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ありがとうって言ってみた

「いえ……なんでもない、です。ちょっと……疲れたっていうか……びっくりしただけで」

「疲れたっていうことは無理させてんじゃねーか。なんか飲み物でも買ってくるか。すげえ顔色してんぞ」

「いいんです。あんな風に言ったの──言ったのは先輩ですけど──ふふ」

 その時、ツキムラトモコは笑った。

 青ざめて透き通りそうな顔で、それでもちょっとだけ、俺の初めて見る顔で、笑った。

「あんな風に、見えたことぜんぶ言ったの──背中の『もの』が投げつけてくるものぜんぶ──叩きかえして見せたことなんて、一度もなかったから。やっぱり、先輩はすごいなあ……」

 俺はたぶんバカみたいな顔で惚けてたと思う。かなりの時間。

「……あの。手」

 消え入りそうなツキムラトモコの声で、やっと気づいた。

「手。ちょっと、痛い、です……」

 まだツキムラトモコの小さい手は俺の手につかまれたままで、それもぎゅうぎゅう握りしめてるから、これはかなり痛いに違いない。

「あ、悪り」

 あわてて離すと、ツキムラトモコは首を振って、両手を後ろに隠した。俺はしびれた手を見つめた。やっぱり冷蔵庫に入ってたみたいに色を失ってた。

「……あれが、お前の見てるもんか」 

 泣き出しそうに顔をゆがめたまま、ツキムラトモコは頷いた。

「小さいころから……ずっとです。みんなが『幽霊』とか『お化け』って呼んでるもの……生きてないものだったり、生きてるものの思念の塊だったり、そもそも人間じゃないものだったり、そういうのが、見えちゃうんです。この眼鏡は」

 横に置いてある眼鏡ケースをそっと撫でる。だいぶ年季の入った古びたケースで、合成皮革の表面が手擦れしてすり切れかけてる。

「小さいころからずっと持ってて、これがあると少しはそういうのを見えないようにできるんです。でも、強すぎるものは、さっきのみたいに、この眼鏡だけじゃさえぎれなくて、あたし、あの」

 涙のいっぱいたまった眼を、ツキムラトモコはあげた。なんとか笑おうとして震えている唇に、涙の粒が呼吸を合わせるように震えている。

「あたし……『お化け』ですから。『幽霊女』、ですから……だから」

 嫌われても、しょうがないんです。

 声にしないで、唇だけがそう動いた。

 ああもう。

 畜生。

 俺は手を伸ばして、ツキムラトモコが後ろに隠してしまった手を乱暴につかんだ。ぐいっと伸ばして両手で包み込む。

「え、え、っあの先輩、え……?」

「まず言っておく。俺は幽霊なんぞ信じてない」

 ツキムラトモコは俺より頭一つくらい小さい。その小さいツキムラトモコに視線をあわせて、俺は少しかがみ込み、ゆっくり一つずつ言葉を句切って言った。

「ついでに化け物とかも信じてない。基本的に自分で見たものしか信じない。そして俺は今、自分でお前の見てるものを見た。まあそりゃ、あれも幻覚かもしれない。俺はおまえの催眠術かなんかにかかって幻を見ただけかもしれない。だがあのおっさんのカバンがスッパリ切られたこと、切られたカバンに文字が勝手に刻まれたこと、これは確かだ。俺は見た。信じないわけにいかない」

「せんぱい──」

「現にあそこに証拠が転がってるわけだしな」

 忌まわしい文字が刻まれたカバンの端っこはまだそこにあって、腹を割かれた動物みたいに、紙切れや機械部品を散乱させてアスファルトの上で陽に灼かれている。

 すごい、っていうか、すげえのはお前だよ、と言ってやりたかった。そりゃ気色悪いもんは見たけど、その後ろにあるもっともっと醜い、目を背けたくなるようなもんを、お前は毎日見せつけられてきたんだ。

 まああのおっさんが特別タチ悪かったにしても、ほかの奴がさほどマシであるとは思えない。だいたい他人の悪意とか修羅場とかってのは見てるほうも厭な気分になるもんだ。あんなもんを毎日見てきて、それでも──それでも──

 それでも──微笑めるようなお前はすげえよ、ツキムラトモコ。

 そういや、まだ言ってないことを言わなきゃいけないんだった。

 サナエの怒った顔が浮かび、俺はぐいとツキムラトモコを引き寄せた。手を離しても、ツキムラトモコは眼をまん丸く見開いたままぽかんとして動かない。

「あー……それと、その、ありがとな。俺、なんか助かったみたいだし」

「……え?」

 いきなり礼を言われるとは思ってもいなかったらしい。俺はがしがし頭をかいて、あーとかうーとか言った。どうもこういうのには慣れてない。

「こないださ。ほら、トラック。お前が教えてくれなかったら俺、たぶんあのトラックに巻き込まれて死んでたんだろ? だったら、まあほら、礼はいっとかねえとな。その、遅れて悪かったけど。だいぶ。俺もこの年で死にたかねえしさ。だから、ありがと」

「あの。先輩、あたしのこと、怖がらないんです、か……?」

 おそるおそる、という感じでツキムラトモコは尋ねてきた。

「怖くなんかねーよ」

「気持ち悪い、とか、頭オカシイ、とか……?」

「知らね」

 くそ。こういう相手はどうにも苦手だ。

「ただお前が俺に警告してくれてそれでどうやら事故から逃げられたらしいのは確かだし、そこでなんか変なもの見ちまったのはお前のせいじゃねえし。今見たものは、俺が自発的に見せろとか言ったからだし。そもそも気持ち悪いのはあのおっさんの背中のものとかトラックの下の手で、お前のことじゃねえ」

「……っ」

 両手を口にあてて、ツキムラトモコはぶるぶる震えだした。

 今度は怖いんじゃなくて、どうやら本格的に泣きそうになって。大きな瞳は涙でぐしょぐしょだ。ああくそ、ハンカチなんぞ持ってねーよ俺そんな気の利いたもん。

「泣くな。俺がいじめたみたいになってんじゃねえか」

「ずっ、ずびば、ぜん」

 ぐしゅっと鼻をすすってツキムラトモコは涙を拭いた。

「あ、あだし、そ、そんなこどいっでもらっだの、はじめでで、あの」

「だから泣くなっての」

 ええいもう。俺はどうにもいたたまれなくなってポケットをひっかき回し、はっと手を止めた。

 指先に触ったものをつかんで引き出す。ハンカチだ。洗いたての、きっちりアイロンのかかった白いハンカチ。

 小さなメモ用紙がいっしょに出てきた。そっと開いてみると小さな字で、『賢明な妹からプレゼント。お礼は木崎屋のシュークリーム(ショコラベリーとバニラスペシャル)!』と書いてあった。

 ……サナエだな。あの野郎。いや野郎じゃないのか。

「ほら。これ」

 ぐしゃぐしゃの顔でぐすぐす鼻をすすってるツキムラトモコに突き出す。

「使え。女子高生が鼻水だらけになってんじゃねえみっともない」

「あ、え、でも」

「いいから」

 俺は自分でハンカチを広げてツキムラトモコの顔をごしごし拭き、鼻水の垂れる鼻にあててやった。

「ほら鼻かめ。ずびーっとやれ、ずびーっと」

「え、や、そ、ぞんなごどでぎまぜん、ぜっ、先輩の前で、ぞんな」

「うっせ。もうぐっちゃぐちゃの顔は十分見た。今さら恥ずかしがるような段階か。ほら思いっきり、やれよ」

 ツキムラトモコはぐしゅ、と鼻をすすり上げると、観念したように勢いよくずびーっっと鼻をかんだ。ひっくひっくしゃくりあげながら、一回やると止まらなくなったみたいで、ずぴーずびーと何回も鼻をかみ、その合間に、しくしくくすんくすん言ってる。

 あーこりゃハンカチ二枚はあったほうがよかったか。サナエの奴もうちょっとのとこで気が利かねえな。シュークリームはバニラスペシャルだけに減点だ妹よ。

 じわじわじわじわと蝉が鳴いている。また暑さが戻ってきた夏の公園で、俺とツキムラトモコは鼻水まみれのハンカチをはさんで、黙って並んで座り続けていた。






「おー? 今日も同伴っすかセンパイー?」

「うっせ黙れ死ね」

 ヤマダはけけけと笑って俺の横腹を肘でつつく。

 朝の登校。今日も暑い。アスファルトをゆらゆら歩く生徒の制服の白さも陽炎の中で揺れてるみたいだ。すかーんと晴れた空の陽光は今日も殺人的な熱さで、脳まで唐揚げにしそうな蝉の声がいよいよ高い。

「やーでも同伴は同伴っしょ。デートっつった方がいいすかセンパイー? 背後霊からは脱したみたいでよかったっすけどお」

「やかましい。お前にセンパイ呼ばわりされるいわれはねえよ。邪魔だからくっついてくんな暑苦しい」

「おーっと邪魔だ発言でましたー。俺お邪魔? ねえねえ俺お邪魔??」

「……あの、先輩」

 俺の後ろから気弱そうな声がそっと言う。

「あたし、あの、やっぱりここにいるよりもう少し離れて」

「いーんだよ。お前はそこにいろ」

 顔を突き出してくるヤマダを押し戻しながら、肩にかけたカバンごしに俺は振り向く。そこにはぱっつん黒髪おかっぱの小柄な眼鏡少女、俺のうしろのツキムラトモコが、肩をすくめて小さくなっている。

「ちょろちょろ心霊写真される方がうっとうしいって言ったろうが。俺についてきたいんだったら胸張って歩いてろ。つかなんでそこなんだ。もうちょっと前来いよ」

「いえ、あの、あたしはここで」

 ツキムラトモコはまだ俺の背後に憑いてる。ただし三歩くらい下がったななめ後ろの位置で。もう心霊写真みたいに看板から顔半分出してたりはしない。俺がやめさせた。

『いいか。俺をバリヤーにするんだったらもっと堂々としろ。つかお前のストーカー行為の方がまわりから見ると圧倒的にヘンだ。俺が犯罪者に見える。それは困る。だから、憑くんだったらちゃんと俺の背後に憑け。ちゃんと普通のあたりに憑いてろ。あー、普通ってーのはあくまで人間として普通って意味だぞ? あの妙なアレみたいに背中に乗っかれとか頭に乗っかれとかそーいう意味じゃないからな?』

 そんでツキムラトモコはまた泣いて、ハンカチはまたぐしゃぐしゃになって、やっぱり三枚目が必要だったかという事態になったのだった。

 そのハンカチはきれいに洗濯されてアイロンをかけられて、ツキムラトモコの制服の胸ポケットに、お守りみたいにぴしっと折り目をつけられて入っている。

「それに」

 白い頬をうっすら染めて、ツキムラトモコは恥ずかしげにうつむいた。

「……おばあちゃんに、女は男の三歩後ろを歩くものだ、って言われてますし」

「はあ!?」

「うひょー。あっちー。お邪魔虫はたいさーん。ばいばいきーん」

「ば、バババババカ野郎! そーゆーことじゃねえ、そーゆー意味じゃねえんだよヤマダ! おいちょっと待てこら!」

 ひょろひょろふわふわ走っていくヤマダをばたばたと俺が追う。あとからカバンを胸にかかえたツキムラトモコがぱたぱたあわてて憑いてくる。小さな足がたてる軽い足音。こら待てヤマダ、と怒鳴りながら、実は俺は、そんなに悪い気はしてなかったりする。

 うしろのツキムラトモコは本日も、俺に絶好調取り憑き中だ。

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