プロローグ
~ユーフォニウムと巫女~
きっかけなんてものは、ほんの少し抱いた好奇心だけでも生まれるものだ。
ヒトは不思議なもので、いろんなモノを知りたがるところがある。
ただの動物なら、まあよくは判らないけれど、普通は食べ物位にしか興味ないんじゃなかろうか。
ヒトは生きるために必要なモノ以外にも、深く繊細な好奇心を抱く。
スポーツ然り、昆虫然り、小説然り…。
―音楽然り。
その種類は星の数ほどあるし、自分の知り得ているモノだけでは星座のひとつも紡げないだろう。
しかしそんな天文学的数字の確立で、僕を駆り立てるひとつの好奇心が生まれ、それは僕を此処へと誘った。
ロマンチストという肩書を騙って言うならば、これは『運命』というやつだろうか。
…うん。騙って言った言葉だとしてもこっ恥ずかしいものはこっ恥ずかしい。
僕はやっぱり、運命なんてものを信じる柄ではないのかもしれない。
―しかし、ふとそんなものを信じてみたくなるような、そんな日だった。
◇
―プロローグ―
学生食堂の2階。吹き抜けから食堂を展望できる広場に部屋がある。その扉の横に、丈夫そうな板でできた看板が立てかけられている。それには大げさな書体でこう彫られていた。
『學内應援団吹奏楽部』
まず、約2文字程読めない。次に、書体からしてものすごく厳格な雰囲気が漂っている。最後に、部屋の明かりがついてないってことは、誰もいないんじゃなかろうか。
以上をもちまして、今日の僕は踵を返し帰りのバスまで図書館で過ごそうと思い立ちました。
しかし振り返ったその先で、階段を駆け上がってきたばかりと思われる女子が、最後の段に片足を残したままぽけっとこちらを見ていた。
「えと、君一年生?」
「え、あ、はい」
「そうなの? 部活決まった?」
「いえ、まだ…」
そう言いかけた瞬間、彼女ははちきれんばかりの笑顔を咲かせた。
「じゃ、ここにいるって事は吹部希望だよね? だよね?」
「ええ、まあ、一応…」
「ヨシ! 新入部員一名確保ぉ!」
階下の食堂にひと思いに叫ぶ彼女。そして、慌ただしく階段を駆け上がる音。口々に何かを言いあいながらその人たちは駆け上がってきた。
「内藤ちゃーん! 新入部員てだれ?」
そう言ったのはちょっと太った体系の優しそうな男子。髪を茶色に染めてはいるが、見るからに優しそうな人だ。
「男子!? 女子!?」
そう言ったのは細身で背の高いなかなかにイケてる男子。イケてるかどうかは、感覚のズレている僕が言っても信用はないだろうけど。
「この子この子! ねえ、この子もそうだけど、やっぱり今年の一年男子、イケメン多くない?」
「うん、確かに!」
そうだろうか、と苦笑いする。そんな褒め言葉をいただけるほどの面なら、もっといい思いして充実したリアルを送れている筈だ。うん。きっとそうだ。只今自虐モードに移行中。
「ねえねえ、名前は?」
「比嘉山 彰です」
「よし、じゃあクガヤマ君」
「ヒガヤマです」
「部室ん中であれ書こう!」
「あれ?」
「入部届!」
細身の男子に引っ張られるようにして、明るくなった部室らしき部屋へと連行された。
部屋の中は、汚かった。真ん中に机があるにはあるが、書類と筆記用具が山積みにされてとても使っているようには思えない。部屋に入ってすぐ左に、パーカスが使う楽器―バスドラ、サッシン、ビブラフォン等々―が押し込められるように並んでいた。一番奥のティンパニーなんか、ウィンドチャイムがかぶさってなかなかに信じられないような光景になっている。言うなればパーカスゾーンである箇所に隣り合うかのように、木管、金管の順にパートごとに分けられた楽器棚があった。
あれは、もしやトロンボーンか? ケースに入ってるからどうというわけでもないが、ベルが棚からはみ出している。その下にあるテューバも、どでかいベルをこれでもかとはみ出させている。そしてそれらと真ん中の机との距離はわずか20cm弱といったところだ。おいおい。どうやって出し入れしてんのさ。
部屋のあちこちにツッコミを入れていると、内藤ちゃんと呼ばれていた女子が一枚の紙を目の前に突き出した。入部届、と上部に書いてある。
「名前書いてくれるだけでいいから!」
「ペンある? 机のうえからテキトーに取ってって!」
「ヒガヤマってそう書くの? 初めてみた」
この人たちの落ち着きのなさといったら、もう。絶えず苦笑いを浮かべ続けているうちに、頬が痛くなってきた。名前を書くだけなのに、何故か時間がかかる。
「あ、じゃあ俺ら勧誘の続きしてくるから! その紙机に置いといて!」
「ちゃんと乗せといてねー!」
そういって三人は嵐のように部屋から出ていき、階段のステップを踏みならして去っていった。呆気にとられるという言葉が今まさに、ぴったりと当てはまった。そして、手元の入部届を今一度見かえす。
もう文字じゃないな、これ。
すさまじい筆記体となった自分の名前をぐりぐりと塗りつぶすと、床に座り込んでいざ書き直そうとペンを構える。
その時。
それは静かに聞こえてきた。
静寂だけが生むことのできる微かな奇蹟。
耳を澄ますことで、ようやく聞くことが出来た。
穏やかに、かつ滑らかに流れる旋律。
身体を包み込むような柔らかい中低音。
やまびこのように楽しげに、波音のように優雅に、風のように爽やかに。
歌が響いていた。
いや、歌ではない。
これは楽器だ。
楽器の奏でる曲だ。
しかし、そう聞き違えてしまうほど、鮮やかな曲のイメージが頭の中で溢れる。
誰が奏でているんだろう?
ペンと紙を床に置き去りにし、部屋を出た。歌が聞こえる方を見渡す。さっきは気付けなかった扉がもうひとつ、部室の横にあった。扉には紙が張り付けてあり、『部活・サークル』と書いてあった。
倉庫かなにかだろうか?
ゆっくりと扉を開け、中へと入る。
中は図書室の棚のように、木でできたロッカーが整然と並んでいるような部屋だった。そして、部屋の奥に大きな窓があり、その前にちょっとしたスペースがある。そこに、人影が見えた。歌も、その辺りから聞こえてくる。ゆっくりと部屋を進む。
窓際に近づき、その人を目にした。
彼女は歌っていた。
手にした楽器とともに。
テューバに似ているが、それよりも小柄な金管楽器を手に、旋律に合わせてゆったりと体を揺らしながら彼女は歌っていた。
ゆるやかにウェイブのかかった茶髪が、肩にかかってまるでヴェイルのように見える。
うららかな春に似合う白を基調にした服が、窓から射す光を反射して綺麗だ。
彼女は目を瞑り、体を揺らし、学校の校舎を望む窓に向かって一人歌い続けていた。
ずっと、聞いていたかった。
歌に包まれていたかった。
今までに聞いた事もないような、優しい、温もりのある音色。
音を楽しんでいる。
そう、彼女は音を楽しんでいるのだ。
そして、音とともに踊っている。
そんな彼女をずっと眺めていたかった。
―まるでガラス玉を飲み込んだような、そんな気分だ。
そして、歌はフェードアウトしながら終わりを遂げた。
彼女は楽器から唇を離すと、ふぅと小さく息を吐いて、呟いた。
「…。おなかすいたぁ」
「へ?」
思わず口からそんな一言が漏れ出していた。慌てて口を抑えるが、時すでに遅し。くりんとした丸い瞳がこちらを向いていた。
目が合う。
もう、一歩も動けなかった。
そして彼女はみるみるうちに頬を赤く染め、うつむいた。
いけない。
雰囲気に浸っている場合ではない。
勝手に近づいて勝手に見て勝手に聞いていたのはこの僕だ。
「ごめんなさい。ただ、音が聞こえたから誰かなぁと…」
「はぁ」
「あ、そ、その楽器っ! なんていう名前なんですか?」
取り繕っているのがモロバレだ。
「これ? ユーフォニウムって言うんだよ」
「ユー…、え?」
「ユーフォニウム」
ユーフォニウム?
友人に教えてもらった予備知識の中に、そんな楽器あったっけ?
彼女はその金管楽器を赤子を抱きかかえるかのように持ち、首をかしげてこちらを見ている。
自分の頬が熱くなるのが判った。
おっとり美人、とでも言うのだろうか。
穏やかだがしっかりした物腰で、彼女は楽器を片し始めた。
手を休めることなく、彼女は尋ねてきた。
「間違ってたらごめんなさい。もしかして、さっきマサミが叫んでた新入部員て君?」
「は、はい、そうです」
「やっぱり!」
ケースの蓋を軽やかに閉じると、屈みこんだままこちらを見上げぱっと笑った。
うん。
この人、とんでもなく美人だ。
「何吹くの? それとも打楽器?」
「いや…、実は吹奏楽は全くの初心者なんです」
「そうなんだ」
じゃあ、と彼女は一度閉じたケースを再び開き、ユー…なんちゃらを取り出した。
彼女はゆったりと僕に近づくと、その楽器を手渡した。
途端、両腕にかかる確かな重み。
「うぉ。なかなか絶妙な重量感ですね」
いったい何処の素人評論家だろうか。
「吹いてみる?」
「え?」
「私が使ってたマッピでいいなら」
マッピ。
マウスピース。
これか。
…ってことは?
「本当にいいんですか?」
「うん」
こんな年にもなってこんな事でドギマギしているようじゃ格好悪いのだろうが、なにぶん状況が状況だ。
この人、わかって言ってるのだろうか?
兎にも角にも、どうやら期待の眼差しに弱い僕は、マウスピースに口をつけ、ひと思いに息を吹き込んだ。
ぶっっぉぉおおおおぉぉ
あら、汚い音。
「ははは。面白い」
「面白いって…」
「うん。最初は誰だってそんなもん。練習すればどの楽器もある程度吹けるようになるよ、きっと」
微笑む彼女にそう言われると、本当に出来そうな気がして困る。
そんな心地の良いひと時を打ち砕くように、この部屋の扉がけたたましい音を散らして開いた。
「真宵ちゃーん! 居るー?」
「はーい」
「東風先生のところ行こう?」
「わかったー。今行くー」
そう言うと彼女はひょいと僕の手から、…、金管楽器を取り上げケースにしまいこんだ。そしてケースを両手で運びながらぱたぱたと靴を鳴らして部屋から出ていってしまった。
◇
日々を淡々とこなし、その延長で辿りついたようなこの場所で、どこにでも転がっていそうな話をそのまま切り出したかのような時間を過ごしてしまった。
数えてみれば成人と認められる一歩手前まできていた。
時間にして599184000秒。
そのどの瞬間にも、今のような時間は存在しなかった。
あるとしてもそれは他人の話だった。
あるいはどこかの小説のなかでの話だった。
空想。妄想。夢物語。
自分にそんな浮かれた話は似合わないと、そんな風に悟った時期もあった。
現実にありなどしないと、そう思っていた。
しかし今一度、淡い期待を抱いて日々を過ごしてみたいと思わせた、そんな出逢いだった。
そしてその翌日から、僕はここの吹奏楽部の部員としてその日々を送り始めるのであった。
「何書いてるの?」
「うわぁぁぁーーー!!!」
慌てて手帳を鞄にしまい、振り向く。
真宵先輩が金色に光るユーフォニウムを手に僕を見下ろしていた。
背中に隠した鞄を見ようと頭をうろうろさせているが、それに合わせて体を動かし視線をうまくブロックする。
そして、諦めたのか、覗き込みをやめると先輩は隣の座席に腰を下ろした。
「けち」
「…なんとでも言ってください。でも見せませんからね」
けち、と先輩はもう一度言って口を尖らせた。
「じゃ、練習始めるよ」
「はい」
僕は応えると、椅子の横、床に立てられた銀色のユーフォニウムを膝の上に乗せる。
メトロノームのネジを巻き、ストッパーから針を外す。
聞き慣れた、カチカチとリズムを刻む音。
練習開始だ。
自称「半ノンフィクション小説」。暇なとき、他の小説に行き詰ったとき等に、日常に溢れかえってる小さな面白いことを、この話に詰め込めればなと思ってます。末永くお付き合いください!