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お姉様への誕生日プレゼントは婚約者略奪体験ツアーです

作者: 花嵐
掲載日:2026/06/14



「今年のお姉様の誕生日プレゼントには、私の婚約者をあげようと思っているんだけど。どうだろうか」



時は大正――ではなく。大正の世から何もかもが停止してしまったある世界。

日向葵がまた変なことを言い出したのは、むせ返るような夏の日の昼下がりのことだった。


出窓に腰掛けた少女は、窓の外に視線を投げかけている。

天上へ、梅雨の訪れを告げるように咲く立葵の花も中腹に差し掛かり、いよいよ花盛りを迎えようとしていた。



「葵お嬢様、馬鹿なこと言ってないでそこ退いちゃってくださーい。お掃除しますので」


「む、私は本気だよ雨燕」



箒を片手にいつになくそうあしらった側仕え、雨燕に、葵は――私は頬をむくれさせた。

窓に委ねていた身を起こして、私は足元に積み上げた黒い冊子の山の一つを取り上げる。崩れた冊子の中から覗く写真は、いずれにも澄ました顔の男が写っている。



「父上より婚約者を選ぶよう仰せつかった。日向と桜小路との結束を深めるための政略結婚だから、好きな男を選んでいいんだって」



(はらい)御三家と呼ばれる名家がある。

平安の世より続く陰陽道の家系。その家業は妖退治。

その妖術師達の祖、或いは随一の名家を祓御三家。

北斗家、桜小路家、そして我らが日向家の三家だ。


この三家は対立と協力を繰り返しながら今日に至る。

今回の私と桜小路家の人間の政略結婚は、日向と桜小路の両家が足並みをそろえて頑張っていきましょうという契約の証でもあった。



「それは聞きましたけど……それがどうして夏希様のお誕生日プレゼントと繋がるので?」



日向夏希、それが私の姉の名前である。

私は日向家当主と正妻の間の子供である一方で、姉・夏希は妾腹の子だった。

俗には腹違いの姉と呼ぶことになるが、私は存外彼女のことが嫌いではない。このため彼女を姉と呼び慕い、遊んでいる。



「お姉様は私のお下がりがお好きという奇特な趣味がおありなんだ。髪留めに反物、果てには私の食べかけのアイスまでねだる。私には理解できない嗜好だけど、私は他人の趣味嗜好を悪く言うつもりもない。そういう性癖の人もいるだろうし。私はありのままのお姉様を受け止めたい」


「凄い、マジで善意なんだ……なんて邪悪な善意……」


「……ということで、きっと『お下がりの婚約者』はさぞ喜んでくださると思うんだよね」



雨燕は喉元まで出かかった「夏希様はお下がりが好きなんじゃなくて、お嬢様に嫌がらせをするのがお好きなんですよ」という言葉を何とか飲み込んだ。その方が面白いと思ったからだ。


雨燕はあいも変わらず怪訝そうな顔をしていた。けれどいつしか箒を掃く手は止まり、怖いもの見たさに言葉を続ける。



「……それで? 婚約破棄します、お姉様はいどうぞー! ではどうにもいかないのではないですか」


「うん。そもそもお姉様は『お下がりを貰った』という事実よりも『奪う過程』を重視される方だから。懇切丁寧真心こめて、婚約者略奪体験ツアーをしっかり演出しようと思う。それに私も自分の誕生日プレゼントに手を抜いたりは……っと、これは内緒だった。とにかく、協力してくれるよね、雨燕」


「えー……お給金、弾んでくれるなら……」



かくして一大プロジェクト『婚約者略奪体験ツアー』が幕を明けた。






まず第一に始めるべきはお姉様との接触である。

何はともあれお姉様に婚約者ができたことをカミングアウトしないことには始まらない。私は早速雨燕に頼んで、お姉様をお茶会にお誘いした。

お姉様は外聞や体裁を非常に気にされる方である。良き姉を演出するためにもこのようなお茶会を断るはずもなかった。結果、雨燕は期待通り二つ返事の許可をもぎ取ってきてくれた。なんでもあちらが招待してくれるらしい。



「(……お姉様のお茶会、苦汁みたいな紅茶や前世がコンクリートブロックのクッキーが出るから嫌なんだよなぁ。お姉様って食事の趣味も変わってる……)」



けれどそれもこれも全てはお姉様に『婚約者略奪体験ツアー』をプレゼントするため。今日も健気に頑張る葵ちゃんなのだった。



「……なんですって、葵に婚約者……?」


「はい、お姉様。桜小路家より婿を迎えるように、と父上が。桜小路 崇人さんという方をお願いしようと思って」



舞台は日向邸の東屋。人工池の中央に飛び石を橋として築かれた東屋は、花盛りを迎えた蓮の花々に囲まれている。

心地のよい風が通り抜ける幻惑的な空間で、お姉様は取り落としそうになったティーカップを何とか維持する。いつも完璧に良き姉を演じているお姉様にしては珍しい動揺の吐露だった。

私はその中々の好感触に胸を撫で下ろす。ここでちゃんと対抗意識を持ってくれなければ、また面倒なことになるところだった。


お姉様は妹の行く末を案じるように目を伏せた。

とても作り物には見えない精巧な表情には畏敬の念すら抱く。実はお姉様の左の口角が震えている時は良き姉を演じているときであるという豆知識は、義妹の矜持にかけて墓場まで持っていく所存だ。



「まだ、葵には早いんじゃないかしら。だって葵はまだ十七なのよ。いくら成人年齢が十八になったとは言え、葵は未成年、まだまだ子供じゃない……可哀想よ」



女中達の間で「夏希様、お優しいわ……」などと小さな歓声が上がる。洗脳にも似つかわしい恐ろしい統率力だった。

色めき立つ女中の一方で、夏希は広げた扇の裏で下唇を噛んでいた。



「(……桜小路から婿を取れば、葵の次期当主としての座は盤石なものになる。手遅れになる前に何としてでも潰さないと……!)」



私はそんなお姉様をニコニコと見つめていた。次期当主の座なんて厄介な物を欲しがるなんて、お姉様は本当に変わってる。もちろんお姉様がそんなに欲しいのなら私は喜んでいくらでも差し上げるが。

焦らしてしまってごめんなさい、お姉様――そう内心で謝って、私はお姉様に倣って不安げな表情を浮かべてみせる。涙で瞳を潤ませ上目遣いで見つめる姿が、お姉様の目に純真な妹として映っているといいのだが。



「そうなんです。でも私、ほとんど男の人とは喋ったことがなくて……だからお願いします、お姉様。こっそり桜小路家まで婚約者がどんな方か見てきてくださいませんか? 私、お姉様しか頼れる人が居ないの……」



お姉様は、必ず乗る。妹よりも先に接触できる権利、妹の婚約者と親交を深める大義名分、それから両者の情報操作、更に言えば妹のために献身する良き姉としてのアピール。これだけの理のある権限を、お姉様が気づかず断るはずもない。何せあまりにもお姉様に都合が良すぎる。



「――ええ、任せて。お姉ちゃんがきちんと見てきてあげるわ」



お姉様は小賢しい方だが、都合が良すぎるが故に疑うだけの脳をお持ちでないようだ。愚かわいい、とはまさにこういう事を言うのだろうと私は納得した。


私は微笑んで紅茶を一口煽る。激渋の紅茶がどうしてか今日は心地が良かった。




お姉様が上機嫌で自室へ戻るのを見送ってから、私は自室に戻る。

私に与えられた北の棟は、冬場は寒いが夏は涼しくて過ごしやすい。いつものように出窓の窓台に登って庭をぼんやり眺めながら状況を整理する。


まず第一ステップは無事完了した。経過は良好。お姉様なら必ずや私の期待に応えてくれるだろう。

とはいえ休んでいる暇はない。こちらも最高のツアーをお届けするために能動的に動いていかなくては。



雨燕は「常識のある男の人であれば、夏希様に籠絡なんかされませんでしょう?」と心配していた。その懸念は最もなところである。だが私は成功を確信していた。


お姉様の最大の長所はその麗しい(かんばせ)、そしてその特技は男を籠絡すること。日向の家の中では父が目を見張っていることから鳴りを潜めているが、外では男を取っ替え引っ替えしていることを私は知っていた。

ある男を誑かしている間に、別の男に恋愛相談の体で粉をかける――あれはもはや職人技である。私の中でお姉様はベスト・オブ・尻軽女だ。

潔癖の父が見れば即家から勘当されそうな爛れた生活であったため、勘付かれぬようフォローする方が何より大変だった。


……だが、雨燕の言う通り確かに常識のあるまともな男性なら、如何に夏希が天才的な悪女であろうとも魔の手には引っかからないだろう。


だから事前に手を打っておく。なに、難しいことではない。『はじめから女慣れしていないダメほうな男を選んでおく』――それだけでいいのだから。

これは日向と桜小路、二つの家の政略結婚。共に並び立って協力していくという意思表示である。裏を返せば、桜小路の血を色濃く引いた男であれば誰でもいい。


女遊びの激しい男ではなく、女慣れしてない男を選んだのにもきちんと理由がある。

女遊びをしている男はつまり『生き残り』なのだ。

女慣れするほどに成長できたということは危機回避能力の卓越した天才、あるいは上級者であることに他ならない。であるから、『婚約者略奪体験ツアー』に勘付かれたり回避されてしまう可能性がきわめて高い。

だから女慣れしていない男――つまり初心者を選んだということである。


このため私は事前の入念な調査によって調べ上げた、選りすぐりのダメ男を婚約者にと父上におねだり済みだ。

父上は誰が自身の娘の婿に来ようと興味がない。彼の人は小指の爪の先ほども娘に興味がないのだ。恙無く政略結婚という契約を終えられればそれでいいのだろう。


故に、次に迫りくる壁は――……


涼やかなノック音の後に、聞き慣れた低い声がする。本プロジェクトにおける最難関の敵の到来だった。無意識にしゃんと背が伸びる。



「……葵、何を考えているんだ君は」



入室して早々、来訪者はそう吐き捨てた。

常であれば出窓に腰掛けているのを注意するのに対して、今の彼はそんな余裕もないように見える。

手には焦げ茶のトランクケース。びしりと決めたスーツは英国式。皺一つない空鼠のベストスーツと、折り目正しいスラックスは着用者の生真面目さを象徴するようだった。


彼の名を梧桐(あおぎり) 右京。

私に与えられた側仕えであり、父の覚えもめでたい優秀な妖術師だ。雨燕とは同僚にあたる。



「右京……今日は遠方に任務って言ってたのに」


「これから出る。それで、君の選んだ婚約者の桜小路 崇人の件だが。まさかあの人選は意図的なのか? 俺は反対だ、アレはろくな男じゃない。社交の経験も殆どなく祓い屋の仕事もせず家に引きこもり、母親や女中には高圧的な態度を取るが父や兄弟にはヘラヘラと頭が上がらない。外面はいいからあまり噂にはならないが……家人の話では、酒癖が悪く、自身の失敗を使用人に責任転嫁することも珍しくないそうじゃないか」



なるほど、実父よりも父親らしい過保護さだ。平時であれば彼の意見は正しい。舌を巻くような正論、流石の彗眼である。

だが、婚約者略奪体験ツアーのためには致し方のない人選なのだ。多少性格に難のある人物だが、なに、お姉様のことだ。彼女であればきっとうまくやってくださるだろう。



「詳しいな、調べたの?」


「……君の婚約者ということ、いずれは俺もお仕えすることになるということだ。事前調査は当然だろう。……それで、こだわりがないならその男はやめておけ。俺としてはこちらの男がお勧めだ」



ぺろりと出した手のひら大の写真には見覚えのある男が写っている。確か父から渡された見合い写真の一番上に居た人物だ。



「(……そいつはダメ。候補者の中で一番真面目で常識がある。お姉様の籠絡にも引っかからないレベルの堅物だよ、論外だ論外!)」



まったく、抜け目のない男である。はてさて私はこの難関を何とか乗り越えなくてはならない。しかし素直にこのプロジェクトを暴露すれば止められてしまうに間違いない。右京は雨燕と違って真面目な大人なのだ。



「いや……こだわりが、ある! 私はこれから一緒に生きるなら面白い人がいい」


「まあ、確かに退屈はしないだろうが……」



我ながら苦しすぎる言い訳だ。

だが、とにかくこの場を乗り切れさえすればそれでいい。私はどうにか話を切り上げようと躍起になった。



「そんなことをしてる暇があるなら他に目を向けた方がよっぽど有意義だよ」


「……他」



口から出任せだった。後ろに控えた雨燕が噴き出しかけるほどに大ホラ吹きだった。しかしそれを真に受けたらしい右京は数拍、考える素振りを見せる。

……そんな。追求されても困るが真剣に考えられるのもちょっと困る。



「……わかった、君を信用しよう。では俺はこれで」



……何がわかったのだろうか。発言者(わたし)ですら何もわかってないのだが、汲み取る能力が凄まじすぎやしないだろうか。無から一を生み出すタイプ?

だけれども、私は唖然としたまま出立する右京を見送る他なかった。






お姉様とのお茶会から一週間が経った。どうやらその間にお姉様は下調べ、もとい桜小路 崇人との接触に成功したようだった。

雨燕の報告によると接触から既に数日が経過しており、着実に仲を深めているとのこと。順風満帆で喜ばしい限りだ。


そんな報告を受け、雨燕と共にお祝いのケーキを食べていた夜更け、ひっそりと現れたのは渦中のお姉様その人だった。信頼する女中3人を連れ立ってやってきたその姿は、どこか憐れみと悲愴さに溢れている。


お姉様の傍らに立つ一番年嵩の女中がきっ、とこちらを睨めつけた。その婆にとってお姉様は至高の人であり、私はお姉様の金魚の糞、或いは目の上のたんこぶなのだろう。何せ正妻の子がいる限り妾腹の子は当主にはなれない。



「葵、崇人様にお会いしてきたわ。どうか悲しまないで聞いてね。崇人様はお優しげな方だったけれど……葵とは合わないかもしれないわ。ほら、葵は……お転婆だし、変わってるでしょう?崇人様は普通のお方だから、驚いてしまうかもしれないわ」



夏希は言い方一つで人を悲しませ、扇動するのが得意な人だ。褒めているのに貶している、なんと巧みな話術だろう。



「そう、ですか。それじゃあ今から他の方に……」


「――いいえ。それはだめよ、お父様はとても『体裁』をお気になさるお方だもの。一度申し込んだ縁談をこんなに早く解消するなんてお許しにはなられないわ」



体裁。なるほどお姉様の言う事は正しい。

けれどその言葉をお姉様がどこまで理解しているのかは甚だ疑問ではある。

……だが、問題ない。お姉様の知性は低ければ低い方がこの婚約者略奪体験ツアーも盛り上がるというものだ。



「そんな……葵はどうしたらいいのでしょう」


「大丈夫よ、葵は努力のできる子だもの。淑女らしい所作を身につけるのは今からでも遅くないわ。そうね……良家の方は慎ましい女をお望みなの。だから婚約前にベタベタするのは以ての他、きちんと屋敷でおとなしくしていること」



その間に、自分は更に崇人と仲を深める――そういう算段なのだろう。なまじ、彼女の言っていることは嘘でないのだからたちが悪い。



「その代わり、お姉様が崇人様に何度かお会いして調べてみるわ」


「わかりました。ありがとう、お姉様……!」



お姉様は義妹が素直に言うことを聞くのを見て、とても喜ばしそうにしていた。

毒花のように艶やかな笑顔は、けれど使用人の目には仲睦まじい姉妹に、そして献身的な良き姉の姿に映ることだろう。



「(……はい、お姉様。私も計画が順調に進んでとっても嬉しいです)」






こうして私と桜小路 崇人との接触は尽く絶たれた。

正確には何度か顔を合わせたが、崇人様は既にお姉様に深く惚れ込んでいるご様子であった。

政略結婚であるのだから婚姻まで殆ど顔を合わせないというのはさして異端な話ではない。桜小路家から文句の手紙が飛んでくることはなかったし、父も何も言わなかった。

順調、とはいえここで手を抜かないのがプロフェッショナル。プロフェッショナル、なのだが――……



「ぐぬぬぬぬぬぬ」


「どうしたんですか法律書とにらめっこして」



あくる日、雨燕に声をかけられ私は本から顔をあげた。

分厚い法律書はそれだけで鈍器のようである。これ、妖退治にも使えるだろうか?



「一目惚れの妖術を使いたかったんだけど、人の心や意思決定に関わる妖術の未成年の行使は法律で禁止されてるだろう。だから何とか法の穴をつけないかと思ったんだけど」


「ああ、だから法律書……」


「ダメだね、全然突破口が思いつかない。仕方がないや、アプローチ方法を変えよう」



ぱたん、と私は本を閉じて机の隅に追いやった。

そうしてふらふらと立ち上がる。長い間正座をしていたので足が痺れて小鹿の如くだった。



「何か方法がお有りで〜?」


「っ、ツンツンしないで! 痺れてるの! ……っ、妖術がダメなら霊薬で。惚れ薬を作ってお菓子にでも紛れ込ませるよ。未成年には禁忌妖術だけど仕方ない。えっと材料は……妖精の鱗粉と、火蜥蜴の黒焼きと――」



指折り数えて確認していると、雨燕は慌ててそれを遮った。



「いやいやいやいや、惚れ薬って第一類禁止指定妖術ですよ! 一目惚れの妖術と同じで未成年の作成は禁止されてる――」


「ううん、学習目的で薬品を製作するのは許可されてる。……そして雨燕、大魔女教員免許持ってるよね」


「っ、な、なんでそれを……履歴書みました!?」


「見てないけど、普通の人は惚れ薬の製作は基本的に禁忌妖術って呼ぶんだ。『第一類禁止指定妖術』は学術的な呼び方。免許取得のために勉強した人は皆そう言うんだよね。ということで教師役、お願い。大丈夫、一人で作れるよ。形式上監督をしている人が必要なだけだから」



雨燕は頭を抱える。「賢く育ちやがって!」などと呻いているがこちらの知った話ではない。



「うう……バレたら資格剥奪ものなんですけど……! 梧桐先輩にだけは知られないようにしてくださいね!」


「大丈夫、大丈夫。ちゃんと事故を装うから。そうだ、お姉様に協力してもらおう――はい、ということであらかじめ作っておいた惚れ薬がこちらです。私に惚れ薬作りは高度な技術だったから、元ある恋心を増幅させる方向で作った」


「お嬢様???」



材料費は馬鹿にならなかったが、父上から斡旋された退魔の仕事で積み上げた貯蓄にものを言わせた。

お姉様がいつもこちらに仕事を押し付けてくるので蓄えは潤沢だ。アレほど割の良い仕事なのだからお姉様も小遣い稼ぎ程度に働けばいいのに、と思わないでもない。

もしかして(おばけ)が苦手なタイプなのだろうか?


こうして用意した霊薬をクッキー生地に混ぜて焼き上げる。コツはお姉様にクッキー作りをしていることに勘付かれるよう配慮することだ。

姉の部屋に駆け込む。驚いたような顔をしたお姉様は、美しい(かんばせ)で誰にも気づかれないような毒を吐いた。



「あら、どうしたの葵。本当に葵はお転婆ね、まるで犬みたい。……あ、悪い意味ではないのよ。どうか誤解しないでね。令嬢らしさの抜けた娘は近頃の若い男性には好まれるでしょう?」


「っ、どうしましょう、お姉様。私、急な任務が入ってしまって。作ったクッキーを崇人様に差し上げに行こうと思ってたのに……!」



お姉様の眉がピクリと動く。目の奥に厳しい光がともったのもつかの間、お姉様は私を宥めるように抱きかかえた。



「仕方のないことよ。……そうだ、お姉様が崇人様に持っていってあげるわ。お姉様、お友達なの。うまくいっておいてあげるから……安心して行っておいで、ね?」


「はい、ありがとうございます、お姉様。それからごめんなさい、ご迷惑をおかけしてしまって」


「謝らないで。私達は姉妹だもの、支え合うのは当然でしょう?」



相変わらず完璧な『良き姉』の演技に、周囲の女中たちはうっとりと信じ込んでいる。

長いものに巻かれる、権力者に媚びて生きる、それは生存戦略の最適化した選択肢の一つだ。それに、私ではなくお姉様に媚びるということは女中達も家のバランスの変化に勘づき始めているということだろう。いずれ上に立つのは日向夏希(おねえさま)かもしれない――と。

婚約者略奪体験ツアーの成果が出始めている証拠だった。




かくして、あれから暫く。惚れ薬の効果は十全に発揮しているようで、仲睦まじい二人の様子がこちらの耳にも届いてくる。

姉は日々楽しそうに足繁く崇人様の元へ通っている。あれほど楽しんでもらえると企画者冥利に尽きるというものだ。姉のことだ、着実に崇人様へ私への反感と不安を植え付けてくれていることだろう。


今日もまた、視線の先にはおしどりよろしく庭園を歩くお姉様と崇人様の姿がある。

誰が見ても恋人と思うだろう甘ったるい空気感は、窓硝子越しにもひしひしと伝わってくる。初めの頃のひっそりと隠れるような逢瀬は、今や堂々たる有様だ。



「(……けど、惚れ薬の割にはいまいち踏み込んでいない様子なんだよな)」



頭が軋むほどの甘い空気感の一方で、崇人様がチラチラとこちらを確認しているのもまた事実。

まさか、まだ良心が残っていると言うのか……?

背徳感は素晴らしいスパイスだが、罪悪感はノイズでしかない。卒なく障害を排除してこそできるツアーガイドというものだろう。


……ということで、私は策を講じた。本当はあまりこのようなことはしたくないのだが、これもお姉様の幸せのため、致し方あるまい。


舞台は穏やかな午後のサンルーム。優しい昼の日差しは硝子張りの部屋を絹布の様に包み込んでいる。3つある革張りのソファーの中から私が選んだのは、庭園を散策するお姉様と崇人様により近く、より観察しやすい位置取り。いつものおやつ担当は雨燕だが、本日は計画のために右京と共にティータイムと洒落込んでいる。


優雅に紅茶を嗜みながら頃合いを見計らい、崇人様がこちらに視線を遣ったタイミングで、私は大袈裟に目元を抑えた。



「……葵?」


「ちょっと、目にゴミが――」


「っと、待ちなさい。擦ると目が傷つく」



目を擦ろうとする私の腕を右京が遮る。そうして彼は屈み込んで私の目を覗き込んだ。

……ああ、そうだ。右京なら必ず覗き込んでくれる。彼は超の付く世話焼きなのだから。


椅子に座った少女と屈み込んだ男――そう、それは、きっと崇人様の位置から見たのならばキスをしているように見えるはず。雨燕と確認したから間違いない。


――名付けて『赤信号 みんなで渡れば 怖くない 大作戦』である。他人が浮気をしているのなら、自分もやってもよくないか?……と罪悪感を軽減し行動を誘発させる姑息なテクニックだ。


気が乗らなかったのは、こんな姑息な手段は嫌だという点と、そして何より顔が近くて気恥ずかしいという点からだった。右京の端正な顔立ちは、十年来顔を合わせ続けている私でさえ息が詰まるような美術品だ。

だから、そう。ドキドキと煩い心臓は美しいものを間近に見たからに違いなくて。そこには他意はないはずなのだ。



「……見たところ何か異常がありそうではないが、痛いなら水で洗い流した方がいい」


「うん」



こっちだ、と右京が私の手を引く。その気遣いに罪悪感を覚えた。

私よりも二周り以上大きな手は、ひんやりとして心地よい。ずっと繋いでいたいはずなのに、気恥ずかしさで振り払ってしまいたいような気もする。心が二つあるのだ。



「(……右京が、婚約者じゃなくてよかったな)」



もし右京と結婚しろと言われていたら、私はこの誕生日プレゼントを躊躇っていたかもしれない。

当然、当然だ。だって幼馴染を売るようなことは流石に憚られる。偏にこの計画はクズとクズをぶつけるからこそ成り立つもので――

私は内心でそんな言い訳をしながら、この感情に含まれる他の要因の一切に蓋をした。





 

後からの雨燕の報告、それから女中達の噂によれば、崇人様とお姉様の中は以来うなぎ登りで急上昇中であるそうだ。美男美女でとてもお似合いでしたわ、なんて黄色い声を私はうむうむと聞き届けた。

よかった、身を切った甲斐があった。これは婚約者略奪体験ツアーも終盤に近い。


こうして日々は過ぎ去り、プロジェクトは着実に進んでいく――はずだった。



「く……近頃うまくいかないな……!」



崇人様と顔合わせをしたのが先日の話。彼は私をあからさまには邪険には扱わなかったが、心ここにあらずといった表情だった。素晴らしい進捗にこれには私もにっこり。


しかし以来、お姉様に崇人様宛の手紙を渡して握り潰してもらう計画、お見舞いのお花で花言葉の良くない花を選ばされる計画、お姉様に私の悪評を崇人様に伝えてもらう計画などを立てたがいずれも失敗に終わっている。

というのも難敵・梧桐右京が近頃はよく屋敷にいるためだった。


右京は私の側仕えであると同時に父の信頼厚い優秀な妖術師である。このため父からの直々の以来を受け、出張のために屋敷を空けることも少なくなかったのだが。

近頃の彼はあまり屋敷を出払わない。こうして屋敷に居座り続ける右京は、それは素晴らしい手腕でお姉様の先回りをして計画を次々と潰してしまう。

唸るような有能さであるが、今回に限っては非常に強力な敵だと言えるだろう。


ちょっと過保護すぎると苦言を呈すれば「主人に振りかかる火の粉を払いのけるのは側仕えとして当然だろう? ……それから、例の件も恙無く進んでいるよ」と窘められてしまった。

ところで例の件とは何の件だ。私は雨燕を酷使している自覚はあるが、右京に頼みごとはしてないはずなのだが。



「(とにかく、右京のスケジュールを上手いこと操作しないと。せめて、ツアー最終日には席を外しておいてもらわないといけないし)」



私はカレンダーをめくりながら悶々と逡巡する。

ツアー最終日――1週間後に執り行われる、お姉様と私の誕生日パーティー。私とお姉様は腹違いの姉妹でありながら、誕生日が一日違いという運命的な星のもとに生まれた。と言っても年齢は丸一年違うが。


父は自身の子供たちには興味がないが、桜小路と北斗が跡継ぎの誕生を大々的に祝う中で日向だけ祝いの会を行わないという体裁に関わる愚行を犯すはずもなく。申し訳程度に合同パーティーとして一族が一堂に会するのが毎年の習わしだった。


私はこの日をツアー最終日に位置づけた。これを右京に潰されるわけにはいかないのだ。



「(ええ、でも大丈夫ですお姉様。葵はきっと上手くやりますから……! きっと、楽しみにしていてくださいね!)」




***




「――夏希様、お時間です。お召し物をお持ちいたしました」



襖越しに遠慮がちにかけられた声で、夏希は意識を浮上させた。

今晩の誕生祝いの会に備えて少し体を休める心づもりであったが、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。


着付けを行う女中たちに身を委ねながら、夏希は薄い笑みを浮かべた。



「……今夜も崇人様はいらっしゃるのかしら?」


「はい、そのように聞いております。とても楽しみにしていると、崇人様が」


「そんな……崇人様は葵の婚約者じゃない」


「ですが、崇人様が夏希様に惚れ込んでいらっしゃるのもまた事実ですわ。伝え聞いた話では、会場では是非共に、と言っていらしたそうではありませんか。本日は梧桐さんも出張でいらっしゃらないそうですし、きっとひとりぼっちですわ。ふふ、葵お嬢様ったらかわいそぉ……」



くすくすと、意地の悪い笑いが波紋のように女中たちの間に広がる。夏希は困った顔で曖昧に頷いたが、内心では彼女たちに深く同意していた。


桜小路崇人。あのようなボンクラに惚れているわけがなかったが、付属品には何物にも代えがたい魅力があった。

これは日向の血と桜小路の血を混ぜる政略結婚。であるのならば桜小路の人間と結婚できた者が次の当主となるのが道理。

桜小路崇人に選ばれるということは、次期当主に選ばれるということに他ならない。



「(本当に馬鹿な子ね、葵は。お父様はどちらの娘が結婚しようがご興味がないのに)」



あれも、正腹から生まれた者の余裕というやつなのだろうか。夏希は湧き上がる怒りと嫌悪感に内頬を噛み締めた。あの女はいつもそうだ。現実がまるで見えていない。稀代の阿呆なのか、或いは余裕があるということなのか。葵の危機感のない振る舞いをみるたびに、夏希は馬鹿にされているような気がしてならないのだ。お前なぞ、警戒するに値しない、と。


――けれど、それも今日で終わり。今夜選ばれるのは私なのだから。


崇人と共に選んだ百合柄の絽に、先日贈られた葉桜の簪。姿見に映る今日の出で立ちは言うまでもなく、夏希に勝利を確信させた。

桜小路崇人の寵愛は、現時点で間違いなく夏希にある。

鏡の中の少女が、口元を歪ませた。


父親の寵が得られなかったときは歯がゆい思いをしたが、なに、なんて簡単なことだったんだろう。



「(次期当主に選ばれたら、すぐにお父様には隠居していただきましょう。それから、目障りな葵は座敷牢に閉じ込める。ええ、きっとうまくいくわ、あの女はまるで危機感がないんだもの……!)」



当主にさえなれたのならば後は全て夏希の思い通りだ。

崇人が目障りであるのなら、アレもまた処分すればいい。いや、崇人はお飾りとして側において、愛人(ツバメ)を囲ったっていいのだから。



「そうだ、誰かこの桐箱を葵のところまで持っていってくださらない? 明日はあの子の誕生日でしょう? 私には丈が合わなくて……頂き物だけれどとても良い品物だったから繕い直したの。あの子、絽を新調しなかったみたいだから。良かったら今日にでも着てちょうだいって伝えてくれる?」


「畏まりました、すぐお持ちいたします」



桐箱の中身は紅葉柄の絽だ。桜等と共に描けば通年着られる紅葉であるが、単体では季節外れもいいところ。

異様この上ないが、葵は受け取る他ないだろう。あの子がこちらの善意を断った試しはないのだから。

今回も何一つ疑うことなく、晒し者になってくれることだろう。



「(ふふ、本当に愚かで可哀想な葵。今日は口煩く指摘してくれる梧桐も居ないものね? せいぜい親族の前で恥をかくといいわ)」



笑いものにされる妹の姿を想像すると不思議と指先も踊る。夏希は酷く上機嫌なまま広間へ足を踏み入れた。


夏希が葵の姿を見つけたのは、広間に親族が集まって久しい頃合いだった。

夏希は微笑みを浮かべて妹を見遣り――しかし、その口角をひくつかせた。

現れた葵が纏っていたのは涼し気な立葵の絽だったのだ。



「(まさか、間に合わなかったの……? ……いや、そんなはずはない。だけれど、そうなると葵が反抗したという事実が残ることになる……)」



夏希は妙な異様さを感じ取っていた。何か、何かがおかしくはないかと警鐘を鳴らす脳内。

けれども、その得も言われぬ違和感は、隣に立った人影によって霧散した。

書生のような出で立ちの、生っ白い男――彼こそは夏希の優勝旗、桜小路 崇人その人だ。

夏希は間髪入れずに『気立てのよい女』の表情を取り繕って応対する。



「崇人様……!お会いできて嬉しいわ」


「僕もだ、夏希さん。その着物、とても良く似合っているよ」


「そうかしら、やっぱり崇人さんは褒めるのがお上手ね……ところで葵にはもう会いましたか?」


「いや、まだだ。むしろもうしなくていいだろう?彼女との付き合いは今夜で終わるんだから」


「――それも、そうですね」



女狐のように醜く歪んだ口元に、崇人が気づくことは終ぞなかった。


むせ返るような百合の香り。和洋折衷の格好で肩を並べ合う日向の親族たち。その好奇の視線が一様に夏希に集まるのを見て、優越感を満たす。

合同誕生日パーティーなんて馬鹿らしい。今夜の主役は自分なのだと夏希は胸を張る。


一方で葵は庭園を見やったまま、微動だにしない。けれどもその(かんばせ)に浮かんだ達成感に満ちた表情に、夏希は首を傾げるばかりだった。

なんだ、アレは。まるで一仕事終えた職人のようじゃないか。



「――当主様がご到着なされました」



その宣言と共に、数十という大人たちの居住まいが正される。

当主になれれば、次にこのように傅かれるのは自分なのだと思うと胸が躍った。しかもそれは、程なく先の未来に約束された光景なのだから。


開かれた襖の先から現れた男――事実上、夏希と葵の父にあたる男が間もなく重い口を開いた。



「……皆、よく集まってくれた。今夜は夏希が十九に、そして明日には葵が十八の歳を迎える。二人の娘が無事成人を迎えられたことを皆で祝おう」



乾杯の音頭と共に招待客は手綱を離された飼い犬のように(あざ)れ合い始めた。そのなんと卑しいことか、と夏希は群衆を一瞥し、父親にすり寄った。喧騒に負けぬように声を張りながら、けれども数多の男を籠絡してきた猫撫で声で。



「お父様、このような素晴らしい祝いの場を用意していただきありがとうございます」



当主はすり寄ってきた女に冷徹な双眸を向ける。それが自身の娘であると――今夜の主役であることを認識するのに一拍以上の時間を要した。その顔には、娘たちの誕生日を祝う父親の温情を取り繕う素振りすら見られない。

けれども、夏希は苛立ち一つ覚えなかった。父親の無関心は今に始まったことではないからだ。或いは一拍の間合いの正体を汲み取れなかったからだろう。


手にしたグラスを傾け、当主はただ機械的に「体裁のための義務」を熟すように口を開いた。



「――誕生日おめでとう、夏希。今年も一年よくよく励み、日向の家に貢献するように」


「はい、お父様。僭越ながら私、誕生日の贈り物に頂きたいものがあるんです」


「……言ってみろ」


「はい、お父様。どうか私と崇人さんの結婚をお許しいただきたいのです」



途端、大広間の喧騒が、水を打ったように静まり返った。

空気が泥のように重くなり、あたかも時間が止まったような錯覚に、当人たちだけが気が付かない。

ぎゅ、と夏希が崇人の腕に抱きつくと、勇んだ崇人もまた高らかに声を上げた。



「僕は――いいや、私は! 葵殿との婚約を破棄し、ここにいる夏希殿と新たな婚約を結びたく存じます! 葵殿は淑女としての品格に欠け、あろうことか他の男と不貞をも働いている。このような人間を我が伴侶……引いては日向の跡継ぎに、などとは到底認められない。故に、私は真に愛し、真なる淑女である夏希殿を妻に迎えたいのです!」


「……葵、これは事実か?」


「他の男との不貞は身に覚えがありませんが、淑女としての品格が欠けているのは事実かもしれません。よいのではないでしょうか、婚約破棄」



そう淡々と言う妹が、しかし内頬を噛んでいるらしいことに気が付き夏希はほくそ笑んだ。

……まさか妹が笑いを堪えるために噛んでいる、なんてところまでは見抜ける筈もない。


当主は崇人の訴えを聞き終えると、僅かに目を伏せ、組んだ腕を指先で二三度とん、とん、と拍を取る。



「……お前たちの件は話は俺の耳にも入っている。当事者達に文句がないというのなら好きにするがいい」


「ありがとうございます、お父様――」


「今この場で宣誓書にサインをするといい、俺の気が変わらぬうちに」



夏希は勝ち誇った笑みで差し出された宣誓書(こんいんとどけ)に筆を走らせた。続いて崇人が署名をする。

その間、夏希は目元を三日月に歪め酷く憐れむような表情を取り繕った後、軋むような強さで葵の肩に触れた。



「ごめんなさいね、葵。貴方の婚約者を奪ってしまって。それから、次期当主の座も――どうか恨まないでね?」


「はい、もちろんですお姉様。私は既に欲しいものは全て手に入れましたので。それに、誕生日プレゼントをこれほどに喜んでいただけて本当に嬉しいです」



そう葵は笑った。確かに、笑ったのだ。屈託のない笑顔で。偽りのない表情(かお)で。心から、夏希の門出を祝福するように。

ぱちぱちと場違いな葵の拍手が静まり返った広間に響き渡る。



「(……な、何よそれ。まさか、悲しさのあまり狂ってしまったとでも?)」



夏希は葵が泣いて悲しむ姿が見たかったのだ。地団駄を踏んで、泣き喚いて、縋り付くところが見たかった。

それを「ごめんなさいね、でももう決まったことだから」と蹴飛ばしてやれたらなんて素敵なの、と。


――けれど、なんだ、これは?


夏希の背に酷い悪寒が走る。まさか、自分は何か読み違えているのではないか、と。

夏希のとめどない思考に、当主の涼やかな声が合間に割って入った。


崩落は、そこから始まった。



「……確認した。雨燕、これを持って役所に届け出て来い」


「拝命いたしました」


「――それで、だ。葵、お前は今晩中に桜小路から迎え入れる婿を選ぶように。見合い写真はまだ手元にあるだろう。今度は恥をさらさぬよう、慎重に選ぶように」



はじめ、夏希は父親の言葉を理解できなかった。

今晩中。桜小路。婿。見合い写真。恥。

わかる、わかっている。けれど脳が処理を拒む。

つう、と夏希の頬に冷たい汗が一筋流れた。



「……え? お、お父様、どうしてでしょうか? だって桜小路からの婿なら崇人様がいらっしゃるではないですか」


「そ、そうです! 俺は、次期当主の補佐役として務めるよう任じられて――」



喚く二人の不協和音を、当主は手元の扇をト、と畳に突き立てることで制した。その仕草は、どこか集る羽蟲を払う仕草に似ている。

夏希はその時生まれて初めて、自分の行動で父親の表情が変わる瞬間を見た。無関心の瞳の奥に、嫌悪の色が滲むそのさまを。



「何を馬鹿なことを言っているんだ。婚前交渉を繰り返し、妹の婚約者を略奪するなどという愚行を犯したお前は家門に泥を塗ったに相違ない。そんなお前を次期当主に指名することなど万に一つありえないだろう。……まさか、自分こそが次期当主に相応しい、などと?」


「で、でも結婚を許してくれるって……」


「それは父親として、だ。この際だ、俺もけじめとしてこの場で処分を下す。日向夏希、お前を日向一門から追放するものとする。一晩時間をやるので、荷物をまとめ明朝までに家を出ろ。二度とこの屋敷の敷居を跨がぬように」



宣告は、まるで冬の朝のように淡々としていた。そこにはヒステリーに対する嫌悪こそあれ、夏希への憎しみも憐れみも悲しみもない。


……父は、無関心だった。けれど、多少の愛は持っているものだと、そう思っていたのだ。

だって、少なくとも自分は妾腹の子。政略結婚によって迎えた女ではなく、恋人との娘なのだから。それは、夏希が葵よりも1年も早く生まれてきたことからも明白だと、そう信じてきた。

けれど、その期待は始まりから終わりまで、全てが尽く誤りだった。


その瞬間、極めて機械的に、父親は(むすめ)を盤上から排除した。

夏希は(むすめ)ですらなくなったのだ。


当主の矛先は娘に留まらない。当主は蔑みの視線を崇人に投げかけた。



「それから桜小路崇人、お前の借金を肩代わりする約束だが、アレは白紙にさせていただく。当主の伴侶となる者は我が息子も同然と思っての慈悲だったが、夏希を選ぶというのであればその筋合いもないだろう。当然だな?」


「そ、そんな、ご当主様……!」


「――借金……?貴方、そんなことひと言だって――!」


「だ、だって、日向家が肩代わりしてくれるはずだったから言う必要もないかと……!」



『借金』――衝撃に、凍てついたようにその場から動けなかった夏希を復活させたのは、あろうことか、そんな最悪な言葉だった。


……嘘、なにそれ、そんなこと一度だって……!


黙っていた崇人の責任か、或いは籠絡に夢中になり見抜けなかったの夏希の落ち度か。

いや、違う、そんなことよりもっと大切な問題がある。今、夏希(わたし)は先程、婚姻届に署名しなかったか――?


夏希が崇人の胸ぐらを掴みかかったのは衝動的なものだった。

たった一度、その衝動的な行動で夏希の積み上げてきた『良き姉』は無惨にも崩れ落ちた。最も悲惨なのは、それを夏希だけが理解できていなかったことだろう。


それに追い打ちをかけるように、当主は口を開く。



「これは年長者としての助言だが、崇人、そのギャンブル依存症は医者にかかったほうが良いだろうな。桜小路の予算を食い潰すなど呆れて物も言えん」



ギャンブル依存症。それはつまり、暫くはどうにも治らないという事実を突きつけられていた。

適切な治療とサポートさえあれば、日常生活を送ることは可能だろう。だが、それは完治、更に言えば再発しないということを意味しない。

治療を受けるには金がいる。けれどその金を食い潰してしまえば元も子もない。


これから家を頼ることのできない状況が宣告された最中、唯一の頼みの綱であった崇人すらもハリボテの盾であったことが露見してしまった。

例え夫婦に返済義務がなくとも、崇人は必ず夏希に縋ろうとするはず――



「ありえない、こんなのありえないわ!こ、婚約破棄よ!」


「……もう宣誓書は雨燕が持って行ってしまったな? 追いかけても構わないが、もう間に合わぬだろうさ。離縁するには裁判が必要だが……何にせよ先立つものがなければどうにも、な」



金。それは箱入り娘であり浪費家でもある夏希には耳の痛い話だった。

父親から定期的に祓い屋の仕事を請け負い渋々ながらも働いていた葵と違い、夏希には退魔の才も努力する心もなかった。故に何かと理由をつけて、ほとんどの仕事を葵に押し付けてきたのが生涯だった。

故に日々の生活は日向家の予算に頼りきりだったのである。


けれど、今までは父が払ってくれていたからどうにでもなった。あの男は子供が求めれば与えてしまう――無関心故に。

けれど、これからは父に頼ることも家に頼ることもできない。何故ならばもう既に破門が言い渡されてしまっているから。



「ね、ねぇ、お父様。すぐ、すぐにこんな男とは離縁するわ。だから独り身になったらまた家に戻してくれるわよね? も、もう、次期当主の座なんて言わないわ。言わないから、またお部屋に戻してくれるわよね――?」



夏希には最低限の学しかない。祓い屋としての修行もおざなりにしていた以上、これから生計を立てていく手段がない。であれば、身を売るか、或いは――。

何れにせよ、それが今の生活からどれほどの転落になるのかは言うまでもない。


夏希は父親の足元に縋り付いた。どんな醜態を晒しても構わない。どうにかこの父親を丸め込まなくてはと必死だった。そうでなければ、夏希は生きていくことすらままならない。


……けれど、どうして駒ですらなくなったものに棋士が興味を注ごうか。


夏希は縋るように周囲を見渡した。けれど数刻前まであれほど自分を慕っていたはずの女中たちは皆、一様に自分と目を合わせようとしない。



「……夏希、俺は一度言ったことを撤回する気はない。梧桐からもお前の素行について『報告』が上がっている。なるほど、随分と奔放に遊び歩いて居たようだな。当然、不特定多数の男と関係を持つものを日向一門の人間として認めるわけには行かない。他所の血で祓御三家の血を薄めるわけにはいかないからな。そんな事もわかっていなかったのか?」



そろそろと、渦中から抜け出そうとしていた葵は、あっと顔を顰めた。なるほど、『件の件』とはこのことを指していたのか、と。

それからその動機も思い当たる節があった。

右京の前で見苦しくうやむやにしたあの日、たしかに他でもない葵が「『他』に目を向けろ」と言ってしまったから。

右京はそれを真に受けて、激務の合間を縫って思いもよらぬ援護射撃(オーバーキル)をしてくれたらしい。



「も、もうしない、もうしないわ!」


「それはありえないだろう。妹の婚約者を略奪したという事実が動かぬ証拠だ。現状を省みるがいい、どの口が信用してくれというのか」



やられた。まんまと葵にはめられた……!

あの女は、すべて理解していてここまでずっと黙っていたのだ。



「(……いや、違う。アレは『誕生日プレゼント』と言っていた……!)」



であれば、この転落も彼女の計画の範疇である可能性すらあるわけで――!夏希は葵を睨めつける。いや、睨めつけようとした、が正しいだろう。夏希が葵を睨みつけることはついぞ叶わなかった。なぜならば、葵のいるはずの場所には既にもぬけの殻になっていたのだから。



 

***




雨燕は役所に速やかに宣誓書を提出した後、約束のポイントまで車を回した。

黄昏が青空を、山々を、街並みを侵食している。西の空には宝石を嵌め込んだ様に一番星がきらりと煌めいていた。

くるりくるり。約束の公園の前まで車を回すと、雨燕は東屋に人影を確認した。


晴空には場違いな番傘に、少女の体には大きな焦茶のトランクケース。流行小説を読み耽っていたらしい彼女は、排気音にぱっと顔を明るくした。



「無事抜け出せて来ましたか、葵お嬢様?」


「もちろん。ありがとう、雨燕。じゃあ、駅前まで車を回して。そこからは一人で行ける」


「えー。本当に一人で行けるんですか? 遠いですよ、帝都は」


「遠いから選んだんだよ、家出先(プレゼント)に」



あ、汽車に乗る前に駅弁も買わなきゃね――と、後部座席に乗り込んだ葵が弾んだ声で言う。


日向葵という少女はどこまでも誕生日に真っ直ぐだった。そんな彼女が自分への細やかな贈り物として用意したのが、この逃避行である。姉の誕生日のためにあれほどの情熱を費やした彼女が、自分の誕生日のために気合を入れないはずがなかった。

成人を迎えた今、彼女を引き留める法はなく、彼女の不在に気づく余地はあの屋敷に残されていない。彼女の家出に気がついたときには、葵はすっかり帝都に足を踏み入れているところだろう。

 

この逃避行は彼女自身への贈り物であると同時に、日向という家への細やかな復讐である。つまり――勝利のただ乗りなど許さない、と。

日向はこれによって後継者の悉くを失ったことになる。日向は祓御三家と呼ばれるような古い家のため、直系相続を信奉しているし、何より祓御三家が管理・維持する結界のためには血の濃い優秀な退魔師が必要なのである。日向はこれから葵探しに苦労させられるに違いない。

もし仮に日向が葵の回収を諦めたとしても、葵は晴れて自由の身なのだからむしろ本望で。どう転んでも葵の一人勝ちなわけである。

はてさて、今頃正義面して我が子に鉄槌を下していたあの父親はどんなに頭を抱えていることだろうか。



「(……そもそも浮気に関しては、父上はお姉様を責められないのにな。不貞の結果が姉様(アレ)だろう?)」



葵はくつくつと肩を竦めて笑う。

今日まで従順に家に尽くしてきたのも、コツコツお金を貯めてきたのも全ては今日の日のため。

途中、惚れ薬のためにいくらか金を費やしたが、葵の懐には慎ましく暮らせば暫く働かずとも生きていけるだけの額が納められている。



「いいですか、まず帝都に着いたら退魔師協会で登録を行うこと。そこで1人前に認められれば、退魔師協会から斡旋された仕事で普通に食いつないで行くことくらいはできます。寮も見繕ってくれるし」


「経験者はかくかたりき?」


「経験者はかくかたりき、です。またお屋敷が落ち着いたら右京先輩の目を盗んで会いに行きますから」



名残惜しくて、遠回りの道を選んだ。

先の黄昏は今や夜の帷に覆い隠されつつある。



「右京が気づかないといいんだけど。陸奥国から飛んで戻ってきたりしないかな」


「右京先輩の介入は災害みたいなものですから……雨天中止みたいな……」



今朝方突然葵に陸奥国への出張を押し付けられ、泣く泣く旅立った右京の姿を思い出す。

思い返せば、きっと今夜のパーティーで葵と勝利の美酒を共にしようという所存だったのだろうが、生憎葵にとっては彼自身すら警戒すべき難敵だった、と。

彼の恐ろしいところは、陸奥国からですら事態に気がついて飛んで帰ってきそうなところにあった。

そんな姿を想像すると、雨燕はおかしくて仕方がない。


文明の発達が恨めしい。車は紆余曲折を経て、しかしあっという間に京都駅前まで着いてしまった。

未だルネサンス調の外観を保つ京都駅は今にも薄闇に沈もうとしている。

雨燕はわざわざ運転席から折り立ち、甲斐甲斐しく後部座席の扉を空けてやった。姉妹のように毎日顔を合わせていた二人の日々も、これで一度終止符。



「じゃあね、雨燕。たくさん付き合ってくれてありがとう。お正月にははがきを出すし……あ、雨燕の実家にこっそりお手紙も送るよ」


「そうしてください」



歩き出した少女の足取りは軽い。けれどその風が吹けば飛ばされそうな後ろ姿に雨燕は不安を覚えた。雨燕の知る彼女であれば、きっと強風を乗り継いで世界一周でもしてしまうのだろうけれど。



「……葵お嬢様!」



思わず声を上げて、雨燕は少し後悔した。

なんだか、物悲しい気分になってしまったから。

だが、これは誕生日プレゼントなのだ。祝いのための門出なのだ。であれば嘆き悲しむのはお門違いということだろう。

 


「……来年の誕生日くらいにはこっちに戻ってきてくださいね!」


「――それは無理!」



元気に手を振って、少女の影は夜に吸い込まれていく。

駅弁を片手に夜行列車に乗り込んだ葵は、車窓の彼方へ過ぎ去っていく黄昏を眺めながら夢見心地で呟いた。



「そうだ、お姉様の来年の誕生日プレゼントはなににしようかな……」



少女の物語(たび)は此れより始まる。


お付き合い頂きありがとうございました!

面白いと思って頂けましたら、下の☆マークから評価・リアクション登録・感想などなどをどうぞよろしくお願い致します!


日間総合の下の方にちょろっと入れたみたいです!ありがとうございます!


言い訳:

本来は家出した葵を取り巻く中編を描くつもりが冒頭で筆が乗り過ぎてこんな有様になってしまいましたとさ。とても充足しています。

6月15日の誕生花は立葵だそうで、それに合わせて投稿しました。向日葵の日までは待てませんでした。

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― 新着の感想 ―
右京が間に合わなかったのがすごく嬉しかったです。葵はそのまま東京で元気に生きてほしいです。
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