”悪”
そもそも”必要悪”とは何なのか。
善悪の判断によれば悪に分類されるものの、組織的、社会的にやむを得ず必要とされるような物事を指すその言葉。
では、その規模をさらに拡大し”世界”に対する”必要悪”とは、はたしてなんなのだろう。
例えば、”災厄”は様々な天災を引き起こす力を持つが、それが無ければ果たしてどうなるのだろう?
無論、ない方がいいに決まっている。ところが、これにより全く得がないのかと言われると、実はそうではないのだ。わかりやすいのは”洪水”、それを引き起こす”大雨”だろうか。
日本の農業、漁業が豊かなのは、降雨量が多いが故だ。
だからこそ、見方を変えれば”災厄”たる彼女を日本人のみならず、人々は神の御業として畏れ、あがめたのである。
”混沌”は、いわば抑止力。
何に対する、と聞かれれば、”人類”である。
食物連鎖という自然の理がある。これにより、全ての生命は均等にめぐるようになっている。
ところが、人はこれに当てはまらない。いや、あてはまるのかもしれないが、それでも単純に「ここだ」という位置にいないことは確かだ。最早、人類に対する脅威はさほどないのかもしれない。
その一強状態を緩和するための抑止力。それが”混沌”であった。
”混沌”は人の心に入り込み、そして煽る。時には欲望を刺激し、劣情を引き出し、理性を溶かす。そうして他ならぬ人間同士で争わせ、数を減らしバランスを保っているのだ。
そう、世界にとっての必要悪。それは、均衡を保つための役割に他ならない。
”混沌”の話はそう簡単に「はい、そうですか」と言えるようなものではなかった。
あまりにもひどい極論、暴論だからだ。
”災厄”の役回りについての説明は、まだ理解できる。しかし”混沌”に関してはそうはいかない。
カルマからすれば、その所業はは最早外道どころではない。常に戦争のない世界を望んでいた日本人であったのだからなおさら。
「さて、今の話を聞いて”空虚”、カルマはどう思った? きっとこう思ったことでしょう。 『この外道、人外め』、と」
そう思ったのを見透かしたかのように。カルマの前で干し肉を持ったままの”混沌”が言った。
その言葉には棘があったが、しかし彼女の瞳には怒りの感情も、悲しみの感情も浮かんではいなかった。あるのはただ、こちらをからかうような、そんな感情。
「それに対する私の答え。 「当然でしょ? だって人じゃないもの」」
「なっ!?」
「アハ♪ なに驚いてるの? 姿かたちを自在に変えられる人間がいるとでも? 心に入り込み、争いを誘うことのできる人間がいるとでも?」
その言葉は正論だ。
間違いなど存在しようはずもなく、更には、それは元より知っているはずの事であった。
”混沌”が歩み寄る。
そしてカルマの耳元に顔を近づけ、囁いた。それは蜜のように甘い声で、ねっとりとカルマの心にまとわりつく。
「あなたも同じ‥‥‥ 私達と同じ存在になった時点で、もうあなたは人間じゃないの。 分かる? あなたは私と何も変わらない。 ”人外”なの」
「それでも‥‥‥‥それでも俺は、お前とは違う!」
「何が‥‥‥? ああ、ひょっとしてやっていることの違い、とでも言いたいの?」
”混沌”の囁きに、今までとは明らかに違う感情が混じる。それは侮蔑。
彼女はただ語り掛けているだけだというのに、その見た目は自分よりも幼い、幼女の姿だというのに、カルマはまるで俎板の鯉のように指の一本さえも動かすことができない。
「あなたの所業‥‥‥‥ これからやろうとしていること‥‥‥‥ 人から見たならばともかく、悪魔からすればどうなの? ほら、ね? ”対象”が違うだけ。 私と何も違わない」
知らぬが仏というのはきっとこういう事を言うのだろう。
カルマは気づいてしまった。最早自分は人ではないという事に。
気づいてしまった。自分がどうしようもない”悪”だということに。
”混沌”は用は済んだと、言うだけ言った後に立ち去った。
カルマはその後、簀巻きにされ荷台に転がされていたソフィアを解放した後、何があったのかをぼかしながら説明した。
”混沌”の正体などを話してしまえば、当然自身のことも話さねばならない。結局、「自分を目当てに襲ってきた正体不明の人物」という説明になった。
以前自己紹介をしたとき、ちゃんとした説明をしない理由として「面倒だから」などと言っていたが、本心は「人外だという事から目をそらそうとしていたから」だという事に、この時初めて気が付いた。
ソフィアは少し怪しむような、そんなそぶりを見せたが、しかし最後にはその穴だらけの説明で納得してくれたようだった。
その後、また襲われるかもしれないからと休憩を早々に切り上げ、また馬車での移動を再開した。
今はソフィアが荷台に乗り、カルマが御者台に座っている。
見様見真似ではあったが、なんとか形にはなっていた。本来であればソフィアが横にいればそれが確実だったのだろうが、彼女に任せっぱなしというのは流石に気が引けたし、何より、彼女の前でいつも通りの自分を演じられるかどうか怪しかったからだ。
「悪、か」
おかしな話だ。
自身を、死者をもてあそぶような真似をした悪魔を皆殺しにするという”正義”、そして、単純かつ明快な目標の元、突き進んでいくだけのはずだった。それに今は似た目標を掲げる仲間もいる。
だというのに、”混沌”にその行為は”悪”に他ならぬと断じられた途端、罪悪感を覚えた自分がいた。
「これが”必悪”の定め‥‥‥‥”災厄”の言っていたことは、このことだったのか」
”災厄”は言った。「”必悪”は誰かに憎まれる定めにある」と。
”混沌”が人に憎まれる存在であるとするなら、”空虚”・カルマは、悪魔に忌み嫌われる存在なのだろう。
「なんだかなぁ」
「だから何だ」。
そう言ってしまえばそれまでなのに、それができない自分は女々しいだろうか?
カルマはぼんやりと、そう思うのだった。
「あの少女‥‥‥一体何者?」
誰に言うでもなく呟いた言葉に、当然答えは返ってこない。
少女、とは、”混沌”のことだ。
カルマは言うのを避けていたし、深入りすることはしなかったが、それでも気になるのは当然の事。何せ仮にも騎士として武術の心得があるソフィアを、何でもないように拘束したのだ。
それだけではない。
ソフィアははっきりと見ていたのだ。あの少女が自身と同じ姿へと変身する所を。
「あれは魔法? いえ、あんな魔法は聞いたことがない‥‥‥‥」
魔法は確かに存在する。しかし、姿形、果ては声音まで完璧に模倣する魔法など、聞いたことがない。
自身では手も足も出ない力を持ちながら、魔法とも違う”何か”を使う得体の知れない存在に、ソフィアは僅かに恐怖を感じていた。
しかしそれと同時に、その少女の事を知っているらしいカルマの正体について疑問が浮かぶ。
そもそも少女との関連性を抜きにしても謎の多い人物だ。
大帝国のことを知らなかったことは、古い国なのだし無理はないことかもしれない。だが、知っていて当然のことですら、いくつか知らない様子だった。例えば会話は問題なくできるのに、文字が書けない、等。
カルマという名前と言い、今無き国に関連する金貨を持っていることといい、魔獣相手に素手で戦う事さえできる力といい。ただ者でないことは間違いない。
しかし、最も重要なことは、それを踏まえたうえで、彼と共にこれから共に旅をすることに問題がないかということだ。
大帝国にゆかりある人物であるならみすみす放置はしておけないし、悪魔と敵対することはさけられない自分にとって、悪魔を憎み、それを殺すだけの力を持つ人物が協力してくれることは素直にありがたい。だがそれ以上に不確定な要素を持つ以上、カルマを完全に味方だとすることはできない。少なくとも現時点では。
「一番は、カルマが自分からそのあたりを話してくれることだけど」
それは難しいだろう。
特に今は、あの少女に何か言われでもしたのか、思い悩んでいる様子だった。それを抜きにしても、話したくない秘密というのは生きていれば1つはできる。
ソフィアは自身の眼帯に触れる。
その下にある物こそ、彼女にとっての「言えない秘密」だ。
あるいはその秘密を明かし、自分から歩み寄るべきなのだろうか。そうすれば、カルマも自身の秘密を明かしてくれるだろうか?
「いや、その確証はないか」
今はただ、カルマが何かしら行動に出るのを待つしかない。まだ二人は出会って日が浅く、互いの秘密を共有するにはいささか早すぎるからだ。
日が沈んでいく中、2人を乗せた馬車は目的地が見える場所にまで近づいていた。
薄闇に包まれた世界は、今の二人を包む空気を暗示しているかのようでもあった。