今日のみなさん
~今日のみなさん~
日常に溢れかえっているという表現は、ほんとに適している表現なのだろうか?
どうも僕には、徒然と過ぎていく日々をひとまとめに括る『日常』という言葉が気に食わない。
同じ日は2つとないのだから。
溢れかえっていると言ったって、それがどの日かに偏っている事だってあるかもしれない。
そんな言葉を作られては、とある1日に失礼じゃないか。
同じように学校へ赴き、同じような場所で同じような事を繰り返す…。
でもそれはその日の昨日と全く同じ行動だろうか?
一言一動寸分違わず同じと言えるだろうか?
同じ日なんてひとつもない。
これは単なる屁理屈だ。
屁理屈で語られたって、楽しくない。
しかし、こう考えればきっと楽しい。
―昨日と違った「楽しい」を、『今日』見つける。そうすれば、昨日とは違う日を過ごせたと言えるんじゃなかろうか。
◇
「はぁ。おなかすいたぁ」
そう言って、食堂に並んだ長机に突っ伏する真宵先輩。自然過ぎるその行動に、思わず頬が弛む。心地よい時間を生み出してくれる人は、とても貴重な存在だと思う今日この頃。
我らが學内應援団吹奏楽部は、今日もピースフルでワンダフルに活動中だ。
此処の大学に音楽室はない。
だから、部室のあるラウンジの下、学生食堂が僕ら吹奏楽部の練習場所。
講義のある日は午後6時から。土日は午後3時から。
食堂が配膳処を閉めた後から、ここはブラスバンドホールになる。
春の陽気がホールを暖め、心地よい楽器の音色がそこに居る人たちの耳をくすぐる。
だから、今の僕はだいぶ眠い。
それも、ちょっと前に遅めの昼食を摂ったのが原因で、確実に睡魔の腕は僕を夢の世界へ引っ張っていこうとしていた。
今日は土曜日。
こんな天気の良い日に家でだらけているのもアレだなと思って来てみたら、意外にも部員のほとんどが部活に顔を出していた。
真宵先輩と僕のいる場所から机を挟んで反対側。
そこでテューバを吹いているのはアリ先輩とユーダイ先輩。
皆がそう呼んでいるので僕もそう呼ぶ。呼ばせていただきます。
アリ先輩は中学校からテューバを吹いていたらしく、真宵先輩曰くとても上手いとのこと。入部届を出した日に会ったふくよかな人が彼であるが、なんというか、吹いている姿がとても様になっていて格好いい。
ユーダイ先輩は僕と同じで大学から。それも、今は職活の時期に備えるための期間だとかで、基礎合奏練習の時になるといつも遅れて顔を出すような多忙ぶりだ。それでも、休み―ユーダイ先輩にとってそうなのかは知らないが―の日にこうして練習に来ているのだから尊敬する。
ホールのド真ん中を陣取り、トロンボーンを手に特訓中なのは、ヤスフミとつかささんとトリニティ。
全員一年生。ほやほやだ。
しかし腕前は僕のそれとは比較にならない。
ヤスフミは九州の方の高校で、大編成クラスのバンドでファーストを任されていたという。寡黙だけれど、面白いキャラクターを持つ一面もある意外性NO.1の男だ。
つかささんは市民団体と部活のバンドを両立しながら過ごしていたらしい。周りからはバカとよくからかわれているが、それに準じる天然ぶりを時たま発揮することで有名だ。
トリニティ、はあだ名。理由はよく知らない。実は本名も知らない。とにかく彼女も、よく分からないが、アリ先輩曰く「ヤバい」とのこと。どうヤバいのかは全く不明。
ホールの入って左側の壁に向かってトランペットを練習しているのはヤックル。
これのあだ名の理由は、いつもあの乳飲料をかばんに忍ばせているから。
腕前に関しては、何年かブランクがあるらしく、本人曰く「ヤバい」らしい。
その理由もなんとなくわかる気がする。
同い年なのに年上のような風格を醸すヤックルは、やたらと説教臭い。
そのくせ説得力が無い。
でもいい人。
ヤックルの隣でフルートを高々と吹きならしているのは和明。
とんでもなく上手いのはド素人の僕にも伝わってくる。
乱れない運指、途切れない旋律、そしてその音量に裏付けされた迫力。
彼も一年生というが、経験の時間を照らし合わせることで露わになる、積み上げてきたものの違いというのを見せつけられている気がする。
彼は大学から、何かしらの拳法を習い出したという。
練習後の談話中、怪しげなステップを繰り返す彼を何度かお見受けする。
彼らとは反対側の壁際でクラリネットを演奏しているのはルルとみぃちゃん。
ルルは漢字では流れと瑠璃の瑠を合わせて「流瑠」と書く。とても綺麗な名前だと思う。
黒髪の似合う正真正銘の美少女だが、趣味嗜好がちょっと皆とズレていることも相まって、不思議少女という印象が濃い。
みぃちゃんは、皆がそう呼んでいるから呼ぶのであって、とにかくそういうことだ。
女の子を「~ちゃん」と呼ぶのは生まれてこの方初めてなので、少々戸惑っている。
でも名前を知らないのだから今はそう呼ぶしかない。
クラリネットを吹く前はオーボエを吹いていたらしい。
彼女はとても小柄だが、その静かな雰囲気と優しげな言葉づかいがとても大人っぽいのが印象的だ。
そして彼女らを教えているのはゆーゆー先輩ことユウカ先輩。
人一倍真面目な性格なのが初対面の時から伝わってきたが、実際のところとても優しく、おおらかな人柄だ。パートの中で一番経験が長いため、一年の二人に先輩はあれこれ教えている真っ最中だ。
その手前でオーボエを吹いているのが浮石先輩。意外にも部活内で唯一メガネをかけている先輩で、彼はよく居眠りをすることで知られている。そして実際、その現場をよく目撃する。今日は軽快なリズムでアラビアンな旋律を奏でている。休みの日には―といっても今日は違ったのだが―どこから持ちだしてきたのか、よくエレキベースを弾いている姿を見かける事がよくある。スラップを効かせているあたり、カッコいいベースをよく判っている人らしい。吹奏楽部としてそれが役に立つのかどうかは甚だ疑問だが。聞けば、吹奏楽部の楽器庫にはドラムスやギター、各種アンプ等も揃っているという。すごい。
その隣の長机を囲んでいるのはサックスパートの方々。
バリトンを吹いているのはマサミ先輩。アルトを吹いているのはタカミネ先輩。テナーを吹いているのはムっちゃん先輩。
マサミ先輩はとても個性的な人だ。話をすればその節々でいきなり大声をあげるし、練習中も時たま何故か発狂する。話の内容もだいぶ偏っていて、僕には何のことだかさっぱり分からない事柄が多い。とでも言っておく。
タカミネ先輩はユーダイ先輩よろしく、大学からサックスを始めたというが、それ以外はあまり分からない。というのも、部活で顔を合わせる機会があまりないので、話をする機会もないのだ。あんなイケメンなら、武勇伝の一つや二つ持っているに違いない。隙あらば話をしたいとそのチャンスを窺っているところだ。
ムっちゃん先輩は、坊主だ。といっても四六時中キャップを被っているので分かりづらいが。音楽知識がとても豊富な人で、スケールや音色の装飾―アーティキュレーションと呼ぶそうだ―についていろいろと教えてくれる。サックスの演奏も見事なもので、練習中に調子がのったときは吹奏楽部とは思えないスイングでアドリブをかますので、よく合奏を指揮しているアリ先輩に一言申されていた。
2階のラウンジでパーカッションを練習しているのは、あみ先輩とハルニレ先輩と大塚くんと山ちゃん。
あみ先輩とハルニレ先輩―もちろんあだ名だ―は同じ高校の出身だという。でも話によれば、この大学に入るまでお互いの事を知らなかったというから驚きだ。世の中巡り合わせって本当に偶然なんだなとしみじみと感じた瞬間だった。
大塚くんはとてもお茶目な奴だ。しかしその人柄に全く合わない、威厳たっぷりのコントラバスを抱え、練習に臨んでいる。普段はマサミ先輩やアリ先輩とふざけ合って遊んでいるような印象しかないのに、そのどっしりとした弦楽器を手にした瞬間、人が変ったように真剣な面持ちになる。密かに、そんな切り替えができる大塚くんを僕は尊敬している。
山ちゃんは対してとても寡黙だ。かといってだんまりではない。話しかければ楽しげに話すし、冗談も言う。でもふと見れば音楽雑誌を読み耽っていたり、メトロノームを前に揺れる針をじっと見続けていたりしている。ムっちゃん先輩曰く彼はリズムオタクだそうで、実際彼の叩くドラムやティンパニーは当に弾むように正確な拍子を生み出していた。彼もまた大の音楽好きで、よく僕にその世界では著名らしいジャズドラマーやシンガーのPVを貸してくれる。
そして、僕は目の前で机に伸びている彼女を眺めた。
この人は真宵先輩。僕が吹奏楽部に入ろうと思うきっかけにワンプッシュを加えた人。
いちおう断っておくけど、僕が吹奏楽部に入ったのは、元々ギターをやっていて大学でも音楽に触れていたいと思い立ったがこの大学の軽音楽部、名前はミュージック同好会とかそんなんだったけどそれのジャンルが自分の好きなそれとは一致していなくてたまたま聞いた吹奏楽部の演奏会がとても楽しそうだったからうんたらかんたら…。
とにかく、僕の吹奏楽部デビューの始まりを支えてくれたのが真宵先輩だ。
先輩はなんと小学生の頃から親戚の影響でユーフォニウムに触れていたらしい。そしてとても上手い。練習の度に先輩の流れるような動作から生み出される音色を聴いていると、心が洗われるようなそんな気分になる。
ユーフォニウムは音が出やすいから簡単なんて言う人もいるらしいが、そういうシンプルなモノって応々にして奥の深いところがあるのではなかろうか。少なくとも、今の僕には真宵先輩が歌うようには吹くことなんてできない。
個性溢れるメンバーだからこそ、飽きない。
心から楽しいをくれる人達がいる事が、なにより驚きだ。
こんな感覚は生まれて初めてだ。
部活で過ごした時間はまだまだ浅い。
でも、周りを取り囲むように満ちている楽しげな音色を聴いていると、雲行きなど気にならなくなる。
ずっと触れていたいと思う。
音にも、心にも。
きっと、こんな感覚を味わえるのも、この4年間で最後なのだろう。
だからこそ、流れ落ちていく時をしっかりと握りしめておかなければ。
今を流れる一秒一秒を楽しまなければ。
そう。今楽しめる事は、今が一番楽しめるのだから。
初心者だからって憂うことはない。
未だ慣れないアンブシュアも、気がつけば自分のモノになっているはず。
運指だってギター程難解なものではない。
クサい勢いを携えて上手くなってやろうじゃないか!
ぐー…
「あ」
真宵先輩がおなかに手を当て、突っ伏している頭を僕とは違う方へと向けた。
「先輩…。本当におなかすいてるんですね」
「…うん」
そう言うと、先輩は席を立ち、ふらふらと2階へと上がっていった。購買でいつものおにぎりでも買ってくるんだろうか。パーカッションの大塚くんが真宵先輩にからむ声を浴びつつ、眠気と格闘しながらそんなことをぼんやり考える今日この頃。
今日は土曜。
明日は基礎合奏の初日だ。