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『 怨 』

 灰色の肉カリフラワーなんて目じゃない。こいつはそんなもの、ずうっと昔から見慣れている。今さら怖がるようなもんじゃない(それもなかなか凄いが)。近づかなきゃ大丈夫だとわかっている奴は目の端で見てそのまま通り過ぎればいいだけだ。対処法がわかってる奴を怖がる必要がどこにある。

 こいつが本当に怖がってるのは、その後ろにある悪意だ。こういう『もの』を生み出す後ろにあるどうしようもない人間の汚い部分や醜い感情や因縁や業だ。

 鬼の笑顔で妊婦の腹を蹴り上げるおっさん。行きづまった家族が空中で足をぶらぶらさせている時にホステスの肩を抱いてシャンパンで乾杯していたおっさん。泣き叫ぶ年寄りを夜中に山中に首だけ出して埋めて楽しそうにシャベルで土を均してるおっさん。うつろな眼で宙を見つめている娘の前でヤクザと大声で売値のかけあいをしているおっさん。そんな情景が次々と数え切れないほど目の前で地獄のダンスを踊り続ける。

「……こわい」

 涙をぽろっとこぼすように、ツキムラトモコが呟く。

 そうか、ツキムラトモコよ。

 お前、こんなものを見てたのか。

 ひとりで。

「せ、先輩!?」

 いきなり立ち上がった俺に、ツキムラトモコが声をあげる。

 手はつないだままだから、自然にひっばられてツキムラトモコも立ち上がる。そのままずんずんと公園の門に向かう。ツキムラトモコもいっしょに。行くさきにはおっさんがいる。腐ったでかい肉のカリフラワーを背負ったおっさんが。

 巨大眼球がぎろっとこっちを見る。こいつ、何するつもりだという感じに。おっさんの首にしがみついてる目が穴の女がケタケタ笑う。

「な、何だ」

 スマホを切ったおっさんは俺とツキムラトモコに気づいてぎょっとした顔をした。まあそうだろう。カップルが手つないだままずかずか近寄ってきて、しかも女の子は青くなって震えてるし俺はたぶんものすごい形相をしてたはずだから、なんかケンカでも売られるのかと思ったのか。

「何だ君たちは。私に何か用事かね」

「おいおっさん。あんた、いい加減にしたほうがいいぜ」

 俺は口を開いた。

 いったん開いてしまうと、言葉はあとからあとから洪水のようにあふれ出てきた。ツキムラトモコの手が電流にかかったみたいにびくびくっと震える。俺はしっかり奴の手を握りなおした。

「女死なしてるだろ。それも一人じゃないな。二人……三人か。それも一人は妊娠してるのを、腹蹴って死なせただろ。赤ん坊も死んで、それで女も死んだ」

 おっさんの顔色が変わった。

「な──なんでそんな……いや。君には関係ない。いきなり何だ、失礼な。どこの子だ、君は」

「ちょうどいいとか思って、そのまま捨てておいたな」

 俺は無視して先を続けた。頭の裏側、というかどっか異次元空間みたいなところで、吐き気のするような光景が繰り広げられている。このおっさんが酔っぱらった真っ赤な顔で、お腹の大きい女の人の腹を蹴り上げているところ。

 必死にお腹をかばっている女の人をめちゃくちゃに蹴りまくって、膨らんだお腹をボールのように何度も蹴り上げる。やめてえ、という声は血の糸をひいて、やふぇでぇぇぇ、としか聞こえない。折れた前歯が床に落ちて、血の滴がよだれといっしょにたれ落ちる。青紫色に腫れ上がった女の人の顔はボコボコで、もとはどんな顔だったのかすらわからない。

 おっさんは笑っている。鬼の顔で笑っている。真っ赤に染まった顔で、歯をむき出して、口が耳まで裂けるほどのにやにや笑いを浮かべている。

 きゃきゃきゃきゃきゃ、と目が穴になった女が笑う。

「それだけじゃないな。仕事で一家潰してる。いくつもだ。首くくった家族、心当たりあるだろ。ほかにも、死んではないけど娘ヤク中にされたり、ヤクザに家屋敷うっぱらわれてホームレスになったり、いろいろみんなダメになった人たちいっぱいいるはずだ。あんたはもう覚えてもないんだろうけどな。その人たちは覚えてるぜ。ばっちりな」

 青黒く腐った男の足がじたばたと揺れる。首を吊ったらそんな感じになるんだろうという風にばたばたと暴れて宙を蹴る。犬と猫の骸骨がぼさぼさの毛皮を震わせて吠えたける。骨になった手やとろけた腕や蛇っぽいしっぽや鱗がいっせいにザワザワ揺れる。

「ほかにもいっぱい巻き込んできたな。関係ない奴らまで引き寄せられて団子になって、あんたの上で楽しそうにしてるぜ。どうやってこいつを料理してやろうかってな。なあ、このごろ肝臓の調子が悪くないか?」

 一瞬手がわき腹に伸びかけ、おっさんはぴしりと手をおろして俺をにらみつけた。

「なんでそんなことを君に言わなきゃならんのだ。だいたい君は」

「心臓の調子もよくないだろ」

 押しかぶせるように俺は言った。というか、言わされた。ツキムラトモコから流れ込んでくる言葉と情景は、どぶ泥の黒い波みたいに喉元へこみ上げてきて、吐き出さないと窒息しそうだった。

 ビーチボール大の眼球がこっちを見ている。

 見ている。

「あんたは酒の飲み過ぎだと思ってる。不摂生が続いたからだと思ってる。もちろん、それもあるだろうさ。けど覚えといた方がいい、あんたが死なせたり不幸にしてきた人たちは絶対にそれを忘れないし、いつかあんたにお礼をしようと思ってる。そしてあんたはどうすることもできない。それはあんたのやってきたことの結果で、誰もあんたを助けられないし、助かる方法なんてない。あんたはもう死んだも同然なんだ、気の毒だけどな。あきらめて、背中の上の人たちの気の済むようになっちまいな。まあ俺が今さらこんなこと言わなくても、奴らは好きにするだろうけど」

「こ、このクソガキ……!」

 おっさんは声を荒げて、手にしたビジネスバッグを振り上げて俺たちの上に振り下ろそうとした。

 ばつん。

 でっかいハサミで何かをぶち切ったような──というより、でかい顎を持つ何者かが、勢いよく何かを食いちぎったような音がした。

 おっさんはバッグの持ち手を握ったままその場で固まっていた。足もとに黒いいびつな四角形のものが落ちている。すっぱり斜めに二つに切られたビジネスバッグの片方。

 おっさんの手に残ってるのは持ち手のついてる三分の一ほどだけだ。つやつやした革製のバッグのほとんどの部分が、中に入ってた資料やバインダーやノートパソコンごときれいに断ち切られて、地面に転がっている。切られた肉の断面みたいに、紙とプラスチックと、パソコンの機械部品が層になって覗いてる。

「あ、あ、あ、……?」

 おっさんは手に残ったわずかな革のきれっぱしと地面の黒い残骸を見比べた。手元の半分からゴミになった紙切れと、スクラップになったパソコンの端切れがばらばらサラサラと崩れ落ちてきた。

「おい、なんだこれは。どうなってるんだ。お前らがやったのか? いったいどんな──」

 青ざめながらも噛みついてこようとしていたおっさんがひっと喉を鳴らして止まった。俺はツキムラトモコを背中に回して、目の前で起こっていることを変に冷静な気分で見つめていた。

 地面に落ちたカバンの切れ端のつやつやした黒い革に、ゆっくりと白い傷が入っていく。誰かがカッターナイフか、ありえないほど鋭い爪でひっかいているようないびつな感じの傷だ。そいつが革の表面を毛羽立てながら、ゆっくりゆっくり革の表面になにかを刻みつけていく。ききききき、と鼓膜をひっかくような音を立てながら。

 きききききき、き、ときしみながら、そいつはついに一つの文字を刻み終えた。


 『 怨 』


「ぎゃあああああああああ」

 おっさんは物凄いわめき声をあげ、手に残っていたカバンの端っきれを放り出した。

 まるでそいつが今の現象の原因だってみたいに手を振るって遠くへ放り捨て、つんのめって転びそうになりながら逃げていく。

 けどなおっさん、そのカバン捨てたところで意味ないぜ。腐った肉のカリフラワーはやっぱりあんたの背中でもくもくもくもくもくもく動いてるし、こっちから見える顔とか顔だったらしいものとか顔のパーツっぽいものはみんな笑ってる。笑い転げてる。いよいよ本当の復讐を果たす前に怖がらせてやれたのが嬉しかったらしい。おっさんの首にしがみついた女はけたけたけたけた笑い続けてるし、宙を蹴る腐れた足も手もどことなく嬉しそうにぴょんぴょん跳ねてる。ビーチボール大のでかい眼球はいよいよ真っ赤にふくれあがり、膿んだ血色の汁をだらだらこぼしている──喜んでんのかこれ。

 とにかくおっさんは視界から消え、俺はつめていた息をふっと吐いて、ようやくバキバキに凝った全身と冷や汗で水をかぶったようになっている自分に気づいた。真夏の陽光の下だっていうのに、指先までが冷凍庫に入ってたみたいにしびれてる。

 ツキムラトモコが急にぐにゃぐにゃぺたんと地面に座りこんだ。スカートがふわりと地面に広がって、糸が切れたみたいに手も足もぐにゃぐにゃになってる。

「お、おい、だいじょぶか。気分悪いか。無理、させたのか」

 あわててツキムラトモコを抱えて公園の藤棚の影に戻る。ふらふら歩くツキムラトモコの足取りはおぼつかない。無理もない、たぶん、俺にあれを見せろなんて無茶な要求をされて、慣れないことをしたのだ。ツキムラトモコの白い頬は白磁を通り越して、血管まで透けて見えそうなくらい薄く透明に見えた。


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