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バリヤーなんてまっぴらだ

 いま、目の前のツキムラトモコはじっと黙っている。きゅっと結んだ唇がちょっと震えている。白くて小柄で細くて、俺もそんなに大きい方じゃないが、ちょっと触るとピンといってひび割れてしまいそうに思える。中国の物産展にある透き通りそうに白い壷とか、白磁ってのか? 本とかはあまり読まないんで詳しくないけど、たぶんそういう形容をするんだと思う。

 ヤマダは顔は悪くないと言ってた。たしかに悪くない。つか、ぶっちゃけかわいい。というより、美人だ。眼鏡を外して暗い顔をやめたら、百発百中だれもが振り返る美少女なんじゃないかと思う。ちょっと痩せ気味だがそれがまたはかなげな印象とかみ合ってちょっと庇護欲をそそるタイプってか、大事に抱え込んでやらないと壊れちまいそうな、浮き世離れした感じがある。かみしめた唇は何も塗っていないだろうにうっすらピンクで、おかっぱの黒髪からのぞく耳朶は小さな蝶の羽根みたいだ。すっと通った細くて高い鼻筋に、眼鏡の奥の瞳はこぼれそうに大きくて黒い。

 せかしたらその白い肌にピシピシとひびが入ってしまいそうで、俺にしてはえらく辛抱強く、返事を待った。ガリガリ君をタイミングよくかじり取りながら。ジーワジーワ蝉が合唱してる。暑い。

「……先輩の、背中」

 やっとツキムラトモコが言った。

「あ?」

「先輩の背中が、きれいだから、です」

「ああ?」

 ……なんかちょっとど真ん中すぎてビーンボールというか、きっついゴールキックすぎてゴールの網ぶち破ったとか、そういう感じの返事が返ってきた。蚊の泣くような声で。

「俺の背中? きれい? わからんぞ、おい、どういうことだ。俺の背中のどこらへんがきれいなんだ? 俺はナルシストの気はないんでな、きれいと言われても何がきれいなのかさっぱりだ。そんな毎日へばりついて観察しなきゃならんほど、俺の背中のどこがきれいなんだ」

「……ほかの人は、いっぱい、いろいろ背負って、ますから」

 髪の毛のかげに隠れるようにしてぼそぼそとツキムラトモコは答える。

「見えちゃうんです。ときどき。見えないようにこの眼鏡で抑えてるんですけど、それでも見えちゃうくらい強烈なのを背負ってる人がいて。出会っちゃうとそっちに持っていかれそうになって。でも、先輩の背中は、きれいなんです。真っ白で、大きくて。なんにも背負ってない」

「お、おう?」

 まったくわからん。

「……あー、それはその、この前言ってたみたいなやつのことか? ミギノコエ、とか、あの変な手みたいなあれ。ああいうの、ほかの誰にでもとっついてんのか?」

「あんなに危険なのはそんなに多くないです。先輩にしがみつけるくらい、強いのも」

 ちょっとかぶりを振って、ツキムラトモコははむ、とガリガリ君梨味をかじった。白くて綺麗にそろった前歯が光ったような気がした。しゃく、という小さな音が蝉時雨の中で変にはっきり響いた。

「ほかのたいていのものは、先輩にのっかる前にはじきとばされるんだと思います。でも、普通の人は、いろいろくっつけちゃってますから。ああいう悪いものだけじゃなくて、他人や自分の想いの凝ったものとか、どこかで拾ってきた生きてないものとか、誰かの怨念とか、妄念とか、そういうのがぐちゃぐちゃにからまりあってる場合がほとんどなんです」

 しゃく。また小さな氷のひとかけが消えていく。

「でも先輩は、なんていうか、生まれつきとても強いひとなんです。まわりの人にしがみついてる『もの』も、一時的に姿を消しちゃうくらいに。それでもまだしがみつけるようなのは、こないだのみたいなとてもたちの悪くて強いのくらいなんです。だからあたし、あの、……ええと」

 ちらっと俺に目を上げて、ツキムラトモコはまた視線を落とした。

「……先輩の近くにいると、とても安心なんです。『もの』は逃げていって、きれいなものしか残らないから。不意打ちで『もの』を見ちゃうことも、先輩のそばだとほとんどないし。先輩の背中を見てれば、『もの』がこの世にいて、あたしがそれを見ちゃうことなんて、もうちょっとで忘れちゃえそうになる……」

「ちょっと待て」

 だんだん消え入りそうになっていくツキムラトモコの声を、俺はさえぎった。

 ツキムラトモコはびくっと顔をあげて怯えたように「え」と言った。

 指からほとんど減っていないガリガリ君がぽとっと落ちた。

 その時俺がどんな顔をしていたのか自分ではよくわからない。ただツキムラトモコの白い顔が一瞬でさらに血の気を失ったことを考えると怖い系の顔、たぶんなんか怒った系の顔、をしてたんだと思う。訊くな。俺だってなんであんなことをあんな風に言っちまったのかよくわからないんだ。

「じゃあお前は、怖いもん見たくないからずっと俺にへばりついて、四六時中背後霊みたいになってたってのか」

 一気に俺は並べたてた。ガリガリ君の青い氷が滑り落ちてコンクリートの上で砕け散った。俺は立ち上がって棒を後ろに放り捨てた。

「『もの』かなんか知らねえけど、そういうのを俺のそばにいれば見ずにすむから俺にくっついてたってことか。上等だ。俺はじゃあお前のその眼鏡の上位互換版だったってことかよ。便利に使われたもんだな。毎日毎日俺のあとをつけて歩いて、お前憑かれてんぞって俺が言われてんのお前、知らなかったのかよ。わけもわからずに俺が言われてる間に、お前、自分が怖いもん見えないからってべたべた俺をバリヤー代わりにしてたのかよ」

「そんな、あたし、あの」

 ツキムラトモコは真っ青になって立ち上がっていた。

「あたし、あの、あたし──」

「お前がほんとにそういうの見えてるのかどうかとか、そんなことはどうでもいいよ。俺が腹立つのはなんか知らねえが俺がお前に便利に使われてたらしいってことだ」

 おい待て、なんか違うぞ、と俺の中の別の俺が言った。

 ここで言うのはそういうことじゃねえだろう。俺が言いたいのは、そういうことじゃねえだろう。

 けど一回動き出した舌は止まらなかった。

「バカにすんな。俺はお前のバリヤーじゃねえしお守りでもねえ、学校じゅうからオバケ扱いされてる女にひっつかれて俺が迷惑してるとかどうかとか、お前、考えたことあんのか。ねえよな。考えてたらこんな毎日毎日ひっついてねえよな。俺がなんべん話しようとしても逃げ回りやがって、そりゃあ、便利なバリヤー取り逃しそうになったら逃げ出すよな。俺がそんな利用されてて黙ってるわけねえもんな。悪いが俺はボランティアとかそういうことはめんどくさくて嫌いなんだよ。他人に黙っていいように使われるのもな。そういうことなら最初っからちゃんと話して訳をいえ。あんたをバリヤー代わりに使いたい、オバケが近づいてこないように同類から逃げられるように近くに置きたいってな」

「あの……あたし」

 唇が震えだした。白い顔の中で目と唇だけが色のあるものだったのに、唇までが青白い肌と同じくらいになって、ただ黒い目だけがゆらゆらしてる。今にもこぼれそうな涙でふくらんで。

「あたし……あの、あたし──あたし……」

「うるせえ。俺に近づくな、いいか? 俺は振り返るたびにお前の顔が半分どっかから突き出てんのに飽き飽きしてんだ。んでつかまえて、なんとか理由聞きだしゃそれか。うんざりだ。帰る」

 カバンをひっつかんでベンチを蹴る。ツキムラトモコは雷に打たれたみたいにビクッと飛び上がって小さく身体を丸めている。涙でこぼれ落ちそうな大きな黒い瞳が俺を見ている。

 畜生。

 俺はそのまま振り返らずに公園を出た。両耳から脳味噌をフライにしかかる蝉時雨が強烈すぎる。なんでこんなに暑いのかよくわからない。焦げそうな日差しから走るようにして遠ざかったけど、当然逃げられるわけはなくて、ツキムラトモコの透き通りそうな顔と細い腕と、心臓をえぐられたような表情はどこまでもついてきて、本当に俺が逃げたかったものからは、結局逃げられはしなかった。


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