バッッッッッカじゃないの??
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「バッッッッッカじゃないの?」
「……うるせー」
サナエはミッキーマウスのプリントのホットパンツから太股をまるだしにしてソファの背もたれにまたがっている。座って落ち込んでいる兄をゴミでも見るような視線で見下すのは奴の得意技だが、今回ばかりは俺も反撃する手段が見つからない。間の抜けた笑いを浮かべてるネズミ野郎が腹立たしい。ガールフレンドとハートなんぞ飛ばしやがってクソが。
親父は出張で明日の晩しか帰らないし、母ちゃんは台所で晩飯作りの最中。テレビでは隣のクラスにでもいそうな感じのなんかいっぱいいるタレント集団が合唱だかなんだか知らないけど歌って踊ってる。母ちゃんの方針で夜はクーラーをつけないので網戸は全開、扇風機がなまぬるい風を送って夜でもまだ鳴いてる蝉の声をかきまぜる。蚊取り線香の煙が流れる。サナエはかかとでぐりぐりと俺の肩胛骨を押した。
「お兄はオンナノコのキモチってのがわかんないわけ? バリヤーだかなんだか知らないけどさ、嫌いな相手の後ろに毎日ついて歩けるわけないじゃん。テレカクシっていうんだよ、そういうの。ほんとはお兄のこと好きなのに、恥ずかしくって言えないから別のこと言っちゃったの、そんなこともわかんなかったの? さいっっってい」
「……俺だってそれくらいはわかってんよ……」
「んじゃなんでその子にそんなこと言ったりしたのよ。お兄がバカでトウヘンボクでドンカンで気の回らないオマヌケ男ってのはわかってるけど、今回ばかりはあたしも恥ずかしいよね。妹として。せめてもーちょっとカノジョに気遣いのできる男だと思ってたよ。まさか自分を頼りにしてくれてる女の子に暴言はいて、置き去りにできるサイテー男だなんて思いもしなかった」
返す言葉がない。
「だいたいさ、まずその子にお礼言ったの? お礼。こないだのトラックの事故に巻き込まれたやつ、あれその子が教えてくれたから助かったんでしょ? だったらまずそのお礼言わなきゃじゃん。言った?」
「……言ってない……」
「ほらあ。だからお兄はダメだっていうの!」
サナエはバシバシソファを叩いて俺の後ろ頭にドカッと足を乗せた。払い落とす気力もなくて俺は足蹴にされたままになってる。
「物事はまず一歩一歩進める! お兄がその子のことキライだってんならあたしは口出さないよ、それはお兄の自由だし、あたしだってお兄の恋愛事情に口なんて出す気はないよ。華麗なる女子中学生としてはバカ兄のすっとこどっこいな行為にいちいち注意してる暇なんてないからさ。けどいちおう家族としてはバカ兄でも助けてくれたことに関してはちゃんと感謝してるし、てっきりお兄も感謝してるもんだと思ってたよ。ほかはどうあれ、まずそのことにはお礼言わなきゃダメじゃん。バリヤー代わりになるくらいそのお返しだと思っときなさいよ、命拾いしたお礼だと思えば安いもんでしょ。違う?」
違わない。
つか、バカバカ言うなバカ妹。
言い訳じみてることはわかってるけど、本当は俺だってそれくらいのことはわかってるんだよ。
最初は正直いってちょっと薄気味悪かった。だってそうだろ? お前にはなんか変なものが憑いてるのが見えた、だから警告した、助かってよかったと言われてもちょっと素直には喜べるはずはない。しかも相手はこれまで何度もいじめた相手に原因不明の事故が起こってる噂の女だ。なんかマジに行方不明者とか出てる。しかも俺は幽霊とかそういうものは信じてないんだ。そのはずなんだ。
でも幽霊女とか霊感気取りのイタイ女とか言われてても、ツキムラトモコが俺のトラックの下でミンチになる運命を払いのけてくれたのは、今でもちょっと信じがたいけどはっきりしてるし、何より俺はあの紫色の腕を見てる。ゴツゴツしてて関節がいっぱいあったくせにほとんど厚みがなくて、ひらっと裏がえったかと思うとしゅるんとどこか別の場所へ吸い込まれていってしまったあれを見た。目の錯覚だとは絶対に思えない。思いたいけど俺は残念ながら自分の意志で記憶を修正するほど器用じゃない。
テレビのつくりものの幽霊や心霊写真とは、あれははっきりと違ってた。思い出すと背筋が寒くなるくらい、あれは決定的になにか『ホンモノ』の気配をまき散らしてた。腐った肉と血とあと何か思い出したくもない、『悪いモノ』のにおいだ。鼻で感じるものじゃないけど、鼻で感じるよりもっとすごく強烈な何か。
そういうものにひっつかまれてあの世へひっぱりこまれる運命がいいもののはずがない。もしかしたらああいう『モノ』の一部かなんかになって、俺と同じような何も知らない間抜けをエサにするようになってたのかもと思うと扇風機のなまぬるい風が一気に冷風になる──
──ああ。
だからツキムラトモコに苛々してたんだ、と俺はいきなり理解した。はっきりと。
『憑かれてる』とか言われて、ヤマダやクラスの奴らにはやし立てられるのは確かにうざったい。けど問題なのは、それよりツキムラトモコの態度だったんだ。
俺をあの『モノ』から助けたんだから、あいつはもっと堂々としてていいはずだ。『憑いてる』、『憑きもの』だなんてはやし立てられる前に、ちゃんと俺のところへ来て話をしてよかったはずだ。
四六時中うしろに『憑かれる』のは確かに気分のいいものじゃない。だけど、っていうかだから俺は、なんでそんなにあいつがうしろにひっこんでるのか、俺のうしろに『憑いて』るのかの理由が聞きたくて──
「またなんか考えてる」
サナエがつま先で俺の頭をつっついて口をとがらせた。
「あのねー、おバカなお兄に教えたげよっか。お兄はさあ、そのツキムラさんって人が、自分のこと好きで、好きだからついてきてくれてるのかって、期待してたわけよね。ぶっちゃけさあ」
「んなっ──」
「図星。でしょ?」
うるさい黙れなにが図星だこのクソ妹。
と言いたかったけどうしろ頭をグリグリされながら、俺はとっさに何も言うことができなかった。
「でやっとつかまえて訊いてみたら、相手がバリヤーだとかなんとか言い出したから逆ギレした、と。サイテーだよね。恥じらいってものをわかってないよ。あこがれの先輩がだよ──まあ、うちのお兄のどこかいいんだかあたしにはわかんないけどさ──声かけてきてアイスおごってくれて、隣に座って話してくれてんのに、自分のほうから、あなたが好きだからついて歩いてます、とか言えるわけないっての。ましてやツキムラさんって子、自分からグイグイくるタイプじゃないんでしょ? しかもわりとコンプレックス持ちっていうか、引っ込み思案なタイプなわけでしょ」
容赦ない。我が妹ながら、こいつはいっつも容赦ない。グリグリ問題の核心に踏み込んできやがる。畜生。
「そういう子にとっちゃ、好きな相手の背中見つめるだけでドキドキもんなのよ、ガサツな男には永久にわかんないだろうけど。それが当の相手に隣に座られてあれ、これってデート? みたいな状況でうまく気持ちなんて口に出せるわけないじゃん、あーあ、ほんとにバカ。とりあえずこないだはありがとな、助かった、くらいのことくらい言えなかったわけ?」
るせー。ほんとはそう言うべきだったのは俺だってわかってんよ。後からだけど。
「つまりお兄がやってんのは見当違い。八つ当たり。まー不器用っていうのはちょっと上等すぎるよね。かわいそうだよ、ツキムラさん。泣いてたんでしょ? あーあ、知ーらないっと、空からタライが降ってきてお兄の頭にぶち当たっても。ま、それって自業自得ってやつだよね。女の子泣かすようなドンカン男にはお似合いの罰。トラックの時は心外ながら心配してあげたけど、今度は同情する気も起きないね。とっとと行って、脳天に一発食らってくるべきじゃない? それっくらいが、お兄にはお似合いだと思うなあ、あたしとしては」
思いきり言うだけ言われたところで、台所から、サナエー、ちょっと手伝ってー、と母ちゃんが呼んだ。はあい、と返事して、サナエはすばやくソファから降りて台所へ駆けていく。
俺はふかーいため息をついて、ソファにもたれかかってサナエに蹴られた頭をがしがし掻いた。テレビではキラキラライトアップされた舞台で、二十人くらいのアイドルグループが脳天気に歌って踊っている。
ああもう。
畜生。
「……あいつの家って、どこだっけな……」
呟いて、天井を見上げる。台所から香ばしいフライの揚がる音と香りと、にぎやかな母ちゃんとサナエのお喋りが流れてくる。羽虫が何匹か蚊取り線香をものともせず舞い込んできて、天井近くで飛び回ってたけど、そのうちシーリングの内側に入り込んで出られなくなった。