これはデートではない。ないったらない
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ツキムラトモコの住所はなぜだか生徒名簿に載ってなかった。
連絡先の電話番号はあったけど、かけてみたら『トモコはただいま出かけております。ご用でしたらわたくしがうけたまわります』とブリザードみたいな女の声に言われて、とりつくしまもなくむこうから切られた。あれって、ツキムラトモコの母ちゃんなんだろうか。わりと年食った感じだったけど。家族とか、なんかそういう感じじゃなかった気がする。
プライバシー保護とかで住所を載せてないのはほかにも何人かいるので、住所が載ってないこと自体はそんなにおかしいことじゃない、のかもしれない。でもなんだかあの聞いただけで電話越しに耳が凍りつきそうになった女の声は、なんだかへんだ。なにがどうというわけでもないんだが、気分が悪い。ムカムカする。外でいつも小さくなってうつむいてるツキムラトモコが、家でももしかしたらあのブリザードボイスの女に何か言われてるんだとしたら、何かすごく理不尽な気がする。神様は何やってんだって気分になる。神様なんて信じてるわけじゃないけどさ。
スマホの画面を落としてポケットにつっこんで、靴を履いた。今日も暑い。昨日のエビフライの続きみたいなセミの声が空じゅうで唐揚げでも揚げてるみたいに響いてる。
一歩門扉から外に出て、すぐに気づいた。
ツキムラトモコがいない。
どこにもいない。向かいの家の植え込みのかげ、電柱の後ろ、賃貸住宅の看板の後ろと視線を移したけど、どこにもあの小柄で細くて消えてしまいたいというように小さくなりつつ、顔半分だけを一心にこちらに向けてたツキムラトモコは、いなかった。ここ一ヶ月ばかりにして、初めて。
一瞬くらっとして、目玉が靴の中に落ちたみたいに目の前が真っ暗になった。かんかん照ってる夏の日差しはバカみたいにじりじり脳天を灼いてるのに、急激に暗くなって寒くなって世界が俺を押しつぶしに集まってくるような気がする。
アホか俺。ここ一ヶ月ストーカーされてた相手が消えただけだろうが。
とかなんとか言い聞かせてみても、なんだか雲を踏んでるような非現実な感じはなかなか消えなかった。
ツキムラトモコに『憑かれてる』ことが、いつのまにかこんなにごく普通のことになってた事実に俺は自分で仰天していた。いやだって、おかしいだろ? ストーカーだぞ? 幽霊女とか呼ばれてる有名なイタイ女だぞ? 消えたんなら喜ぶべきじゃないのかよって、俺のわりと理性的な部分がいろいろ言ってるけど、その声は小さい。俺のあとをちょこちょこ憑いてきて、じーっとじーっとただ見てるあのおかっぱ頭と大きな伊達眼鏡がいないだけで、なんかものすごく世界が書き割りじみてみえるというか、なんでこんなに薄っぺらく見えるんだ?
どこへ行くというあてもなかったたけど、ふらふら歩いて公園へ向かう。きのうツキムラトモコを置き去りにした場所だ。まさかまだいるなんてバカなことは思っちゃいなかったけど、ほかに思い当たるところといえば、学校以外ではそこしかなかった。
角をまわって、公園の藤棚が見えてきたところで、心臓がびょんと跳ねた。
いた。
昨日とまったく同じ、藤棚の下のベンチに、昨日と同じ学校の制服の白いブラウス姿で、ぽつんと座ってる。
思わず足が速くなった。
走るみたいにして公園に駆け込むと、ツキムラトモコはあ、というように口をあけ、ベンチから立ち上がりかけて、よろめいてまた腰を落とした。その間に俺はさっさとベンチの前に到着してた。ちょっと息が切れてたかもしれない。
「なにしてんだ。こんなとこで」
思った以上にぶっきらぼうな言い方になった。
ツキムラトモコはえ、とかあ、とか言いながら逃げ道を探すみたいにきょときょとしていたが、やがて肩を落として、練習してたんです、と細い声で言った。
「練習?」
「……『モノ』を見ても、平気なように。練習です」
先輩のかげに隠れなくても大丈夫なように、とさらに小さな声で続けた。
気がつくと、ツキムラトモコはいつもの伊達眼鏡をかけてなかった。脇に赤いプラスチックの眼鏡ケースがきちんと置いてある。こっちを見上げた眼鏡なしの瞳はぎょっとするほど黒くて大きくて、夏の光の下で少しうるんでいた。
「あたし、先輩みたいな人、はじめてて。だから、すがっちゃってたんです。先輩の迷惑とか、考えもせずに。だから、自分でちゃんと怖くても我慢できるようにしなきゃって、あたし。大丈夫です。今までだって、なんとか一人で我慢できてきたんです。だからちょっと訓練するだけです。先輩に頼っちゃってたぶん、取り戻して、前の感覚を思い出せばいいだけです、それだけなんです」
だから、とほとんど消えそうな声でツキムラトモコは呟いた。
大丈夫です。なんとかなります。なんとか、……します。
その時俺が腹を立てた理由はよくわからない。ツキムラトモコにじゃないし自分自身でもない、なんかほかのことに対して、猛烈にむかっ腹が立ったのだ。
すげえカッコつけた言い方になるけど、『世界』に対して、って奴だろうか、とちょっと思う。こいつが、ツキムラトモコが一人で耐えてきたいろんなことに対して、ミサキアヤカや俺がこいつにしたことに対して、それについてぜんぜん関係ないみたいにカーンと晴れてる夏空とか相変わらず鳴きまくってる蝉とか遠くを通り過ぎてくわらびもち売りののんきそうなマイクの声とか、いっさいがっさいそういう間抜けたものに対して、猛烈に腹がたった。こいつがここで一人で怖い思いしてるのになんで世界は平和なんだとか、そういうものすごく理不尽系なやつ。
俺はぐるっと踵をまわして、どっかとツキムラトモコの隣に座った。
え、え、あの、え、とツキムラトモコが慌てる。できるだけ顔を見ないようにする。くそ。暑い。
「お前。お前の見てるもの、俺にも見せられるか」
「え……」
「一人で見るから怖いんだろ。二人で見たら多少は怖くない。ホラー映画だって一人で見るより何人かでギャーギャー言ってれば怖くない。赤信号だってみんなで渡れば怖くないんだ」
最後のやつはなんか違う気がするが、構うもんか。
「どうなんだ。見せられるか。それとも、どんなものが見えるか、説明してくれるか」
ツキムラトモコは迷うようにあたりを見回した。誰かに助けを求めてるようでもあったけど、もちろん、そんな相手はいるはずもなかった。
俺は自分にしてはびっくりするくらい静かに、息を殺して待っていた。臆病な小鳥をそばで観察してるような気分だった。ちょっとでも動いたり、大きな声を出せば、小鳥はすくみあがって遠くへ飛んでいってしまう……
「……先輩が、ここにいるので、弱い『もの』は近づいてこれません」
かなり長い間もぞもぞしていたあげく、ツキムラトモコはやっと言った。俺は安堵のあまり大きな息をつきそうになったが、そんなことをしたら小鳥が逃げそうなのでじっと我慢した。
「だから、来るとしたら、かなり……強い『もの』です。それでもたいていは、近くまで来たら姿を消すと思います……近づきすぎると危ない『もの』もいるし……あの、このあいだ、先輩にくっついたみたいなやつです……でも、ここから、公園の外を通る人くらいなら、見える、かも、でも──」
「おし。じゃあ見せろ」
「……あんまり、見ない方が、いい、です……」
ツキムラトモコはゆらゆらと頭を振った。黒い大きな目にまた涙が盛り上がりはじめていた。
「ああいうのは、前にも言ったかもしれませんけど、こっちが見えてると思うと、絡みついたり、攻撃したり、してくるんです……気がつかないなら、見えないなら、そのほうがずっといいんです。見るっていうことは、『もの』と縁をつないでしまうこと、です、から。あたしはもともとそういう人間だから大丈夫です、でも、先輩は……」
「やかましい。縁とかなんとか言うなら、俺はもう前にトラックに引っ張り込まれかけた時点でなんかちょっと引っかかっちゃってんだし、今さらどうこういう気はねえよ。ほら、どうしたら見えんだ? テレパシーみたいなもんでもあるか? 手でもつなぐか?」
手をつなぐ、の一言が口を出たとたん、ツキムラトモコの細い首筋が湯をかけられたみたいに真っ赤に染まった。ちょっと間をおいて、俺も自分が何を言ったか理解してかーっと頬が熱くなるのを感じた。
アホか俺。何意識してんだ俺。これはあの、そのなんつうか、そういうアレじゃねえっつうか、あーもう、とにかく特になんか妙な意味はない。ないったらない。必要だからするだけだ。
「ほら」
ツキムラトモコが真っ赤になったまま固まっているので、俺はぐいと自分からやつの小さい白い手をつかんだ。ツキムラトモコはあ、と小さい声を立てて、ぶるっと身を震わせた。
「これでいいのか?」
うつむいたまま、おかっぱ頭がこくこくこくこくと何回も揺れた。
黒髪からのぞく耳たぶが血を噴きそうに赤い。俺は腹に力を入れてむん、と気合いを入れ、なんでもないこれはなんでもない必要なことだなんでもないななんでもないと頭の中で唱えながら、意地みたいに隣を見ないで公園の生け垣の向こうを見つめていた。




