第8話 デバッグの終焉
セレスティアル・グランドタワーでの「事故」から一週間。
三谷恒一は、組織が用意した新たな潜伏先――地図にも載っていない古い変電所の地下室にいた。
部屋には窓がなく、剥き出しのコンクリート壁が三谷の荒い呼吸を撥ね返している。
机の上には最新鋭のワークステーションが不気味な冷却音を立て、その青白い光が三谷の顔を照らしていた。
「……熱だ。熱が、俺を焼いたんだ」
三谷は、微かに感覚の麻痺した自分の指先を見つめた。
織部悟。
あの男は、三谷が心酔した「デジタルの万能感」という前提条件そのものを、排熱というあまりに初歩的な物理現象で否定してみせた。
三谷は狂ったようにキーボードを叩き始めた。
彼が行っているのはハッキングではない。
タワーでの自らのログ、織部の微細な動き、気流の変化、センサーの反応速度――そのすべてを、一秒、一コンマ単位で再現し、自らの「敗北の原因」を特定する徹底的な自己デバッグだった。
(俺の論理は、まだ『閉じて』いなかった。外側の物理と繋がっていなかった)
三谷の瞳は充血し、異様な光を放っている。彼はもはや、かつて図書館で見つけたような「正しい仕様」など求めていない。
織部という最強の検閲官を突破し、その喉元を食い破るための「論理の毒」を精製することだけに没頭していた。
***
同じ頃、織部悟は、いつものように古い事務所で一杯の安物のコーヒーを啜っていた。
机の上には、タワーの事後報告書が置かれている。
『サーバー室での消火ガス放出事故。原因は、サーバーの過負荷による異常排熱と熱感知器の誤作動。当時入室していた中央総設の点検員は、警報直後に退出し無事が確認されている。死傷者なし』
織部は、その「死傷者なし」という一行を見つめ、静かに目を細めた。
中央総合設備のマスターカードを持ち、正規の点検員としてサーバー室に入室していた三谷恒一は、あの日、忽然と姿を消した。
窒素ガスが充満したあの密室から、人間が生きて出られるはずがない。
だが、床に残された僅かな擦過痕と、壁際のEPS点検扉が開けられた形跡が、一つの事実を告げていた。
(……逃げたか。仕様の隙間を抜けて)
織部は驚いてはいなかった。
ただ、計算式の中に「未知の変数」が入り込んだことを、事務的に認識していた。
三谷という男は、単なる未熟な改竄者から、システムを内側から食い破る「害獣」へと変質したのだ。
織部は、使い古された点検ノートを開いた。
そこには、ミスター・ルールが関与していると思われる重要施設のリストが、独自の暗号で記されている。
彼にとって、三谷はもはや「ついでに処理すべきノイズ」ではない。
仕様書そのものを根底から腐敗させる、最優先の「不備」となった。
***
深夜。三谷の地下室に、ミスター・ルールが姿を現した。
仮面の男は、三谷がモニタに展開している膨大な「敗北の再現データ」を一瞥し、満足げに頷いた。
「素晴らしい集中力だ、三谷君。君は今、本当の意味で『言語』の真髄に触れようとしている。織部という物理的な壁にぶつかったことで、君の改竄は、単なるハッキングから『世界の再定義』へと進化した」
「……次の舞台はどこだ」
三谷は顔も上げずに問いかけた。その声は掠れ、ひどく冷たかった。
「次は、閉ざされた塔ではない。もっと広大で、もっと無防備で、そして……誰もが『安全である』と疑わない場所だ」
ルールは、三谷のモニタに一つの地図を表示させた。
それは、都心と郊外を結ぶ、最新鋭の無人自動運転システムを採用した「新都市交通ライン」の路線図だった。
「一日の利用客は三十万人。すべては高度な中央管制システムによって、マニュアル通りに、寸分狂わず制御されている。君の仕事は、この『完璧な定時運行』という仕様の中に、たった一箇所だけ、決して校正できない不備を書き加えることだ」
三谷の指が止まった。
無人走行。定時運行。完全自動制御。
それは、人間が最もマニュアルに依存し、思考を停止している巨大なゆりかごだ。
「織部も、必ず来る。彼は『三十万人の安全』という巨大なマニュアルを守るために、その身を投じてくるだろう」
ルールの言葉に、三谷の口元が醜く歪んだ。
ふと、三谷の脳裏に、かつて物流センターの事務机で、真面目に点検表を埋めていた自分の姿がよぎった。
あの日握りつぶされた自分の正義。あの日死を覚悟させた織部の校正。
そのすべてが今の自分を形作る、正しい因数だ。後悔はない。
あるのは、修正すべき不備のリストだけだ。
「……デバッグを始める」
三谷は再び、キーボードを叩き始めた。
暗い地下室で、モニタの明かりが彼を怪物のように照らし出している。
織部との「激突」から、今の「潜伏」へ。
それは、より凄惨で、より大規模な、終わりの始まりを告げる静寂だった。
(第9話「定時運行の死角」へ続く)
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