十万トン級の宴―戦艦「大和」1947―
戦艦創作大会2013秋 参加作品です。
短編冒頭部分のみ物語形式、あとは説明文形式としています。
楽しんでいただければ幸いです。
――西暦1947(昭和22)年4月12日 太平洋上
「全艦左砲戦、撃ち方用意!」
戦闘情報室(CIC)から発せられた号令は艦内に即座に通達された。
空調が低い音を立てる中、男たちの汗が醸し出すほんの少し引きつるようなアドレナリンの匂いがゆっくりと満ちていく。
水圧装置と電気の二重駆動となっている回転装置はその間にも1秒間に5度半という高速で左へ回転していった。
同時に、回転する多面体を押しつぶしたような形の「砲塔」は1基あたり3門が連ねられた主砲の鎌首を群青の水平線に向けてもたげはじめた。
命令を下した人間が「艦長」と呼ばれることからもわかるようにこのフネは軍艦だ。
暴力をもって暴力を制し、この日の本の国にあだなすものを討ち果たすことをその存在理由としている。
中でも、この艦は特別製だ。
330メートルを超える全長、中央部にはスマートな天守閣のような艦橋とそれを飾る簪のような光学測定装置とレーダー(電探)アンテナがあり、その前後を中央に向かって2つずつの二段に分かれたひな壇と4基の主砲塔が同じく前後に3門かける2段ずつ――合計12門の巨大な主砲を備えている。
音速の3倍に達しようかという1発2トン以上の巨大な砲弾を放ち、「敵艦」の装甲を貫く。
敵のあらゆる攻撃から身を守るための分厚い装甲と、近年脅威を急速に増した航空機から身を守るための大小の対空火器を全身にちりばめた強大なる海の姫武者。
それがこの戦艦「大和」の存在意義なのである。
「全艦、準備状況知らせ。」
艦内各所に通じたマイクを手に、艦長が短く言った。
この「大和」は旗艦、すなわち艦隊司令官である提督の座乗する艦だ。
近年高度化が進む艦隊砲撃指揮の系を統制する役割がある。それらが正常に作動しているかの確認を「チェックリスト」――これらの用語は友邦である大英帝国から輸入されたものがほとんどだ――に従って行っているのである。
「観測より報告、敵艦隊位置に変化なし。距離3万で変わらず。」
「自動追尾機構正常に作動中。」
「弾着観測機構、リンク正常。観測機周囲250海里に敵性戦闘機なし。」
「戦闘統制機構、正副予備、すべて正常です。」
室内各所や壁に設けられたスピーカーから打てば響くように返答が返ってきた。
この部屋はバスケットコートというより中規模な銭湯といった方が日本人である艦長にはなじみやすい。
事実、ききすぎなくらいの冷房がなければブラウン管や各種計器で埋め尽くされたこの部屋は情報とともに熱で飽和してしまうことを彼はしっていた。
「よし。」
艦長――三上作夫大佐は、ほんの少し目を細めた。
亜熱帯であるために着ているだけの第3種常装(半袖シャツの艦内勤務着)であるにも関わらずじんわり汗がにじみ出てくる感覚を味わう。
広島県福山の出であり、海の暑さには慣れている彼でも、今この瞬間ばかりは緊張している。
先の第2次世界大戦で駆逐艦隊を率いて実戦に参加している彼でも、いや実戦経験者であるからこそ緊張するのである。
彼はゆっくりと「お猿の腰掛」に坐している男の方へ振り返った。
CICの中央部には、なめらかに少し床面が盛り上がった部分がある。
そこにはこの部屋のそれより少し大きな黒い革張りの椅子があり、そこには一人の初老の男性が腰かけている。
現代の海戦では、艦橋からすべてを見渡して指示を出すのでは遅すぎるほど大量の情報が、大量の艦艇と雲霞のごときという形容詞がふさわしい数の航空機とともに飛び交う。
だからこそ情報を集約するのに特化したこの部屋に提督と呼ばれる指揮官は控えているのだ。
三上艦長の視線を受けた男――面長でどこか農学部の教授のような男、連合艦隊司令長官 長谷川清大将は笑みを浮かべ、頷いた。
「よし。はじめよう。」
1905年の戦艦「三笠」艦橋、東郷平八郎提督の背後でバルチック艦隊との距離を測り続けていた男のこの一言で、海戦ははじまった。
「撃ち方はじめ!」
「うちィかたはじめぇー」
「撃ぇーっ!!」
号令が下され、やや間延びした復唱と気合の入った返答がスピーカーから響く。
と同時にCICから40メートル以上上方の射撃指揮所で引き金が引かれた。
戦艦「大和」の主砲、47口径51センチ砲12門が一斉に火を噴き、計27.6トンという重爆撃機や戦車に匹敵する砲弾が音速の2倍以上という速度で沖縄の空へ飛翔していく。
ほぼ同時に、「大和」に続く艦艇、すなわち日本帝国海軍の誇る12隻の主力戦艦群もまた砲弾を放っていた。
その弾道の先にいる目標は、この30年あまり前からまったく変わっていない。
【「大和」型戦艦誕生の経緯・性能】
戦艦「大和」型 性能概略
全長:338.7メートル
全幅:54.6メートル
基準排水量:11万210トン
満載排水量:12万8428トン
速力:31.4ノット
機関:艦本式タービン・同ディーゼル混載 4軸(27万2400馬力)
航続距離:18ノットで1万6000海里
主砲:47口径51センチ砲 3連装4基12門
両用砲:60口径15.5センチ砲連装2基 単装備4基
対空砲:長12.7センチ高角砲 連装20基
57ミリ機関砲 単装6基
ボフォース40ミリ機関砲 3連装37基
20ミリ機関砲(長砲身) 連装40基
12センチ対空30連噴進砲 10基(のちに撤去)
――戦艦「大和」は第2次世界大戦前に成立した日本の「第5次海軍整備計画(マル5計画)」によって建造された超大型戦艦である。
同型艦は「大和」「武蔵」「信濃」「越後」の4隻で、これは3隻が作戦行動・訓練・船渠上での整備・予備という役割を果たし常に1隻が作戦行動可能とするための措置である。
ただし実戦となれば4隻が1つの戦術単位となる「戦隊」として運用されるのは日露戦争の昔から変わっていなかった。
全長は338.7メートル、全幅54.6メートル
基準排水量11万210トン、満載排水量12万8428トン。これは文句なしに世界最大であり、アメリカ海軍が建造した「ニューヨーク(Ⅱ)」級戦艦の8万2千トン級を大きく上回る。
この巨体は、新開発された97式47口径51センチ砲12門を搭載するためのものでありこれに半自動装填装置や大量の対空火器を搭載し予備浮力を確保するためにこれほどの巨体となった。
1937年に日本海軍が保有していた戦艦群は「金剛」型(霧島)「長門」型(長門・陸奥)「加賀」型(加賀・土佐)「赤城」型(赤城・高雄)「紀伊」型(紀伊・尾張)「甲斐」型(甲斐・三河)の計11隻。
これらは高速戦艦に改装された「金剛」型の以外は第一次世界大戦中の八八艦隊計画によって建造が開始された戦艦群である。
ジュネーヴ海軍軍縮条約によって新型戦艦の排水量が4万5千トンに制限されたことによって主砲を16インチ(41センチ)へと制限された日本海軍は、とりあえずはこれで満足した。
戦没した「金剛」型以下7隻もの戦艦群の代償として認められた建造中の戦艦たち――すでに進水していた「赤城」までの戦艦群は十分に強力であったし、対米7割半という海軍保有枠に加え日英独三国同盟の成立は安全保障環境的にも満足すべき成果であったためである。
とりわけ米海軍の主力となる戦艦群が主として36センチ砲装備であることは日本海軍の質的優位を保証するものであった。
しかし、締結後まもなく発生した1924年の関東大震災とその結果としての艦隊整備一時凍結は日本海軍に焦りを生む。
米海軍は大恐慌下にあっても旧式艦を積極的に退役させて代艦を建造し続けたのだ。
さらに、第2次ロンドン条約会議の流産と無条約時代の到来、そして米ソ蜜月ともいわれる時代に誕生した両国の海軍大拡張計画は日本海軍を恐慌状態に陥れたともいわれる。
第1次・第2次ヴィンソン案とスターク案と呼ばれるルーズヴェルト政権下での一連の海軍拡張の結果新造される戦艦群は合計22隻。
加えて、ソ連は10隻の16インチ(41センチ)砲搭載戦艦を建造するという海軍再建計画を進めていた。
最悪の場合、これらの合計と日本海軍は戦わねばならない。
しかも、パナマ運河の大拡張計画が失業対策の一環として実施されていた。
日本海軍は、条約型戦艦となった「紀伊」型(4万5千トン 41センチ砲3連装3基)に続き、1936年には無条約時代を待ってその拡大発展型となる「甲斐」型戦艦(6万9千トン 46センチ砲3連装3基)を送り出したもののこれら米ソの新型戦艦群に対抗するためにさらなる大型艦の建造を必要としていた。
幸い、経済発展の結果として建造可能な国力と港湾は有していた。
さらに、「甲斐」型の建造にあたり試作された艦砲の中には45口径・47口径・50口径・52口径・55口径の各51センチ砲が存在し十分な熟成が加えられていた。
こうして、1936年から海軍艦政本部において検討が開始され、翌1938年には設計案がまとまった。
全体的なコンセプトは、米海軍が建造するであろう8万トン超級の18インチ(46センチ)砲搭載戦艦やそれをもとにするであろうソ連海軍の新型戦艦を圧倒し撃破すること。
そのために、主砲は12門と多数の搭載が決定。
(検討されていた56センチ砲8門搭載や53センチ砲10門搭載はこれにより断念)
遠距離砲戦ではなく敵の懐に切り込み中距離で大量の弾薬を投射することにより短期間のうちに敵主力艦を無力化することを目標とし重装甲で艦体を覆う。
同時に、威力を増しつつある航空機の脅威に対抗すべく喫水線下の防御と対空戦闘能力、同時に空母機動部隊に随伴でき、かつ敵の懐に素早くとびこめるよう速力についてもこれが重視されることになった。
こうしたコンセプトに基づき、主砲には砲身の寿命と性能を考慮した47口径51センチ砲を採用。
遠距離射撃性能を加減するかわりに中距離から近距離での打撃力を考慮して「96式特イ号」大重量徹甲弾(米軍におけるSHS)を採用し、かつ半自動化された装填機構を採用することとなった。
また、第2次アルジェリア紛争におけるフランス人民海軍との間の戦訓に基づき、英国製の電子装備の全面採用にも踏み切り、それまで備えられていた射撃指揮・艦隊射撃統制装置の電子化と機械化がすすめられた。
この結果、1分間あたり最大3斉射(全門一斉射撃)という従来の倍近い射撃速度を実現しその射撃データを艦隊各艦と共有、さらには機械的な自動追尾をもこれを実現することができた。
対空戦闘能力については従来の25ミリ機関砲のみではなくスウェーデンからライセンスを獲得したボフォース40ミリ機関砲と57ミリ機関砲を中距離用に搭載。
新たに開発された長12.7ミリ高角砲を主力装備として搭載している。
高角砲においては砲塔への射撃指揮装置とレーダーの同時搭載こそ見送られたものの、統制用の射撃指揮装置には組み込みがなされ、各砲塔にも個別に射撃指揮装置を有することで同時多目標への射撃を可能とした。
こうした強力な装備を搭載し、かつ防御する船体には舷側510ミリ、主砲防盾770ミリ、という耐51センチ砲装甲を有している。
球状艦首の採用によって全長を削減するという手法は「甲斐」型と同様で、機関はディーゼルと蒸気タービンの混載となる。
この結果、速力は最大31.4ノットと空母機動部隊にも追随可能となった。
1937年度計画によって4隻、1938年計画によってさらに2隻の建造が計画、同年4月に大神海軍工廠において4隻が一斉に起工された「大和」型だが、1939年12月の第2次世界大戦勃発に伴い起工したばかりの5番艦と6番艦の建造は中止。
ドックをあけるために解体されるはずであったのだが、ドイツ陥落と米国との同盟関係が成立したことにより建造は続行との決断が下されることになる。
(なお、この際に空母への改装や建造中止を画策した海軍の航空派と統合幕僚本部との間で有名な「艦載機国力論争」が巻き起こったことを付記しておく。)
大戦中も戦訓を受けた改設計作業は続き、ベルリン解放の日である1944年6月に建造は再開。
1945年2月に1番艦「大和」は進水の時を迎えた。
戦後の艤装作業を経て1946年8月に就役。11月までに同型艦4隻がそろって艦隊に配備された。
【歴史的経緯】
――1947年4月。極東アジアでは第2次世界大戦後の勢力再編問題に端を発する紛争が発火点に達しつつあった。
日英独を中心とした「新連盟諸国」と、東アジア情勢へ介入を図ろうとするアメリカ合衆国の対立はわずか3年で再びの軍事衝突を生み出したのである。
そもそものはじまりは、これを遡ること35年前の中国大陸で発生した辛亥革命が思わぬ形で壮絶な内戦に発展したことにある。
清朝を倒すために行われた中国革命同志会による武昌蜂起後、最低限の統一を維持していた中華民国。
しかし初の国政選挙直後の1913年2月、大総統として権力を掌握していた袁世凱と政権を握ろうとしていた孫文の暗殺によってその統一はもろくも崩れ去ってしまったのである。
原因は袁世凱による内閣首班 宋教仁への懐柔失敗に端を発する国民党粛清計画とも、孫文による袁世凱へのカウンターともいわれるが、確かなことは強大な軍事力を持った旧袁世凱派と、各地の革命勢力がトップ不在のままで深刻な対立状態に陥ったことだった。
翌1914年、対立は壮絶な内乱に発展。旧袁世凱系軍閥と旧革命軍主力との激突で北京が灰燼に帰し、中央政府は消滅。
その後の各地の軍閥同士の戦闘や外国勢力の介入によって現在まで内戦は続いている。
ここに介入した国は主として5か国。
第一次世界大戦の隙をつき、列強諸国を出し抜いて北京系軍閥(済南政権)へと武器や資金貸与を開始し、主として華中から華北へと軍事力を送り込んだアメリカ合衆国。
華南を中心として南昌政権と呼ばれる諸勢力を傘下におさめた大英帝国。
陸伝いに内陸部から東トルキスタン、そしてモンゴルへと浸透を図ったロシア、のちにはソヴィエト。
同じく陸伝いに広東地方を中心に仏領インドシナ(ベトナム)から介入を図り広州政権を打ち立てたフランス。
そして、国防上ソ連へ対抗するため満州地方へとおそるおそる兵をすすめた日本帝国。
このうちフランスとソヴィエトは第2次世界大戦において共産主義政権が完膚なきまでに叩き潰されたために手を引いており、この戦力空白域が問題となったのである。
中でもアメリカ合衆国は問題だった。
何しろ、第一次世界大戦時に日本によるドイツ勢力圏への侵攻を非難し対抗介入したために結果的に欧州派兵が遅れ、まったくいいところなしのままで終わってしまった(ドイツ軍によるパリへの攻勢が成功し休戦が成立したまさにその時に第一波が上陸するという喜劇的な結末を迎えた)ばかりか、ロシア革命への干渉にかこつけて大軍を華北に派兵、諸外国の非難を浴びてついでに日本帝国との関係が悪化。
シベリアに干渉国家として成立した極東合衆国への影響力まで大きく失ってしまっていた。
こののち、新たに成立した国際連盟にも加盟できなかったアメリカ合衆国は、共産主義封じ込め政策をとった大英帝国とドイツ帝国とは裏腹にソ連へ傾倒。
その重工業化に決定的な役割を果たし、国際的な非難にもかかわらず中国大陸へと大兵力を張り付けた。
大恐慌の発生と、退役軍人の恩給支払前倒しを求めるデモから発展した革命未遂の騒乱を経ても、ソ連軍によるベッサビア(ルーマニア)侵攻までは一貫して親ソ派を貫いたのだ。
彼らからしてみれば、第2次世界大戦後の動きは「失われたトラウマの払拭」であるのだ。
対して、日英独の「新国際連盟」常任理事国家群としてはこうした積極的な米国の動きは傲慢以外の何物でもない。
とりわけ日本側の危機感は大きかった。
第1次世界大戦末期の欧州派兵と第1次独ソ戦争への協力、そしてその結果の陸海軍半壊という代償を支払って英独の巨大な経済圏に参入を果たした日本帝国。
大陸に敵対勢力が存在しない(極東合衆国や満州国などの干渉国家群によってソ連とは隔離されていたうえにドイツは青島を放棄していた)がために軍事力を限定しつつ経済発展に邁進。
1924年の関東大震災をむしろ契機として加藤友三郎内閣が積極財政政策を推進。
日本経済は加藤・浜口と続いた政友会内閣のうちに高度経済成長と称される右肩上がりの経済成長を続けた。
結果、1935年には世界第3の経済大国として名乗りを上げていたのだ。
そんな彼らにとり、大陸に親米かつ米軍の大規模駐留を許した統一国家が打ち立てられることなど、そしてベトナムやインドネシアなどの海上交通路の要衝をかっさらわれるなど許せることではない。
いや、百歩譲って許せたとしても自治領である朝鮮半島や本土へ編入したばかりの台湾を独立させよなど、内政干渉でしかない。
日本政府は戦慄した。
「こんなことを言い出すなど、米国はこれを機に日本を屈服させたいのではないか、と。」
それは部分的に正しかった。
大戦中の43年に死去したルーズヴェルト大統領はお世辞にも日本人に好印象を抱いていなかったし、そのあとを継いだウィンデル・ウィルキー大統領は、今や英国を抜いて世界第2にまで成長を遂げていた日本経済をその最大の脅威としてとらえていた。
より正確にいえば、英独に丸ごととりこまれることになった中東ペルシャ湾岸で続々と発見された超巨大油田群と日本経済、英国の世界システム、本土喪失以後一体化しつつある日独の科学技術、そして2000万トンを超えつつある巨大な日の丸商船隊の合体が、であるが。
試算によれば、1960年には日英独の三帝国の経済力の合計はアメリカ合衆国の80パーセントにまで増大する。
そして彼らは地上の陸地の7分の4を直接あるいは間接的にその勢力下におき、世界の海洋の70パーセントを管制下においていた。
さらに、日本から漏れ出た情報が彼らを突き動かしていた。
「日英独は膨大な予算を投じ、新型爆弾の開発を行っている。遅くとも1950年代にはこれが完成する見通し」
この超兵器が実用化されたのなら、もはや打つ手はなくなる。
米国政府は決断した。
――1947年1月、フィリピン・バシー海峡で発生した貨客船沈没事件を発端とし、日米はいくらかの外交的応酬のあとでそれぞれ「限定的戦争状態」を宣言。
それぞれの同盟国がこれに追随。
かくて、短くも激しい太平洋上での軍事衝突は開始された。
はい。というわけで「大和」型を極限強化してみました(ヲイ)
なんだか「モンタナ」級の51センチ版みたいになってしまいましたw
作中の三上艦長は実在の人物で、史実の天号作戦(沖縄への水上特攻)において軍令部出身ながら同行を申し出た一人です。
また、長谷川大将も同様に実在の人物です。
よく知られるように山本五十六や嶋田繁太郎が日本海海戦に参加していますが、長谷川大将は有名な「三笠艦上の東郷提督」の絵の後部、測距儀という左右に腕を伸ばした双眼鏡のような機械を覗き込んでいる図が確認できます。
その結果顔ではなく帽子姿のみが描かれていますが(笑
山本五十六氏のようなカリスマ性にはかなわないものの人望も厚く、かつ上層部からの評価も高い有能な将帥です。
そのため作中では古賀峯一長官の後任として海に出てもらいました。(史実でも第3艦隊司令となっており、その際にパネー号誤爆事件に巻き込まれています)