ミギノコエ
帰り道でもなんとなく気分はよくなかった。コンビニ寄ってこうぜというヤマダの誘いも断って、俺はひとりでぶらぶら歩道橋を渡り、小学生みたいにぽつんぽつんと階段を下りていった。
ミギノ、オト。ミギノオトに気をつけて。
「なんだあいつ」
独り言を言っても当然気分がよくなるわけじゃない。俺はリハビリ中の足を折った間抜けなみに自分がしっかり歩道橋の手すりにしがみついてるのに気づいた。腹が立った。手すりは右側。防音壁がそびえ立っていて、下からは国道を走る自動車の音が聞こえてくる。
どうってことないいつもの帰り道。
「なんだよ、右の音って。なんにも聞こえねえよ」
意識して手すりから手を離して残りの数段を飛び降りた。
ちょうど歩いていたどっかのおばちゃんとぶつかりそうになって睨まれたけど、ちょっと頭だけ下げて歩き出す。後ろからなんか最近の若い子はとかおきまりの文句が聞こえてきたけど気にしない。そいつは「後ろの音」であって「右の音」じゃないから。
……ミ
ぎょっとして立ち止まった。
その音は小さいくせに変にはっきり聞こえた。古いベニヤ板が軋もうかどうしようか迷って途中でやめたみたいなすごく中途ハンパな音だ。しかもそいつは右からじゃなくて左から聞こえてきた。
……ミキ。ミィキ……
また聞こえた。
まわりの自動車の音とかが急にぺちゃんこになって、そいつだけが盛り上がってくる感じだ。なんていうか、そう、ジョーズの映画で海面が盛り上がって、何も気づいてない犠牲者にサメの背びれがスルスル近づいてくる感じのあれ。
でもそいつは左から聞こえた。右の音じゃない。
……ミキ。ミィキィ。ミィギィィィィ……
左の耳にだけ直接音が投げ込まれてくるみたいにビンビン響く。映画だったら波の下のジョーズの目からのカットで、ビキニのねーちゃんの尻がもうすぐそこなあたり。
頭の中でいやな音楽が盛り上がってきた。いつのまにかびっしょり背中に汗をかいている。右の音……
でもこれは左から聞こえる。
右の音。
みぎ。
……ミィギィ。ミギィィィィィ……
ぞわっと全身の毛が逆立つ感覚といっしょに俺は頭を殴られた感じでひらめいた。
同時に、その場から思いっきり跳んで、歩道の一番はしにへばりつく勢いで潜り込んだ。
ほとんどまばたきする間もなく、ものすごい質量と爆風と頭の中をしっちゃかめっちゃかにかき回す轟音が塊になってつっこんできた。
ちぎれ飛んだ柵が近くまで飛んできてガランと転がった。俺はカバンを抱えたままその場で固まり、目の前でシューシュー煙を上げている鋼鉄とゴムの塊を凝視していた。
くそでかいトラック。前面が潰れて車体がひん曲がってる。積んでた荷物が歩道になだれ落ちてる。鉄骨とコンクリートブロック。それがそういうもんだというのに気づくのに数秒かかった。脳味噌が油に浸かったみたいにツルツル滑って動かない。
「おい、大丈夫か?」
ほとんど音が消えていた世界に声が戻ってきた。カバンをかかえて溝の中に座り込んでいる高校生に、ようやく誰かが気づいたらしい。
頭の痛くなるような警笛と怒鳴り声が響いてる。遠くから警察のサイレンがこだましてくる。トラックの運転席のガラスは真っ白にひびわれて、ハンドルにうつ伏せた人影はうっすらしか見えない。内側から誰かがペンキをスプレーしたみたいに赤い色が散ってる。
ガソリンの臭いとゴムの焦げた臭い。誰かが俺の腕をつかんで助け起こそうとしてる。やめてくれ痛い、と言いたいが声が出ない。
喉はカラカラで、でもそれはもうちょっとで暴走トラックに巻き込まれてミンチになる運命を危うく避けられたからじゃなくて、俺がつい一秒前まで立ってたとこに突き出た、紫色の腕を見てたからだ。
そいつは四つか五つある関節と、十本以上はある指とをうごめかせて『ミギィィィ……』と悔しそうに鳴き、ゆがんだホイールとアスファルトのタイヤ跡の間にしゅるっと吸い込まれて、見えなくなった。
それからのひと騒動はあんまり思い出したくない。とにかく最終的には俺はちょっと膝小僧あたりに青あざを作っただけでほかにはケガ一つなく、警察になんべんも同じ話をさせられ、病院に飛んできた親父はむずかしい顔をして俺の肩をぎゅっと抱え、母ちゃんが俺に抱きついて泣き、サナエが怒りながら泣き、俺はとことん恥ずかしい思いをしたけど内心それどころじゃなくて、頭の中ではあの眼鏡をかけた女子のガラスみたいな目がぐるぐる回る渦の中心からじっとこっちを見つめてた。
『ミギノコエ』。
あいつは──知ってたのか?
翌日学校へ行くのはかなり勇気のいることだった。また『ミギィ……』っていうあの音っていうか声が聞こえてくるんじゃないかと一歩ごとに耳をすませていたけどなんということもなくて、でもさすがに昨日の歩道橋は避けて遠回りした。
遠くから見た歩道橋は階段の下がぐちゃぐちゃに潰れて、赤い三角コーンと黄色いバーとブルーシートに囲まれてた。警察がまだいて、何か調べてた。誰かが置いた菊の花束があったけど、もしかしたらあれは俺のためのものになったのかもしれないと思うとあらためて寒気がした。それからまたあの紫色の手を思い出した。生きた海草かタコの足みたいにひゅるんと隙間に吸い込まれて消えたあれのこと。
「よっ。おはようさん」
いきなり後ろからどかっと肩をたたかれて俺はとびあがった。ヤマダのいつものへらへらした顔があった。
「なに、なんか昨日えらい目にあいかけたらしいじゃんよ。生還おめでとーってか? てか、マジ大丈夫なん?」
「大丈夫だよ。なんともねー。そこ、離せってば」
ぎゃいぎゃい言いながらよたよた歩く通学路は悪夢みたいにいつもの光景だ。クラスメイトが何人か通りかかって、声をかけてきたり横目でちらっと見て通ったりするけど、どれもこれも頭を素通りした。俺が探してるのはたった一人だった。
そいつは校門のとこで俺を待ってた。
俺は足を止めた。
「わり、ヤマダ。俺コンビニでパン買ってくるわ。今日弁当もってきてねーんだ」
「あ、そう? んじゃ俺先に行くな。あとついでに早売りのファミ通出てたら買っといて」
早くしろよー、とヤマダはひらひら手を振りながら校門に入っていく。俺は校門の柱の陰に小さくなってるそいつのところへずかずか歩いていく。俺が近づくとそいつはますます小さくなり、消えてしまいたいような顔でうつむいたけど、耳のとこがまっかになってるのを見るとなんかこっちまで妙な気分になった。
「……怖がんなくていいよ。怒ってねーから」
柱の隙間に身体を押し込んでしまいたそうなそいつに、俺は言った。できるだけ優しく。なんといっても死なずにすんだのはたぶんこいつのおかげなんだし。
女子はおずおずと頭をあげた。ネコの前に出た子ネズミでもあんなに震えないと思う。黒ぶちの大きな伊達メガネの奥から、こぼれそうに見開いた目がこっちを見ている。足首に巻いた白い包帯が目についた。あ、手当したのか、とぼんやり思う。
「お前、……」
そう言ったところで言葉につまった。何をどう訊けばいいのかわからなかった。だいたい何がどうなってるのか俺にはさっぱりわかりゃしないのだ。わかってるのはミギノオトと紫色の手と、こいつがそれを警告してくれた、そのことだけで。
「あの」
ぎゅっと拳を胸の前で握りしめて、そいつは言った。
「あのあたし。見たんです。っていうか、見えるんですそういうの。気持ち悪くてごめんなさいだけど見えたんです先輩の肩にアレがくっついてるの。ああいうのは気づかれてるってわかるといったん逃げて別の機会をねらうんです。だからわかりづらい言い方しかできなくてあたし。すいませんもっとわかりやすく言えばよかったですでも安心しました先輩が無事でああいうのは一回のがした相手はしばらくねらわないからああでも本当によかった先輩が無事でほんとにあたしもしなにかあったらどうしようって心配でほんとにあのどうしても」
「ちょっと待て」
だんだん早口になってきて何を言ってるのかわからない。手をあげると、そいつは殴られると思ったみたいにびくっとして口を閉じた。俺はため息をついて手をおろした。
「……つまり、お前は俺になんか変なものがくっついてるのを見たと」
両手でぎゅっと口をおさえながらそいつはこくこくこく、と何度も頷いた。
「で、そいつが俺に何か悪いことをしようとしてるのに気づいて、警告しようとしたと」
こくこく。こく。
「……そっか」
なんて言えばいいのかよくわからない。俺はあー、とかうー、とかごにょごにょ唸りながらがしがし頭をかいた。
だいたい俺は幽霊とか信じてない。これは前にも言ったとおりだ。バッチリ見ちまったアレがなんだかわかんないが、まだちょっとそれを処理し切れてないってえかなんてえか、とにかくこの小柄でびくついた眼鏡娘が俺になんかをしてくれたらしいのはうすうすわかるが、何をどう言っていいのかいまいち見当がつかない。
「……あー、そんじゃな。早く教室行けよ」
あきらめて、俺は背を向けた。俺も行かないと遅刻する。
「またミサキアヤカみたいなのにつかまんじゃねえぞ。俺がいつでも入っていけるわけじゃねえんだからな」
「あっ、あの、あのっっ」
数歩歩きかけたところで後ろからあわてた声が追いかけてきた。
「あの、あたし、ツキムラです。一年A組ツキムラトモコ」
眼鏡におかっぱがぺこっと頭を下げる。白い夏のブラウスが眩しい。細い足首に真っ白な包帯。学校指定のぺたんこの靴。白い靴下。白い肌。
「あの、よろしくお願いします。先輩」
「は?」
よろしくって、何がよろしくなんだ?
思わず振り向いたけどけどもうそこにはツキムラトモコの姿はなくて、予鈴が遠くから響いてきた。やべ。
とりあえずいろんな疑問はおいといて、走り出すしかない。
──とまあ、そんなわけで俺の、ツキムラトモコに『憑かれる』日々が始まったのだ。




