約束と改革
「……無理に笑わなくていいよ。その方が楽」
確かにその子は言ったのだ。
あのクラス替えから一週間、やっと自分のキャラを確立し過ごしていたというのに。優奈も光もいない。私はこのまま楽しく過ごせるはずだったのに、だ。
「別にそんなんじゃないし。私の勝手でしょ」
すべてを否定されたような気がした。私がやってきたこと、すべて。その笑顔が眩しいくらいで。
だから悔しかった。あんたに何が分かるのよ。私の気持ち、分からないでしょう?
教室を出て廊下を歩く。歩いて、歩いて――走った。泣きそうになってただ走った。ああもう最悪。
すれ違う人はみんな自分の教室へ戻っていく。当たり前だ、もう少しで昼休み終了のチャイムが鳴る。いいもん、どうせ次の授業は体育だし。保健室行ってました、で済むんだから。
私はそのまま走り続けた――
「おい、聞いてるか?」
光は私の顔を覗き込んで言った。
「……あ、うん」
その声でようやく我に返る。
「だからさ、その……あんまり無理すんなよ」
「何それ」
「お前はいつも一人で抱え込むだろ。なんつーか、見ててイラつくっつーか」
「は?」
「だから! ……たまには俺のことも頼れ」
なんだか吹っ切れたような気がした。そうしたら笑いがこらえきれなくなって、思わず吹き出した。
「あはは! 最初からそう言えばいいのに」
「うっせーわ」
そう言って光も笑った。
「……ねえ」
「ん?」
「光さ、なんか変わったよね」
「そうか? うーん、まぁこっち来てから変わったかも」
私もそうだったな。こっち来てから少しずつ変わった。
「でも、こっちで初めて会った時……全然違う人みたいだった」
来客の担当で光と会ったあの時。
「あーうん。こっち来てからわざと性格変えてたんだよ」
「え、なんで?」
「そうじゃないと、ここの空気に呑み込まれるような感じでさ」
「ふーん……」
なんか光って、色んな意味で謎。
「それにしても何で金髪にしちゃったの」
「黄氏の決まりなんだよ。リーダーは金に染めろって」
俺だって嫌だったんだけど、と光は苦笑いした。
――教室に入るのは少し勇気がいる。由美とかっていうヤツのせいで昨日は最悪の気分だった。
「おはよっ」
私は教室に入るなり大きい声で、なるべく明るく挨拶した。
「あ、鈴! おはよ~」
今まで何か話していた子達も挨拶を返してくる。私はそれに笑顔で対応した。
「おはよう」
席に着くなり斜め前の席から挨拶が聞こえる。――由美だ。まるで昨日のことを忘れたかのように話しかけてくるなんて。
私はそれを無視して教科書を机の中に入れる作業に集中しているフリをした。すると諦めたのか、由美は前に向き直って本を読み始める。……ざまぁみろ、私はアンタにこれっぽっちも興味ないんだっつの。
「おはようございます」
そうこうしている間に先生が入ってきて朝の会が始まった。
つまらない。中学生ってこんなにつまんないもんなのかな。毎日が普通で、それでも時間だけは過ぎていく。
私は朝の会が終わるまで窓の外を眺めた――
*
紺氏の都……いや、正確に言うともう黄氏の都になりつつある。
風花は大介の元へ向かうべく敵の領地に足を踏み入れていた。どうして裏切ったのかはもちろん、鈴の居場所も突き止めてやるつもりだ。
じゃないと秀広がうるさいし。と内心付け足してみるが、――結局あたしも鈴に頭上がんないのよね。
ここに来れば鈴がどこにいるのかの情報が得られるかもしれない。
「あの、すみません」
近くにいた男に声をかける。多分この人はここの警備なのだろう。
「なんだ」
あからさまに迷惑そうな顔しなくてもいいじゃんか、と思いつつ風花は続けた。
「ちょっと大介様に用があるんですけど、」
「ああ、入れ」
……え? そ、そんなあっさり入れていいわけ? あんた警備としてどうなのよ。とはいえ、こんな幸運もそうそうないのでありがたく入らせてもらう。少し進むと男は風花に目もくれず、どこか遠くを眺めるような目で警備を続けた。
それにしても、この警備。普通よそ者を簡単に入れないでしょうが。こんな簡単に入れるなんて思ってなかったから何か理由をつけて滑り込もうとしたのに。あたしの言葉を途中で遮りやがったな。
「……どこかしら」
戸がたくさんあるのは部屋がたくさんあることで、つまり便利なのだが大介を捜すには面倒だ。でも確か大介の部屋は奥の突き当たりで右に曲がって……そこから二番目だっけ?
紺氏の頃の記憶は少し曖昧だが覚えている。それを頼りにするしかない。
「ここね」
大介の部屋の前までたどり着き、深呼吸してから戸をたたいた。
「はい」
はい? え、「はい」って言ったの今? あの大介が?
「……風花です」
そう言いながら戸を開ける。
「…………風、花?」
大介は風花の顔をまじまじと見つめた。まるで、初めて会うかのように。
「風花です。聞きたいことがあって来ました。……答えてもらいますよ」
そして風花も大介を見つめた。お互いに何も言わず空白の時間が続く。長い長い空白の間、両方とも目を逸らすことはなかった。
――昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴る。私はため息をついて席を立とうとした。が、
「あ、鈴~。聞いて聞いて! あのね、四時間目の時にユウキ君と目が合っちゃったの!」
今にも飛びついてきそうな勢いで話すその子に、私は心底イラついた。……ったく、恋バナならよそでやれっての。しかしそれは胸にしまう。
「え~マジで!? よかったじゃあん!」
この子を敵に回すと色々面倒だ。私は例の愛想笑いでその場をしのいだ。
「何~? また恋バナ?」
今度は違う子が入ってくる。あ~、めんどくさ。
「えぇっ、違うってばぁ!」
いや、そうだろ。自分で切り出しといてなんだそれ。私のイライラはこの子に対して警報を鳴らしている。
「もう~、何テレてんのよぅ!」
とイライラを隠して茶化すことに専念する。
「テレてないし~っ」
「よ、ツンデレ!」
「ちょっとやめてよ~」
やば。なんかアホらしくなってきた。
「今度さ、告っちゃえば?」
「え~無理だよ!」
「大丈夫だって!」
アホらしいのでほっといたのだが、目の前の二人はそんなのお構いなく話し続ける。そーゆー無責任なこと言って、フラれたらどうすんだ。ショック受けてるところを立ち直るまで慰めてやるならいいけどさ。
「よーし、手紙書いちゃえ!」
私がボーっとしている間に、ラブレターを渡す方向へ話が進んだらしい。その子はもう一人の子に言われるがまま、メモ帳に手紙の内容を書き出していた。
「うーん……こ、こんなんでいいのかな?」
その子はおずおずとメモ帳を差し出す。
「何何? えーと、『ユウキ君へ』」
「ちょっと! 音読しないでよ!」
うるさいなぁ。黙ってろよ昼休みくらい。男子からそんな声が聞こえる。
「『いきなりこんな手紙を書いてごめんなさい。でもどうしても……』」
「やめてってば!」
もうバカバカしくて見ていられない。そろそろやめなよ、と言おうか迷っていたその時、
「ねえ、うるさいんだけど」
特に優しくも冷たくもない声。ただ由美のその口調はすごく冷たかった。
「うるさくて本も読めないし。みんな迷惑してるじゃん」
教室が一気に静まり、由美に視線が集中する。
「何よ、教室はみんなの場所でしょ? 私達にもその権利はあるじゃない」
「だから言ってるの。みんなの場所だからもう少し気を遣ってほしいって」
淡々と言い返す由美にその子達はまた反抗する。
「あんた何様? そういうのウザいんだけど」
「何様も何もあるの? 私もこのクラスの一員よ」
「そういう態度がウザいんだってば!」
由美に叫ぶと、その子達は教室から出ていった。教室の中になんとも言えない空気が流れる。
「……あ、それでさ……」
一つのグループが何もなかったかのように話し始めると、他の人達もそれぞれ動き始めた。
あーあ、めんどくさ。中学生って、こんなにめんどくさいもんなのかな。教室なんて狭いだけで、それでも私達はここから抜け出せない。
私は自分の席に戻って本を読むことにした――
「どういうつもりだ」
長い空白が終わる。先に口を開いたのは大介だ。
「それはあたしが聞きたいんですが?」
あたしがそう言うと大介は顔が強張った。
「……なぜ鈴との約束を破ったんですか? そうしてまで手に入れたいものはなんですか? 黄氏に何を脅されているんです?」
一気にまくし立てると、大介は風花から目を逸らして黙り込んだ。その背中があの日と重なる。
紺氏にお前のような奴などいらないと暴言を吐かれたあの日。数々の嫌がらせを受け、人知れず泣いていたあの日。そして、この組織に耐えきれず命を絶とうとしたあの日――
その時の寂しそうな悲しそうな背中を、あたしは何度見てきたことか。ねえ、あなただけは信じてたってこと、嘘じゃないのよ。でも分からない。今あなたが何を考えているのか、もうあたしには分からない。
忍び込むこともできた。物陰から様子を窺うこともできた。それなのにわざわざ会って話を聞きに来たのは、まだあなたを信じていたからなのに。なのにどうして裏切ったりするの?
「あなたの……あなたの目的はなんですか!?」
叫ぶと同時に涙がこぼれる。それを認めまいと自分の腰の刀を抜いた。
「あなたのしたことは決して許されることではない。あたしにとっても、紅氏にとっても……鈴にとっても! あなたのしたことは裏切り行為です!」
大介に刀を向けて叫び続ける。許しちゃいけない。ここで許したら紅氏は白旗を上げたも同然だ。そんなの鈴に申し訳ない。
「答えなさい。あなたの、あなた達の目的はなんなの!?」
鈴を奪ったその先に、何がある?
「…………平和だ」
「え?」
「私達はこの組織の平和を守るために戦っている」
平、和?
「どういう……」
「光様の計画だ。紅 鈴と結婚し、改革を進める。それこそがこの組織の平和だと」
……結婚? 改革? ふざけんじゃないわよ!
「本当にそれがこの組織のためだとでも?」
「ああ、光様のご命令だ」
「……馬っ鹿みたい。そんなの自分のためでしょ? それを平和だか改革だか知らないけど、勘違いもいいとこだわ」
「光様のことを悪く言うな」
何よ、さっきから光様って。そいつ、そんな偉いの? 自分の幸せのために鈴をさらっちゃう奴が?
「どうして黄氏に従うんですか。鈴との約束は忘れたんですか?」
「いや、覚えてるさ」
「じゃあどうして」
「光様には借りがある」
借りって……どんな? お金とか?
「紺氏の中での私に対する変な空気を変えてくれたんだ。紺氏をいい方向にまとめてくれた」
あいつがねぇ。そんな借りがあったのか。
「光様がこの組織の改革を始めると言いだしたからその手伝いもした。でもその改革はいいものじゃなかったんだ。止めようと思ったが光様には逆らえなかった」
それは見事に手のひらの上で転がされてるというか。そういうとこ、間抜けなのよねこの人。
「……じゃあ償ってください」
「償う?」
「あなたの裏切りを償ってください。鈴に悪いと思わないんですか?」
一番かわいそうなのは鈴だから。
「鈴は紺氏から戦いの申し込みをされた時、大切なものを守るためならと戦うことを決めました。あなた達のその場しのぎの言葉で」
あの時の鈴はとてもかっこよかった。それなのに。
「そんな鈴を……数少ない正当な武士を、あなたは裏切ったんです。この組織のためと言って。よく考えてください、そのことの重大さを」
そしてあたしは戸に手をかけて、最後に言った。
「あなたは正当な人間だった。……違いますか?」
一礼した後に部屋を出た。
*
――それは突然だった。
「あ、ごめ~ん。ぶつかっちゃった」
絶対わざとだろうというような声で由美に言ったのは一人の女子だ。ぶつかったと言う割にかなりのアタックだったが。
私はその様子を横目で見ながら他の子と話していた。由美があの二人の女子にケンカを売った――わけではないと思うがあれはケンカを売ったに等しい――時から、その二人は何かと由美に小さい嫌がらせをするようになった。
「……ねぇ、由美って何考えてんのか分かんないよね」
声を小さくしながら言ったのは、私と話していた子の内の一人だ。
「分かる分かる。なんか暗いよね」
同調したのはその隣の子。私はそんな会話を苦笑いで頷きつつ、ちらっと由美を見た。
いつも一人だし、休み時間になると本読んでるし。黙ってれば特に面倒なことにも巻き込まれないってのにさ。私には到底理解できない。
クラスの女子の中で由美の悪口を言うのは、もはや当たり前になってきていた。要するに、これがうちのクラスの「はずし」だ。これのターゲットになったら地獄だよなぁと他人事のように考えてみる。実際、他人事だけど。でもそう考えると私って人付き合いうまいのかも。友達いっぱいいるし、はずされる要素ないし?
だけど由美への仕打ちがエスカレートしていくのは、見ていて気持ち良くなかった。
その次の日も、そのまた次の日も。無視から始まり、悪口、軽い暴力。やっているのは主にあの二人だが、それに混ざって数人が由美に嫌がらせをしていた。
そんなある日のことだ。
「じゃあ、宿泊学習の班を決めます。男女でグループ作って」
冗談じゃねえよ、と心の中で毒づくがそれはもちろん先生には届かない。
「どうしよ……」
誰と組むかはどうでもいい。グループ決めほど面倒なものはないのだ。私は席を立ち、歩き出した。
「……あの」
「は?」
後ろから聞こえてきたのは由美の声だ。
「私とグループ、組んでくれない?」
嫌だと言いたい。あんたと関わると面倒だと言いたい。でもこのクラスでの私のキャラは「明るくて優しくて友達いっぱいの超イイ子」なのだ。理由なしに断るのはさすがにマズイ。
「私達、友達だよね?」
どうやら初めて話した時のやり取りを覚えていたようだ。あれを了承の言葉だと思うなんて、どこまでポジティブなんだコイツ。
「うん、もちろん」
しかしここでキャラを崩すわけにはいかない。たとえ私が由美とグループを組んだって、まぁ鈴は優しいから~で済むようなキャラを確立している。
私が作り笑顔で頷くと、後ろから声がかかった。
「ねぇ、鈴。私達とグループ組もうよ」
振り返るとあの二人の女子が笑っていた。その時、私は悟ったのだ。ああこれは、――私を試してるんだ。
由美の味方になって卒業まで大人しくしてるか、このみんなの輪に入って表面上のキャラを守り抜くか。これは二択だ。だとしたら、
「うん、いいよ」
答えは一つしかない。
「いいの? 友達なんでしょ?」
「うん、いいの。だってさ」
私は由美の方を見た。
「――友達なんかじゃないし」
女子の世界は壊れやすい。だけどそれを生き抜くには、たった一人の犠牲など気にしていられないのだ。それがキャラを守るためだとしても。だってそこに、正義なんてないから。
つまらない。めんどくさい。……どうでもいい。私はこの世界をこれからも生きていかなければいけない。それが女子の運命。
私は由美を見つめ続けた――
*
太陽はとっくに姿を消していたが、風花はまだ帰ってきていないようだ。冬は夜になるのが早いせいもあるのだろうか。時間が経つのは早い。
雪継は風花の帰りを待っていた。どんなに遅くても今日中には帰ってくるだろう。訓練中もずっとそんなことを考えていたので、集中しろと怒られた。
「お、雪継。いたか」
秀広が声をかけてくる。
「どうかしましたか」
「お前、朝に風花のこと捜してただろ。風花、もう帰ってきてるぞ」
「ああ、そうですか。ありがとうございます」
そう言ってすぐに廊下を駆け出す。
「転ぶなよー」
秀広からの注意が聞こえたが気にしている余裕はなかった。
風花の部屋へ向かう途中、雪継は足を止めた。――風花がいたからだ。
「風花!」
その背中に叫ぶと風花はゆっくり振り返った。そして雪継の顔を見て、
「何?」
「……話したいことがある」
「あたしはないわ」
「僕の話を聞いてくれないか」
そう言うと、「仕方ないわね、ちょっとだけよ」と風花は答えた。
「話って何?」
「……実は、……義徳の遺書が、あるんだ」
ゆっくり、その言葉の意味を確認するように雪継は言った。
「そうなんだ」
「驚かないのか?」
「ええ、だって前に領主様から聞いたもの」
そして風花は平然と続ける。
「どうしてあたしに嘘ついたの?」
「……え?」
「情報屋だからじゃなくて、義徳の遺書を読んで。それで初めてあたしが妹だって知ったんでしょ?」
領主様は一体どこまで風花に言ったのかと内心焦る。
「どうして遺書のこと言ってくれなかったの」
「……ごめん」
「もういいけどさ、別に」
そして風花は少し笑って見せた。
「……風花、ありがとう」
ありがとう。こんな自分を兄として認めてくれて。
「勘違いしないでよ。あたし、まだ怒ってるんだから」
まったくあんたはさぁ、とため息をついた風花は、
「なんで嘘つくのよ。あたしを傷つけないようにとか、自分が一番傷ついてるくせに」
口調は怒っているがそれが照れ隠しなのだと雪継には分かる。
「勝手に傷ついてんじゃないわよ。なんでも一人で抱え込むな、ばーか!」
散々叫んで風花は部屋へ駆け込んでいった。
……ああ、そういうことか。思わず笑みがこぼれる。風花が妹で本当に良かった。
雪継は久しぶりに空を見上げた。
“ねぇ、知ってる? 満月の夜って、願い事が叶うんだって!”
――でもやっぱり、恋人が良かったな。今さらそんな思いがこみ上げる。満月の夜に願い事が叶うなら。あの頃に戻りたい。まだ君と出会う前の頃に。なあ、叶えてくれよ。なんでも叶えてくれるんだろ?
だけど叶っちゃいけない。だったらせめて、この想いは。夜風に乗ってどこかへ行ってくれ。
本当に好きだった、と。
心の中で叫んだ想いは、きっと夜風がどこかへ届けてくれるだろうから。




