おっさんとカリフラワー
しばらくは何も変わったことはなかった。ジワジワジワジワと蝉が騒ぎ、コンクリートとアスファルトの上を吹く熱風が藤棚を揺らし、汗を噴き出させにかかってくるだけで。何人か人は通ったし、自動車や自転車も何台か通り過ぎたが、そのどれにもおかしなものはついてなかった。
何人かは公園で手をつないでる俺たちを見て眉をひそめたり、ほほえましそうにちょっとにっこりしたりしていった。自分たちがどんな風に見えるかは考えていなかったので、これはかなり効いた。ああそっかこれどう見ても夏休みのカレシとカノジョがラブラブいちゃいちゃしちゃってますの図だよな。くそ。もういいよどうとでもなっちまえ。
「ほとんど逃げちゃってます」
ツキムラトモコが消え入りそうな声で呟いた。地面から顔をあげられない様子で、ゆで蛸みたいな顔をしながらじっと下を向いている。
「先輩がここにいることを感づいた時点で、弱いのはみんな宿主から一時離れるか、気づく前に弾き飛ばされてますから……よっぽど──相当に強い『もの』じゃないと、見える距離には──あ」
手の中でツキムラトモコの手がびくびくびくっと引きつり、それまでただ掴まれていただけの指が急に強烈に手をしめつけてきた。細くて折れそうな指なのに、驚くほど強い力だった。俺はぎょっとしてツキムラトモコを見た。
ゆで蛸みたいだったツキムラトモコが一瞬にして冷凍イカになってた。
全身がくがく震えているのが指先までも伝わってくる。ぎゅっと背を丸め、見つかるのを怖がるウサギかリスみたいに縮こまって、小石みたいに小さく固くなっている。
「くる……きます……近づいて、くる」
ちょっと舌がもつれていた。手をつなぐ、というより、もはやすがりついているような必死さで指が俺の手にからみついてくる。
「すごく強い……妄念……恨んでる……いっぱい集まってて、もう何もわからない……いろんなものが……合体してて……あああ、あ」
生け垣のむこうの道に、なにかもんわりした灰色の雲みたいなものが見えた。そいつは角を曲がり、もこもこモゾモゾと蠢きながら公園の入り口のある道へと回ってくる。
急に気温が下がった。あんなにやかましかった蝉の声が心なしか遠い。
どこからともなく、厭な臭いが漂ってきた。冷蔵庫を開けたら中の食材がぜんぶデロデロに腐ってた、みたいな感じの、ひんやりしてるのにむわっとした、世の中の『厭』さを凝縮したみたいなものが、生け垣のむこうから波になって押し寄せてくる。
こわいこわいこわいこわい、と熱に浮かされたようにツキムラトモコが呟いている。俺の口の中はいつのまにか乾ききっていた。砂と埃と、なんか他にも厭な腐ったような味がする。俺は手の中の細い指をぎゅっと握り、むりやり唾をのみこんでからからの喉を湿らせようとした。
灰色のそいつが公園の入り口にさしかかった。
ぎろり、と覗いたのは血走った目玉だった。膨らましたビーチボールくらいあるやつ。それも特Lサイズの。
ぬめぬめした青白い白目部分に血管が網の目に走ってびくびく蠢いている。こっちを見た光彩部分は白っぽくどろりと濁っていて、死んだ魚の目でももうちょっと生き生きしてる感じだった。
その目玉は灰色のそのもくもくしたやつのてっぺんにたんこぶみたいにぽこんと生えてて、あちこちにらみ回していた。まつげもまぶたもなし。もくもくもくもく動き続けている灰色の塊はどんどんはっきりしてきて、動いているそれの細かいところまでが妙にはっきりしてくる。
腕とか足とか頭とかなんとか、人間の部品がでたらめに生えた腐ったカリフラワー。なんとか表現したらそんな風だろうか。いや、人間じゃないっぽいものもなんか生えてる。もと人間だったやつとか。
変になまっ白い細い腕やでろんと青黒い男の足、小さな虫みたいにちっちゃな指で空をかいてる赤ん坊の手、肉も落ちて骨ばっかりになったなにかのどっか。犬か猫みたいな毛の残った骸骨が、片目のぽっかり開いた穴を空に向けて牙をむいてる。
蛇かなんかかそれとももっと別の何かなのか、しっぽみたいな鱗の生えたものが四方八方にうねうねしている。腐った野菜みたいなもくもくした灰色の本体にはでたらめに何かの毛皮だの、艶々した人間の髪の毛だの、鱗だのぬめっとした両生類っぽいなにかの皮膚が貼りついてる。
そしてもくもくもくもくもく動いている。動き続けている。
とても厭な、厭で厭で思わず目を背けたくなる、悪意の塊のような動きで。
そいつをしょってるのはごく普通のスーツを着たおっさんだった。スマホの画面で何か操作し、道でも確認しているのかあたりの住所表示を見回している。何も知らなければ普通に見過ごしている、本当にただのおっさんだ。黒いビジネスバッグを提げて、暑そうにスーツの上着を腕にかけて汗を拭きながら、口をとがらせてなにか呟いてる。
その口に灰色のもくもくした『やつ』が、キスするみたいにかがみこんでいるのには当然おっさんは気づいていない。見えないんだから。
背中から雲が垂れ下がるみたいな感じでぬらりと前かがみになった『やつ』は、おっさんの顔のまん前でかぱりと口、らしきものを開く。口、というか傷、というか、カッターナイフで粘土を切ったみたいにいきなり細長い口がすぱっと開いて、中から紫色のでっかい舌なのか触手のたぐいなのかわからんものが出てきておっさんの口にもぐりこむ。おっさんはぜんぜん気づかず、その場に立ち止まってスマホをいじっている。
こわいこわいこわいこわいこわいとツキムラトモコが言う。
もくもくもくもく、と動き続けながら灰色の『もの』はおっさんの体をいじくりまわしている。細い女の腕がずるりとおっさんのわき腹に潜り込み、泥でもこねるようにかき回す。骨ばかりの犬と猫の頭ががちがち歯を鳴らしておっさんの背中にかぶりつく。鼻の腐れ落ちてなくなった(たぶん)男の首も歯のない口でいっしょにかぶりつく。長いつやつやした髪の毛が触手みたいにするする動いておっさんの背中や胸や腹に潜り込んでいく。続いて黒目と白目が互い違いになった女の体もずるりと出てきて声のない声でゲラゲラ笑う。
「あ、すいません、──ですけどお」
おっさんはどっかに電話をかけだした。
「いやあ、ちょっと道に迷っちゃったみたいで、──はい。はい。ええ、すぐ近くまでは来てると思うんですが。今。ああ、公園の門の近くにいます。公園の名前ですか。ええとね──」
いやおっさん、お前いま女にキスされてっぞ。たぶん生きてない女だけど。長い髪の毛あんたの身体じゅうに絡みつかせてゲタゲタゲタゲタ笑ってる女だけど。目が真っ黒で穴みたいってかほぼ穴で涙みたいにこぼれてるのはたぶんウジ虫な女だけど。
女はおっさんにディープキスし、その黒髪はそこだけ生き物のようにうねうねと這い回り、小さな赤ん坊の手が猫みたいな鳴き声をあげながら開いたり閉じたりする。青黒い男の裸足の足が空中を蹴る。何度も。
そして腐った肉のカリフラワーはもくもくもくもくと蠢き回り、いくつもある手や足やしっぽや触手やその他なにかで、おっさんの背中にべっとりと貼りついている。背中やら腹やら尻やらいいようにいじくりまわされながらおっさんはなにやら仕事の話をしている。てっぺんの巨大眼球がぎろりと回ってまたこちらを見る。
ツキムラトモコが震えている。小さく固く、今にも消え入りそうに固くなって、つかんだ指先はカチカチに冷たくて、ぎゅっと目を閉じているけどどうやらこういうものは目を閉じていても勝手に見えてしまうものらしいと手をつないでいる俺にはわかる。
それからツキムラトモコの感じている猛烈な恐怖も。裸の心にナイフを突き刺してぐりぐりねじりまわすような、肌に感じる悪意と嫌悪。あの灰色の『もの』が発散しているそれが直接俺にも伝わってくる。
けど実はそんなものは比べものにはならないんだ、と思った。なぜなら俺はいまツキムラトモコとつながっていて、奴の感じていることがみんな伝わってくるからだ。あいつが何を怖がっているのか、その場に立ったまま気絶しそうなくらい怯えに怯えているのか、その理由。




