23話 賭け
――その日の夜。
精神的、体力的にもすっかり疲れ果てた俺は、夕食後に泥のように眠りに落ちた。
戦場で味わう疲弊とはまた違う、充足した疲労と呼べばいいのか。
少なくとも、それを嫌なものだと感じる自分はいない。
ふと目を覚ました時には、時計の長針が四周もした後だった。
窓際の分厚いカーテンの隙間からは、深夜を回っても上がり続ける静寂の魔法花火の鮮やかな光が、薄っすらと差し込んでいる。
城から見るパークの夜景は、どんな景色なのだろうか。
立ち上がり窓際へ近づくと、ゆっくりとカーテンを開けた。
「あ、ダーリン! やっホー!」
「…………」
俺はそっとカーテンを閉めた。
「閉めなイでよ! ひドーいっ」
ドンドン、と窓ガラスが叩かれる。
なんで居るんだ。
やむ無く鍵を外し、窓を開ける。
そこには眩い花火に照らされる、愛と笑顔の魔女の姿があった。
バルコニーの上にでも立っているのかと思ったが、どうにもハート型のオブジェに乗って空を飛んでいるらしい。
魔女というのは人を驚かせるのが趣味なのか。
「ラフィーナ……。何してるんだ、こんな所で」
「いやァ、ダーリンに会えるかナーと思って、ズっと待ってタんだよ」
「……4時間もか?」
「うン。正確には4時間12分38秒だネ。何度も心が折れかケたけど、待ってテ良かったァ」
「アグレッシブなのか奥手なのか、どっちなんだ」
とはいえ、少しばかり悪い気もしたので、ラフィーナを部屋に招き入れた。
「わァ……男の人の部屋に、初めて入っチャった!」
「いや、ここは君の城だろう」
「……ダーリンって夢がナいなぁ」
頬を膨らませて、ラフィーナがプイッと顔を背ける。
が、割とよく言われる言葉なので自分としてはダメージは少ない。
「それで、どうした? 4時間も待ってたんだ、何か話があるんだろう?」
「うン。実は昼間の事で、ちょっト相談があって」
「例の、シリアルを受けると記憶を失うという点か?」
「そうソう。……本音を言うとネ、ボク個人はあまりシリアルを受けたくナいんだ。他の悪魔達ト違って、ボクは特殊でサ。隣獄に来る前の記憶が一切残ってナいんだ。みンなはぼんやりと、過去ノ事を覚えテいるノにね」
「それじゃあ……シリアルを受けると、完全に記憶がリセットされてしまうのか?」
「残念ながラそうなルね。千年掛けて積み上げテきた記憶を失ウのも勿論辛イけど……そレ以上に、また自分が空っぽにナってしマう事が怖くテさ。次ノボクが、再び笑顔のラフィーナで居れルかどうか――不安はナいと言ったら、嘘になルよ」
寂しげにラフィーナが俯く。
隣獄の悪魔達の脳天気な姿ばかり見せつけられてきたが、大小の差はあれど誰にだって悩みはあるものだ。
しかしアピィが言うには、六人の魔女にシリアルを掛けるのが最短で隣獄の上昇を止める手段であるらしい。
昼間見たラフィーナの魔法で再認識したが、それだけ魔女の力は強大なのだ。
ラフィーナ自身も、その運命を変えるのが難しいことは理解しているはずだ。だからこその悩みなのだろう。
「……何か、記憶を維持する方法はないのか?」
「あるヨー」
「そうか、あるわけな――あるんかい」
一瞬真面目に考え込んだ徒労を返して欲しい。
「ダーリンは悪魔ノ契約って知っテるかな? こう見エても、ボク達悪魔は意外と真面目デね。契約で決めタことは絶対に守らナきゃいけなイんだ。それを利用すレば、全部は無理でも一部ノ記憶は残すことがでキるはズだよ。例えば――」
そこで、彼女は静かに深呼吸をした。
「……例えば、ボクとダーリンとで、こンな契約を交わせばいいんダよ。汝、健やかナるとキも、病めルときも――ってサ」
静寂の中で、カチリと瞳の奥の歯車が回る音がした。
それはきっと、ラフィーナにとっての心臓の鼓動なのだろう。何故だか、そう思った。
「……それは、結婚の誓いじゃないか」
「そうダよ、結婚。……しタいな、キミと。忘れたクないもの、好きナ人の事」
「案外、ずるいな」
「あははっ、悪魔だカらね」
無邪気な笑顔が、花火の光に照らされる。
出会ってから僅か半日。
それでも、自身に向けられるその愛が、半端なものだとは思えなかった。
彼女は疑う余地もない程に、正しく愛と笑顔の魔女なのだ。
「……さて困った。悪魔とはいえ、女にそこまで言われて、無碍にはできん」
「そ、そレじゃあっ」
「まぁ落ち着け。こっちも人生を捧げるんだ。自分の決断に納得はしたい」
そうだ、納得だ。
納得しなければ、俺は前に進めない。
いつだって、どんな任務だって、それだけが自分にできる唯一の意思決定だった。
最初から仕組まれたレールの上で、いつか訪れる真っ暗な安寧だけを信じて、しぶとく生き続けてきた人生だ。
ラフィーナが一つの終わりをくれるというのなら、その手を取るのもいいのかもしれない。
「俺と賭けをしないか、ラフィーナ」
「賭け?」
「なんだっていい。君が用意したゲームに、俺が……いや、俺達が勝ったなら。魔女としての務めを果たし、素直にシリアルを受けてもらいたい。だが、もし君が勝ったなら――その時は、俺が責任を取る。君の不安を和らげる、一枝の支えになろう」
こちらの申し出に、ラフィーナは面食らったように目を見開いた。
なにせ、魔女を相手に身の程知らずの啖呵を切る愚か者だ。千年間かけても、出会ったことはないだろう。
「……いイの? ボク、本気だヨ?」
「構わない。だが、こっちも本気だ。手段は問わず、全力でいくぞ」
アピィはまだしも、楓は怒るだろうか。
それでも、彼女達の力は必要になる。この隣獄において人間一人の存在など、吹けば飛ぶような戦力でしかない。
何より、ラフィーナの協力には隣獄の存亡が掛かっているのだ。最初で躓くわけにはいかない。
「……それも、嘘じゃないンだね。いい男だなァ、キミは。もっとモっと、好きになりソうだよ」
細めた目は、どこか遠くを見ているようだった。
「――丁度、パークで困ってる出来事が三つあルんだ。それを解決できレばダーリン達の勝ち……といウのはどうかナ?」
「いいだろう。それともう一つ。俺は今、アピィ達に力を貸すという契約中だ。どんな結果になっても、それだけは最後まで全うさせて欲しい」
「もチろん、そこは邪魔しナいよ。キミの愛が手に入るのなら、ボクは他に何モいらないと誓おう」
ふわりと、ラフィーナが宙を舞う。
開け放たれた窓から夜闇へ躍り出ると、そこでこちらを振り返った。
「今日はこレで帰るよ。詳しい話は明日、みんなの前で説明スるね。……あ、ソれとダーリン」
「なんだ?」
ラフィーナがこちらを手招きする。
誘われるままに窓へ近づくと、ラフィーナの細い指先が自分の顔を手繰り寄せ――頬に、口づけされた。
「……これは、賭けの前金だヨ。じゃあ、おやすミなさい!」
頬を赤く染めて、ラフィーナは逃げるように飛び去っていった。
彼女が通り過ぎた軌跡から、色とりどりのハートが淡い光を放ちながら溢れてゆく。
ふと、幻想のようだったあのパレードの光景を思い出した。
「……本当にもてないのか、あいつ」
柔らかな感触の残る頬に触れ、一人呟く。
悪魔達の見る目が無いのか、はたまた感性の違いなのか。
だが、ラフィーナには悪いがわざと負けてやるわけにはいかない。
任務は必ず遂行する。それが、何もない自分に誇る事ができる、たった一つの矜持なのだから。