幽霊女?
2
そんなこんなで登校日の帰り道、クラブの夏練があるとかでヤマダと別れた俺は、いつもの道をぶらぶらと一人で帰宅途中。
そっと後ろを見る。
いる。
なんか賃貸住宅のカンバンの後ろから顔半分出してる。
ばちっと目があったとたん、そいつはゆで上がったみたいに耳まで真っ赤になり、ささっと後ろに隠れてしまうが俺が前を向いてしまうとまたひょこっと出てくる(のが目の端で見える)。
それから十数メートル歩くうちにもさささっとついてくる。ちらっちらっと振り返ってみると賃貸住宅のカンバンから電柱、ポスト、居酒屋のネオン、放置自転車のかげときて、今度はビルの定礎の石台の後ろにしゃがんでこっち見てる。
横を通る通行人がしゃがんで頭だけ半分出してる女子高生に変な顔して過ぎていくけどおかまいなしだ。視線は俺、正確には俺の背中もしくは後ろ頭に釘付け。俺の後頭部のどこがそんなに面白いのだお前は。
俺は立ち止まってため息をひとつついた。
それから道のわきの昔からあるなんでも屋にずんずんと入っていった。
俺が生まれる前からずっとここにあって、駄菓子から食料品から石鹸歯ブラシ軍手洗剤に至るまで、だいたい生活にいるものなんでも並んでるような古くてすすけた店だ。
頭の上からは束になった柄つきタワシやらいまどき需要があるのかと思うハエ取り紙やらはたきやらうちわやらがぶら下がって首振り扇風機の風にゆっくり揺れている。奥のレジにはいつからそこにいるのか俺も知らない置物みたいなちぢかんだ婆ちゃんがちょんと座っている。
俺はアイスクリームの冷凍庫をあけてガリガリ君を(ソーダ味と梨味を一本ずつ)取り出し、百二十円を婆ちゃんの前に置いた。モゴモゴと婆ちゃんの歯のない口が動く。礼なんだかなんなんだかわかんないがとりあえずこれで良いことにして、外に出た。
カッと日差しが照りつける。うす暗い店内から出てくらんだ目に手をかざすと、小さな影がささささっと向かいの家の塀から隣の家の門柱の後ろに移動するのが見えた。
俺はもういっぺんため息をついて、ずんずんと道を渡った。
え。え。あ、とあっちこっち見回しておろおろしている。ざまあみろ。すぐ逃げられるような物陰なんぞないところまで待っていたのだから当たり前だ。
ずいとガリガリ君を突き出す。
「梨とソーダ。どっちだ」
「え……」
「溶ける。早くしろ。どっちだ」
袋についた白い霜がもう溶けて水が滴っている。
ツキムラトモコは下を向いて、小さな声で、梨、と答えた。
「だから、あのなあ」
真夏の公園でガリガリ君を食うのにはコツがいる。とにかく早く食う、それだけのことなんだが、食っているうちにもガリガリ君は溶けていくので、どこらへんがもう溶けて落ちそうか見極め、落ちるギリギリのところを見定めて一気にかじるのだ。俺は名人級だ。今にも落ちそうになる空色の氷の塊を受け止めながら、ガリガリ君梨味をちびちびかじっているツキムラトモコを横目で見やる。
相変わらず脳天に突き刺さるような蝉時雨で、藤のしげった屋根の下のベンチでもコンクリートの照り返しで暑いことには変わりない。なのにツキムラトモコの手のガリガリ君はちっとも溶けていないし減っていない、ように見える。むしろ前より冷えて固まってるような。半袖のブラウスから出た二の腕が妙に細くて青いくらい白くて、俺はつい目をそらす。
「わけわかんねえよお前、毎日毎日。言いたいことがあるんだったらちゃんと言えって、俺、何回も言ったよな。ていうか、言おうとしたよな。なのにそのたんびに水ぶっかけられた猫みたいに飛んで逃げやがって」
ツキムラトモコは小さい声で、すみません、と言った。
「すいませんじゃねえよお前。いやちょっと待て、俺は怒ってるんじゃねえんだよ。つかああもう、泣くな。俺はなんでそうお前が俺にへばりついてくんのか訊いてるだけだ。なんか用事か。それとも他に理由があんのか。どっちだ」
ガリガリ君梨味がちょっと震えて、ぽつりと水滴を一滴落とした。おかっぱの真っ黒な髪の下で、ぶっとい縁の伊達メガネの奥で、涙のしずくが膨らんで震えている。
ここしばらくで俺はツキムラトモコについていろいろ知った。というか、聞かざるを得なかった。
とりあえず手近な情報源はヤマダだった。
「あーツキムラ? あの幽霊女な」
ヤマダは椅子にもたれた足をがたがたさせながら言った。
「何おまえ知らねえの? 有名だぜ。けっこう。顔は悪かないんだけどさー、なーんか暗いっつか浮いてるっつか、毎日暗い顔して教室のすみに座ってるばっかで、ほっとんど人としゃべらねえの。授業終わったら幽霊みたいに消えてるし。口きいたやつにはハイとかイイエとかしか返事しねえしいっつも眼がどっか泳いでるし」
「……事情はわかった。しかしヤマダよ、幽霊女ってのはなんだ? それだけ聞いてるとただのネクラな女ってだけに聞こえるんだがどの辺が有名なんだよ」
「おう、そこだよ」
ヤマダは目を輝かせて身を乗り出してきた。どうもこいつは自分がモテ男だと勘違いしている節があって、モテ男たるもの校内およびあらゆる女子に関する噂に通じておくのが当然だと思っている。自分ではDAIGOに似てるとか自称してるがぶっちゃけ俺はダウンタウンの浜ちゃんのほうが近いんじゃねえかと思うがまあそれはいい。
「あいつはな。手出すと呪われる、って噂があんだよ」
「呪われるう?」
また不穏なワードが出てきた。けどあのトラック事故を生き延びた身としては素直に笑えない。声をひそめたヤマダにあわせて俺も声を低める。
「おう。まあそういうネクラで浮いてる女だからさ、中学の時とかもいじめようとした奴が多々いたわけよ。あいつ携帯とか持ってないし家電かけても家族しか出ねえから、直接行動に出る奴が多くてさ。昔ながらのイジメってあれ。机に落書きしたり、教科書隠したり、上履きゴミ箱に投げ込んだり」
俺は顔をしかめた。体育館の暗がりで取り囲まれていたあいつの姿が蘇ったからだ。
ついでにスカートの裾から出ていた真っ白な細い足も──ってそれはいい。妄想をおっぱらって俺は秘密めかしたヤマダの声に耳を傾ける。
「したらな。そいつにイタズラしようとした奴らが全員災難に遭ったらしいんだよ。さすがに死ぬまでいった奴はまだいないらしいけど、俺らの知らないところでいるんじゃないかって話じゃある。俺の知ってるところじゃ」
ばっ、と手を前に出してヤマダは指を折った。
「ひとつ。ツキムラトモコの靴を隠した生徒は階段から落ちて骨折した」
「は……?」
いや待て。それはただの偶然ってかたまたまそうなっただけじゃねえのか。階段から落ちて骨折るくらい、運が悪かったら誰でもあるだろ。
ヤマダはますます声をひそめて続ける。
「ふたつ。ツキムラトモコの弁当に砂まぶして戻そうとした生徒は教室から出ようとしたところでなにもないものに頭をぶつけて入院した」
「え……」
『なにもないもの』ってどういうことだ。ってか、なにもないんだったら頭ぶつけようがないじゃんか。
「文字通り『なにもない』んだよ」
俺の当然の問いにヤマダは偉そうに腕を組んだ。
「頭をぶつけるようなものも落ちてぶつかったようなものもまわりにはいっさいなかったんだが、そいつはツキムラトモコの弁当抱えたまま見つかって、そのまま病院送り。頭蓋骨にヒビか入ってたらしい」
……なんか話が怪しくなってきた。
「まだあるぞ。みっつ。ツキムラトモコの机に落書きした生徒は翌朝、自分の顔にむちゃくちゃにマジックで落書きした姿で、泣きじゃくりながら血が出るほど必死に、ツキムラトモコの机を磨いてたらしい。教師やクラスの生徒がいくら止めてもものすごい力で振り飛ばしてやめようとしなかったんだが、ツキムラトモコが来て『もうやめて』と一言言ったら、あっさりその場に気絶して倒れちまったんだと」
ちょっと言葉がなかった。ヤマダは恐ろしそうな顔をしてるが眼がらんらんと輝いてる。楽しくて仕方ないらしい。
「もちろんそいつになんで自分がそんなことしてたかの記憶はない。あとで病院で目が覚めても、ツキムラトモコの机に落書きしてこれでよし、とマジックのキャップをはめたところで記憶が途切れてるそうだ。そこから自分の顔に落書きしたことも、指が削れて血が出るまで自分で落書きした机をきれいにしてたことも、当然なんにも覚えてなかった」
それはちょっと……なかなか壮絶な気がする。
「あとよっつめ。これがちょっと事件でな。ツキムラトモコを……なんだ、その、強姦しようとしてたグループがまるごと行方不明になった」
……え?
「そいつらは中学じゃなくて、別の高校のタチの悪いやつらが集まったチームだったらしいんだけどな。ツキムラトモコの噂を聞いて、まあなんだ、肝試しもかねてみたいな気分で幽霊女をどうこうしたらどうなるかって仲間内で盛り上がって、下校途中のツキムラトモコをバイクと車で拉致ったんだと」
「おい。それ犯罪じゃねえか」
「そうなんだけどさ。まあ聞けよ。翌朝、泥まみれの制服姿のツキムラトモコが学校に現れて、教師に近くの山んなかのある場所を伝えた。どうやらそこに車で連れて行かれてたんだが、どうやったのか脱出して、自力で帰ってきた。靴も履かずに泥まみれ、木の葉や蜘蛛の巣まみれだったらしいが。で教師と警察があわててそこに行ったんだが」
ここぞとばかりにヤマダは鼻息を荒くしてぐっと声を低くした。
「……誰も、いなかったんだよ。そこには」
冷たい指がそっと襟元に差し込まれたような気がした。背中全体に冷たいさざ波が走って、熱気のこもった夏の教室の空気がいきなり急降下したようだった。。
「──誰もいなかったって、そりゃ、逃げたんだろ。拉致した相手が逃げたのにいつまでもそんなとこにとどまってるバカは」
「まあそりゃいない。けど、ただ行方をくらましただけにしちゃ様子がおかしかった。
そこは古い倉庫かなんかの跡地で、そいつらはそこでなんかいろいろ他にもやらかしてたらしいんだが、タバコやらスケベ雑誌やらナイフやらバールやらヤクやら発禁もののAVやら、とにかくヤバいもんがあっちこっちへ無我夢中で放り投げたみたいにばらばら散らかってる中で、壁に血しぶきが飛び散ってて、壁に必死で引っ掻いたみたいな跡がたくさんついてて、で、首吊り縄が一本、その真ん中にぶらんと下がってた」
声がうまく出なかった。
俺は二、三度咳払いして、ようやく言った。
「まあ……それは……その……あんま、気持ちはよくないな」
「特にその首吊り縄に血がこびりついてたとなるとな」
とどめとばかりに言い放ったヤマダに、俺は言葉をなくした。
固まってる俺に、ヤマダはにたあ、と厭な笑い方をした。こいつ、こんなに性格っつーか趣味悪かったのか。つきあいを考え直した方がいいかもしれん。
「ま、俺が知ってるのはあくまで噂レベルだからな」
ちょっとやりすぎたと思ったのか、ヤマダは少し身を引いて膝の上で手を組んだ。
「どっかで話を盛られてるだけなのかもしれんが、とにかくそういう話だ。その不良どもが帰ってこなかったのも確かだ。警察は山狩りもしたし、手配書も回した──ま、もともといろいろ目をつけられてた連中でな──んだが、どこへ行ったんだか、きれいさっぱり姿を消してた。そのうちの一人を見かけた奴もいるってことだが、別人みたいに見る影もなくなってて、百歳の爺さんみたいに背中を曲げてホームレスの中にまじってたそうだぜ。『化け物。化け物』ってうわごとみたいに呟きながらな」
「……おい。話盛ってんのはてめえじゃねえだろうな?」
「さあ、どうだろうな?」
ヤマダは童話のチェシャ猫みたいににたあっと笑って両手を広げた。
俺はなんだか薄気味悪い気分で中学からのツレを見た。別に親友ってほどでもない、たまたま通学路が同じで毎朝いっしょになるものだからそのままつるんで高校まで来たが、そういえば、俺はこいつの何を知ってるのだろう。名前。家。あとは?
けどこいつが口に出してる以上のことなんて俺に知る方法はあるだろうか? ほぼ五年はバカ話したりどつきあったりしてるはずなのに、こいつが心底何を考えてるかなんて、ちっとも気にしたことはなかった──
「──ま、そんなこんなが重なってな。ツキムラトモコは触っちゃいけないもの、って風潮が自然とできてたんだわ。中学三年間それで過ごして、高校に入ったとこで噂を知らないやつがいたんだろうなあ。まあミサキアヤカ? あいつならそんな噂聞いたら、かえって面白がってちょっかいかけそうな気はするけどさ。いちおうおんなじ中学から進学してきた奴もいたから、ある程度話は伝わってるんだろうけど。ツキムラトモコ自身は高校入っても相変わらずで、幽霊女つらぬいてたらしいけどな」
ツキムラトモコに友人はおらず、近づく人間もいない。怪しい噂のまつわりつく幽霊女に近づきたいやつなんているはずもない。ましてや妙なデンパ発言を発する眼鏡女。ツキムラトモコ自身も人とのつながりを避けるように、教室でもひとり俯き、文庫本に顔を埋め、声をかけられればハイかイイエだけで答え、放課後は身をすくめて、ただ溶けるようにいなくなる。だれにも見えない、触れない、幽霊女。
俺のうしろに『憑く』ようになるまでは。