プロローグ
時刻は丁度昼頃、カルマは馬車に揺られていた。
この一頭立ての二輪の幌馬車は、何と村人たちが救ってくれた礼にと無償で送ってくれたものだ。しかもソフィアによればかなりの良馬らしく、旅立ちの時にこれを見せられて時は随分とうろたえていたものだ。
とはいえ、急いでいたことに間違いはなく、移動手段が手に入ることは素直にありがたかった。
もらえるものは素直にもらっておくべき。結局は、荷台に作ってもらっていた保存食(さほどが自身の手で手に入れた干し肉)と水をありったけ詰め込み、笑顔の村人たちに見送られてシダ村を後にしたのだった。
さて、カルマは前世でも一度も乗ったことはない、初の馬車なわけだが、その乗り心地はと言えば‥‥‥‥最悪の一言だった。
前世の車のシート程とは言わないが、もっとましだと思っていた。だが蓋を開けてみればどうだ。
ちょっとした石を踏むだけで大きな衝撃に襲われ、数分と経たずに吐きそうになったのをこらえた自分を褒めてやりたい。
とはいえ、よくよく考えればわかったことだ。
どう考えても、良くて中世レベルの文明しかないであろう世界で、乗り心地など考える余裕がある者はそれこそ金と時間が余った貴族様ぐらいなもの。村人が使う馬車に、そんな立派な物がついているはずがないのだ。
しかし人間、適応力とはすごいもので、しばらくすればある程度は耐えられるようになっていた。
「よし、いったん休憩しましょう。 馬を休ませないと」
「あいよ」
馬車は馬の体力にもよるが、大体2時間も歩けば休憩をはさむというのが基本の様だ。しかも、普通に歩かせた場合、速度でいえば、おそらく自転車でもがんばれば抜ける程度のスピードで進んでいた場合の話で、カルマからすればかなり遅いように感じていた。とはいえ人間2人、更に荷物を大量に引いていることを考えれば十分早いと言えるだろう。
「ほれ、水だぞ~」
カルマが水の前に置くと、馬は心なしか嬉しそうに水の入った容器に顔を突っ込む。ソフィアも積まれた食料、とは言っても干し肉ばかりだが、それをいくらか降ろして食事の準備を始めていた。
「カルマはいくつ食べるの?」
「そうだな‥‥‥ 確か肉は2通りだろ? それを1本づつくれ」
「分かった」
何の肉かといえば、当然熊と狼である。
どちらも西日本出身の自分としては口にすることは決してなかった肉だが(そもそも狼の干し肉とか聞いたこともない)、どんな味がするのだろう?などと、ぼんやりと考えていると、干し肉を持ってソフィアがやってきた。
カルマは礼を言い、差し出された干し肉に手を伸ばそうとして‥‥‥‥すぐにひっこめる。
「? 何をしてるの?」
その様子に不思議そうにソフィアが首をかしげる。
カルマはその言葉に凄まじく不愉快そうな表情を浮かべると、吐き捨てるかのように告げた。
「演技ならもう少しうまくやったらどうだ? ソフィアはそんな仕草はしない。 違和感が強すぎて目眩がしたぞ」
「ありゃ残念」
その言葉にあまり残念そうではない声でソフィア、いや、ソフィアの姿をした何者かが答え、笑った。
そしてカルマが見る目の前で、その姿が黒い液状の何かに変わったかと思うと、即座に別の形を作り出していく。
やがて1分もしないうちに現れたのは、紫の瞳に髪を持つ、黒いゴシックドレスを身に纏った幼女。見た目は愛らしいことこの上ないが、しかしそれが見かけだけのものだという事はたった今の変身から疑うまでもなかった。
「初めまして、”空虚”・カルマ。 私は”混沌”。 ”必悪”の1人だよ♪」
だからこそ、その言葉を聞いても驚くことは何1つなかった。
「ソフィアは無事なのか?」
「あの人間? 生きてるよ? ”災厄”に”虚無”に迷惑をかけちゃダメって言われたし。 人間が好きなんでしょ?」
「好きというか‥‥‥元人間ならそう思うのが普通じゃないか?」
カルマとしては至極当然の答えを返したつもりだったのだが、何が可笑しいのか、”混沌”を名乗る少女はきょとんとした後に笑い始める。
その反応にむすっとした表情を浮かべたカルマだったが、その表情は続く”混沌”の言葉で掻き消えることとなった。
「ああ、道理で! だから”虚無”は弱いんだ、まだ”必悪”という存在になり切れていないから!」
カルマは、いや、”必悪”の”虚無”は、この出会いを機に自覚することとなる。
変えようのない事実から、知らずのうちに目をそらしていたのだという事を。