は許さんぞ』
「もちのろんよ。このアペルチャイルドの辞書に、敗北という文字は846651ページに載っているわ」
なんでナポレオン的な言い回しまで知ってるんだ。しかも載ってるのか。
沿道で声援を上げる悪魔達を横目に、第二チェックポイントを駆け抜ける。
それまで石畳だったコースが、ダートへと変化した。
オスカルが巻き起こす土煙の向こうに、黒い湖が出現する。
「なんだ? あれは」
「すん、すん……何だか油臭いわね」
アピィの呟きに、言われてみればと同意する。
確かに工業系の工場のような、独特な匂いが鼻をつく。
『機械オイルのようだな。そしてその先に歪な塔ということは……渡れというわけか』
へリルメルクの言葉通り、湖の背後には積み木をランダムに積んで出来たような、ちょっとした高層ビルほどの塔が聳えている。
今にも崩れそうな不安定さだが、あれの頂上でラフィーナが待っているのだ。
「メルク、渡れそう?」
『飛べば何のことはないが、足の短いこの身体では不利だろうな。姿を変えるぞ――おい人間』
へリルメルクが、一瞬思案したのが分かった。
『このレースはお前が受けたのだろう? ならばお前が考えろ。眼前の黒濁とした湖を渡りきり、あの小生意気な人形を抜き去る速度を誇る獣――いや、獣でなくたっていい。それを思い浮かべろ。僕が再現してやる』
その言葉は、まさしく悪魔の囁きだった。
「――再現? 俺の考えたものをか。元帥殿、本当にそんな事が?」
『疑うのか? 僕を誰だと思っている。我が名はへリルメルク、支配と忘却の■■なり』
最後の方は、ノイズが掛かってよく聞き取れなかった。
彼が今、何と言ったのか――気にならないわけではないが、心中はもはやそれどころでは無い。
「あらハリー、中々良い笑顔じゃない。見たことないぐらい、口元だけがにやけてるわよ」
「おっと」
アピィの指摘に、慌てて口元を覆い隠した。
どうにもこれを考える時だけは、自分が自分ではなくなってしまう。
治すことのできない、悪い癖だ。
「しかし、そいつはクールだ元帥殿。悪いがもうクーリングオフは受け付けないぞ」
『クーリ……なんだそれは?』
そう聞き返すへリルメルクは、アピィやラフィーナと違って人間文化に疎いらしい。
それならそれで、こっちとしては都合が良い。
「契約完了って意味さ」
自分の運転は少々荒っぽいが、彼には諦めてお付き合い頂くとしよう。
中継ドローンによる空撮映像が、新たなステージを視界に捉える。
たった二日でどうやって用意したのか、直径数キロはありそうな広大な黒い湖は、実況の解説で全てオイルであることを知った。
先頭を走る金色の人形の愛馬が、重く揺らめく波打ち際に足を踏み入れた。
さすがに速度も鈍るであろうと考えた予想とは裏腹に、なんとその蹄はオイルに沈むことなく軽快に走り抜けてみせた。
まるで忍者のようなその光景に、会場からもどよめきが漏れる。
そしてそれもまた、実況の解説によってラフィーナの超技術が実現した驚異の撥油効果であることが告げられた。
あの魔女は気軽に凄いものを作り過ぎだと思う。
「うーん、ほんとに大丈夫なんでしょうか……」
コース内容を決めたのはオスカルだと聞いた。
しかし実際にコース制作を指揮したのは、ラフィーナの側近である、あの執事人形らしい。
であれば、一応は公平に勝負できるようになっているはずなのだが……。
(メルクちゃんが空回りしてるのを除いても、やっぱりオスカルの動きに淀みがなさ過ぎるんですよねぇ)
開始直後の閃光手榴弾による奇襲を除けば、オスカルは一切足を止めていない。
いくらお嬢様がついているとはいえ、彼女は必ず契約を守る御方だ。自身の直接攻撃禁止というルールは破らないだろう。
これ以上離されるのはまずい――と。
「おい、何だあれ?」
「ゴーレ厶か? あの豚はどこいったんだ?」
ぶ、豚……。
バクを知らない悪魔達にはそう見えるのか。
メルクが聞いたら絶対激怒するだろう。
そんな事を思いながら、観客達の呟きを確認しようとモニターの画面端へと視線を移す。
「えっ――あれって、まさか」
画面端から怒涛の勢いで追い上げてきたのは、ダークブルーの迷彩塗装を施した、鋼の異形。
器用に交互に動く八脚がうまく荷重を分散するのか、オイルの湖にも関わらずまったく速度を緩める様子がない。
あの動きは、自然系のドキュメンタリー番組で見たことがある。タランチュラだ。
巣を張って待ち構えるのではなく、機敏な動きで獲物を捕らえる獰猛なハンター。
「メタル・ブルーム……」
何をどうやったのか知らないが、あれはハリーだ。
いつも冷静な彼が、あれほど信頼を寄せる兵器なら――きっとオスカルにも勝てる!
「頑張れー! ハリーさーん!」
届くと信じて精一杯の声で叫ぶ。
私に出来ることは、ここから三人を応援することだけなのだから。




