03話 シリアルを掛けよう
「……一体、なんて魔法なんだ。話ぐらいは聞いてもいいが」
「ありがとう。良い子ね、マイクロチップ」
「サイノプスだ」
もはや原型が残っていない。
アペルチャイルドが指をスカッと鳴らす素振りをすると、楓が再びホワイトボードを用意してきた。
鳴らせないのに、何故やったのか。
図解には、下に地獄、上に煉獄があり、煉獄にほど近い所に隣獄が記されている。
「そもそも何が問題なのかと言うとね。隣獄も、元々は地獄と煉獄の中間辺りに浮いていたのよ」
「ふむ」
「浮いてる原動力なんだけど、住民である私達悪魔の緩さよ」
「おい」
真面目に聞こうとした俺が馬鹿だった。
「ふざけてるのか!?」
「ガチよ。だからちゃんと聞きなさい」
怒られてしまった。
俺が悪いのか?
「この世界は、私達がフワッとすれば上昇するし、シリアスになると下降するわ。そういう風に作ったのよ。理由は思い出せないけど」
「何故そんな妙な世界を……。いや、それ以前に、作ったのは君なのか?」
「基礎は私だったはずよ。仕組みは別の子だったと思うけど、最近私もフワッとし過ぎて思い出せないの」
記憶までフワッとしてらっしゃる。
「私も初めて聞きました……。色々緩いのも、理由があったのですね」
それで納得してしまう楓は、きっと大分毒されているのだと思う。
「で、この世界は煉獄を太陽の代わりにしているのだけど。最近やたらくしゃみが出るなと思って空を見上げたら、飛んでいけそうな距離にまで煉獄が近付いてるじゃない? あ、ちょっとまずいなって」
「その辺の軽さが問題なのでは?」
こいつ等は普段、空さえも見ないのか。
「煉獄の炎は、浄化の炎。私達悪魔があそこに突っ込んだら、さすがに熱いじゃすまないわ。だからちょっと皆をシリアスにして、隣獄を下降させる必要があるの。そこで私のとっておきの魔法の出番というわけよ」
「なるほど。滅茶苦茶だが理屈は分かった。で、何て魔法なんだ?」
「反創成魔法シリアルよ」
ひどい名前だった。
「緩い悪魔にシリアルをかけると、カリッとした悪い子になるわ。例えばそれは、ヒーローショーに夢中の子供たちの前で、悪役がヒーローの被り物を引っ剥がすような――そんな悪のプライドを取り戻す、恐るべき魔法よ」
効果もひどい。
「本当にその魔法、俺にしか使えないのか……?」
自分だけが扱えると聞いて、高揚感を全く感じなかったわけではない。
が、今はそれを後悔している。
「この魔法は、使い手のシリアス度によって効果が変わるわ。今の私達にシリアス度があると思う?」
「何も言えんな」
多分、マスコットキャラクターの域に足を踏み込んでいる。
「だからといって、俺もそんなにシリア……いや、ハードボイルドな人間というわけではないと思うが」
「そうかしら? 楓、ちょっと彼の半生を聞いておあげなさい」
「私がですか? 構いませんが……」
何故か、自分の人生を語る羽目になっている。
やむを得ないので、少し離れた場所で任務のことをぼかしつつ楓に説明した。
飛び込み自殺をするほど追い詰められた少女に対して、自分なんかの半生がどれほど重たいというのか――。
一通り説明し終わった時には、楓の黒真珠のような瞳から、ポロポロと涙が溢れていた。
「受験失敗で自殺なんかしてすいませんでしたぁ!」
何故か全力で謝罪された。解せん。
「というわけよ」
「納得いかん」
暗に、人間世界で指折りの重たい人間だと突きつけられたのだ。
理不尽にも程がある。
「いかがかしら? あなたにとっては迷惑な話だろうけど、割と本気で困ってるのよ。助けてくれると嬉しいのだけど」
「うーむ……」
自然と腕を組み、唸っていた。
荒唐無稽な話だが、筋は通っている。
加えて、アペルチャイルドの話を信じるならば悪事に加担するというわけでもない。
元人間である楓の様子を見る限り、この世界の悪魔達は大して邪悪な存在ではないのだろう。
拷問から救ってもらったし、怪我まで治してくれた。
気に掛かるのは、生存している以上、己の務めを果たさねばならない点だが……。戦時中において、一ヶ月以上も音沙汰の無い兵士を上層部がどう判断しているかは、火を見るより明らかだ。
つまり、恩を返す程度の時間はある。
「……この世界を救った後、俺はどうなる? 元の場所に戻れるのか?」
「もちろん、望んだ場所に戻してあげるわ。戦争とは無縁の、平和な土地に送ってあげてもいい。それぐらいはサービスでやってあげる。それどころか、私に叶えられる範囲で、あなたの望みを一つ叶えてあげるわ」
「至れり尽くせりだな。途端に怪しさが増したぞ」
「悪魔は契約にこだわるものよ。普通は人間の方から悪魔に縋るから、こっちが有利な契約になるよう騙したりもするけど……今回は逆だもの。裏表なく、契約を履行するわ。最後に魂を寄越せなんて、このアペルチャイルドの名に於いて言わないと誓いましょう」
じっ、とこちらの瞳を覗き込んでくる。
琥珀のように透明で美しい、金色の瞳だ。
この瞳を疑うほど、俺の心は荒んじゃいない。
「……いいだろう。君達には恩もある。兵士として、俺にできる事をしよう」
決断し、右手を差し出す。
利き腕での握手は、誠意の証だ。
アペルチャイルドの幼い顔立ちが、喜色満面に綻んだ。
真っ白で小さな両手が、右手を柔らかく包み込む。
「ありがとう! えーっと、何だったかしら、サイ、マイ……」
「ハリーだ」
「えっ?」
「名前だよ。ハロウド=ダグラス。親しい友にはハリーと呼ばれていた。まさか、自分がポッターになるとは思わなかったがな」
あの小説の主人公も、最初はこんな気持ちだったのだろうか。
戸惑いと、後悔と、興奮と、そして希望。
この任務を完遂した時、自分を褒めてやれると良いのだが――。
「ハリーね! 短くて素敵だわ。サイなんとかは覚え辛いんだもの」
「たかが五文字じゃないか。君よりはずっと短いぞ」
「ふぅん、それもそうね。じゃあ、私の事はアピィでいいわ。それで決まり!」
「アピィか。それなら、まぁ」
随分と呼びやすい。
くるくると踊ってひとしきり喜びを表現すると、アピィは何かを思いついたようにピタッと動きを止めた。
「そうだ、宴をしましょう! これから隣獄を救うんですもの。英気を養う必要があるわ! 具体的にはマシュマロパーティーよ! 楓、行くわよ!」
「かしこまりました、お嬢様」
嵐のような勢いでアピィは部屋を飛び出していった。
マシュマロパーティーとは、何だろうか。
物思いに耽っていると、楓がこちらへ向き直り深々と頭を下げた。
「私共をお助けいただき、ありがとうございます。ハロウド様」
「人間なら、困った時はお互い様だろう。それと、君もハリーでいい。様もいらない」
「ですが、私はお嬢様の従者ですので……」
「さっき話したろう。俺は様なんてつけられるような、上等な人生を送ってきちゃいない。正直、違和感しかなくてな」
「……かしこまりました。では、ハリー……さんと」
楓の語尾は、気恥ずかしさからか、わずかに上ずっていた。
それが、彼女にとっての精一杯ということだろう。
「ああ、それでいい。よろしく、楓」
そういうと、楓は僅かに顔を綻ばせてくれた。
出会ってまだ短いが、彼女の笑顔はとても心地良い。
「はい。よろしくお願いします、ハリーさん」